34.休息
「…あれ」
薄っすらと開いた目に入ったのが、白っぽい色の天井で、少し混乱する。瞬きをしているうちに、徐々に目が覚めてきた。ここは、どこだろう。身体を動かすのが億劫で、目だけきょろきょろと緩慢に動かして、周囲を伺う。ここはどこかの部屋で、どうやら自分は、ベッドに寝ているらしい。
眠る前は、自分は何をしていたんだっけ。よく思い出せなくて、ぼうっと天井を見る。瞼の裏に一瞬暗い石の天井が映りこんで、急速に意識が浮上した。そうだ、あそこから逃げて――。
身体を起こすと、頭が少しぐらぐら揺れる。気持ち悪さに息がつまった。ぽとっと、湿った白い布が額から落ちて、じわりとシーツに染みを作る。
「…?」
誰かに、看病されていたんだろうか。すぐ横のサイドテーブルには水の入った小さな桶が置かれていた。
身体は、なんだか、妙にすっきりしている。着ているのは、自分とリュゼの血でぐちゃぐちゃだった生成色のシャツではなく、ぶかぶかの大きな黒いシャツ。袖がかなり余っていて、手が全然出てこない。
「…?……?」
あれ?私、着替えたっけ?
頭に?を大量生産しながら首をひねる。ガチャっと扉が開く音がして、混乱したままそちらを見やると、紺色の瞳と目が合った。
『目が覚めたか』
ヴェルはそのままこちらまで歩いてきて、ベッドに腰掛けた。彼の体重で、マットが少し沈む。
伸ばされたヴェルの手が、私の額に軽く触れた。
『熱は治まったか』
ああ、そういえば、熱があったんだ。廃墟みたいな大きな建物で、ベンチに座って眠ってしまったんだった。
『…ふく』
じゃあ、誰が着替えさせたんだ?ヴェルを見上げると、すいっと目を逸らされる。
…まさか。
『ヴェル…?』
『寝苦しそうだったので、軽く湯に入れて、着替えさせた。湯は服の上からかけたし、着替えさせるときも身体は見ていない。身体も、乾かす時は術式を使ったから、直接触れていない。服は、お前のは…あちらで着ていた、穴だらけのものしか無かったから、ひとまず私の服を着せた。裾が長いから下は履かせていないが、問題ないだろう?』
早口でペラペラ話し出すので、上手く聞き取れない。裸を見た言い訳でもしているのかと思って思い切り睨みつけると、ヴェルは口を噤んで、きゅっと眉を寄せた。
『…見た?』
『……見てはいない』
少し間があったが、嘘をついているようには見えないので、一応信じることにした。それに、血まみれ汗まみれで寝るよりはずっといい。
『…ありがとう』
小さくお礼を言って、シーツに転がったままだった、濡れた布を取る。彼が看病してくれたんだろう。
『いや…』
ヴェルは呟いて、私の手から布を取って、桶に戻した。
『ここ、どこ…?』
『隣町の宿だ』
『どれくらい、寝てた?』
『ああ…1日と少しか。今は朝だな』
『たくさん、寝た。ごめん』
『いや。追っ手はないから気にするな。そもそもあちらも、我々を捕らえたところで特に益もないだろう。せいぜいが、醜聞が広まるのを抑えられるくらいか』
『リュゼは?』
『隣の部屋でまだ寝ている。出血が多かったから、回復まで時間がかかるだろうな。今はグレイプニルが見ている』
『そう…』
『…食事は、摂れるか』
『うーん…』
船を降りてからはまともな食事をしていない。いきなり食べたら、お腹を壊しそうだ。
『スープ、なら』
『そうか、それなら持ってくる』
立ち上がって、部屋から出て行くヴェルの背中をぼんやり眺める。不意に、着ているシャツから彼の匂いがして、顔が熱くなるのを感じた。
彼が持ってきてくれたのは、野菜のスープだった。コンソメみたいな色をしていて、小さく角切りにされた野菜が入っている。ベッドに座った膝の上にお盆ごと乗せて、スプーンを握った。しかし、右腕の、二の腕のあたりがびりっと引き攣れたように痛んで、思わず取り落としてしまう。そういえば、怪我してたんだった。意識してみると、柔らかい包帯の感触がある。ヴェルが巻き直してくれたのかもしれない。
左手でスプーンを拾い上げる前に、ヴェルが先に拾って、お盆も取り上げられる。スプーンが、こがね色のスープを掬った。
『……』
口元にスプーンが突き出されて、思わずヴェルに困惑した視線を送る。
『なんだ』
『…いや、自分で…』
『落としただろう。いいから、口を開けろ』
『う…』
言われるがまま口を開けると、スプーンが口の中に差し込まれる。暖かくて、優しい味のするスープだった。
『…おいしい』
『そうか』
優しくなった眼差しに、少し心臓が跳ねる。次のスープが口元に差し出された。…なんか、餌付けされてるみたい。出されるがままスープを飲んでいたら、完食していた。
『身体の調子は?』
『…大丈夫、元気』
『そうか。腕の傷は…痛むか』
『ううん、あんまり…』
さっきは、びっくりして落としただけだ。そこまで痛くはない。それよりも踏みつけられたお腹の方が痛い。襟ぐりを掴んで広げて、ちらっと見下ろす。酷い痣になっていた。あの男、今度会ったらただじゃおかない。ヴェルにやっつけてもらおう。
『どうした』
『なんでもない』
居住まいを正して、ヴェルに向き直る。
『ヴェル、助けてくれて、ありがとう』
ちゃんと、お礼を言えていなかった。ぺこりと頭を下げると、ふっと笑う気配がした。
『別にいい。…お前は随分と、運が悪いな』
『…』
否定できない。むうっと見上げると、彼は呆れたような笑みを引っ込めて、少しだけ眉を顰めた。
『心配した。あと、無闇に使い慣れていない武器を振り回すな。怪我をしたらどうする』
『…ごめんなさい』
仕方の無い事態だったとはいえ、だいぶ無茶な使い方をした。身体がだるいのは、それもありそうだ。筋肉痛的な。
ふと、脳裏をカトリーナの姿が過ぎる。彼女のことは、よかったんだろうか。
『カトリーナ、は…、いいの…?』
『は?何がだ』
『だって、ヴェル…』
彼女の手を取って、口付けをしていたじゃないか。もやもやして指先でシーツを弄る。
『…?まあ、元雇用主だが、特に何も』
『こようぬし?』
『…船で、警備していた相手だ』
『…ふうん』
なるほど、だからカトリーナは「また私の下で働く云々」という感じのことを言っていたのか。
『…何を勘違いしているか知らないが、あの女には特別好意を抱いたことはないぞ』
『こうい?』
『…好きではないということだ』
『…ふうん』
へえ、ヴェルは好きでもない女の人の手にちゅっとかしちゃうんだ。へえー、ふうーん。いや、映画とかではよく外人が手の甲にちゅっとかして、あらまあ!みたいな(語彙力)、そういうのはよく見ますけど。女の敵だ。顔に出ていたのか、ヴェルが顔を顰めた。そんな怖い顔しても、もうヴェルのそういう顔には慣れたから怖くないもん。
『そういえば、随分と言葉がわかるようになったな』
む、あからさまに話題を変えたな。そう思ったが、まあいいか、と思い直して、話題に乗ることにした。
『うん、船で、みんながいっぱい喋ってたから。ニルさんが通訳してくれるから、けっこう覚えた』
『船での生活はどうだった』
『楽しかった!』
『…そうか』
ふわっと笑うその顔が、驚くほど穏やかで、思考が止まる。
『…それで?どんなことがあった』
『ええと、みんな、いい人で、あ、エリクっていう男の子がいて――』
動揺を隠すように、一生懸命喋る。結局それから、隣室で寝ていたリュゼが起きたとニルさんに呼ばれるまで、ヴェルとふたりでのんびり話をしていた。




