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33.助け

 安心したせいか、涙が止まらなくて、顔をぐちゃぐちゃにしながらしゃくりあげる。多分ヴェルのシャツは、私の涙とか鼻水とかで大変なことになっている。気にする余裕がなくて、しがみついたまま、現実だと確かめるように、馬鹿みたいにヴェルの名前を何度も呼んだ。

『ひっく、う、ヴェルっ』

『遅くなって、すまない』

『…ううんっ、来て、くれて、ありがとう…っ』

 ヴェルの大きな手が、背中を撫でる。身体から力が抜けて、へたり込みそうになった。…違う、まず、やらなきゃいけないことがある。

『ヴェル、お願い、ひっく、リュゼっ、たすけて』

 顔を上げて、ヴェルの顔を見上げる。暗くてよく見えない顔が、ちらりとリュゼの方に向いた。

 リュゼはこちらをぽかんと見上げたまま、肩で息をしている。ヴェルが私の身体を離して、リュゼの前に膝をついた。

『…出血が多いな。取り敢えず傷は塞ぐが、流した血は戻らない。助からないことも覚悟しておけ』

『…っ、うん…』

『内側から先に塞ぐ。荒療治だが、時間がない。傷口に少し指を入れる。噛んでろ』

 ヴェルが、リュゼの口に布を突っ込んだ。もごもごとリュゼが何か言っているが、ヴェルは無視して傷口に手を掛ける。

『一瞬だ、耐えろ。意識は失うな。押さえている手を離せ』

『…』

 リュゼの手が、躊躇いがちに腹部から離れる。どぷりと、彼の手で押さえられていた血が床に伝った。どくどく血を吐き出す傷口に、ヴェルが容赦無く指を突っ込む。

『んんんんんっ!』

 くぐもった叫び声が、リュゼから発せられる。ヴェルの指先からビリっと光が走って、すぐに引き抜かれた。腹部の皮膚の上をなぞって、傷口を塞いで行く。リュゼは苦しそうに目をつぶって、肩で息をしていた。リュゼの口から布を出して、ヴェルが呟く。

『…まあ、応急処置だ。傷口は塞いだから、多少激しく動いても問題ないだろうが…後程、グレイプニルに治療を頼むのが良いだろうな』

『ヴェル、ありが、とう…』

 シャツの袖でごしごし顔を擦って、涙を抑え込む。目の周りがヒリヒリしてきた。

『こんなところ、さっさと出るぞ。これだけ騒ぎになってるんだ、今更こそこそ動いても仕方ないだろう。面倒だ、蹴散らして行く』

 ヴェルらしくない荒っぽい言葉に、びっくりして見上げる。月明かりに照らされて、ヴェルの顔がちらりと見えた。どこか、いつもと違う。苛ついている…?

『リュザフィール、立てるか』

『なん、とか…』

 リュゼはふらつきながら、壁に手をついて立ち上がった。転がった剣を拾って、鞘に戻して返すと、リュゼはそれを杖代わりにして体重をかける。

『スグル、右腕を出せ』

『…?』

 言われた通りに腕を突き出すと、ヴェルは二の腕の切り傷を見下ろして、複雑そうに顔を歪めた。術式が発動される気配がするが、いっこうに塞がる気配がない。…おそらく、出血が酷いせいだろう。

『チッ』

 苛立たしげに舌打ちをするヴェルに、びくっと身体が跳ねる。ちらっと彼の顔を見上げると、苦虫を噛み潰したような表情になって、『…悪い』と小さく謝罪の言葉を漏らした。

 急ごしらえのバリケードが、衝撃でグラグラ揺れ始めている。もうそろそろ限界だろう。ヴェルは、おそらく蹴破ったのであろう窓から下を見下ろして、何やら思案している。リュゼと一緒にヴェルの側まで行くと、ヴェルの鋭い視線がリュゼに向けられた。

『リュザフィール、飛び降りられるか』

『…なんとか、ギリギリ…』

『こちらの方が手っ取り早い。スグルは私が抱えて降りる。お前が先に降りろ』

『ええぇ…』

 げんなりした声を上げるが、リュゼは覚悟を決めたのか、ゆっくりと出窓に足をかける。

『一応、重傷だったんだけどなあ…』

『いいから行け』

 厳しい口調に唸り声をあげて、ひらりと窓から飛び降りる。窓から身を乗り出して下を見下ろすと、しっかり着地したらしいリュゼが、こちらに軽く手を振っていた。

『我々も降りるぞ。スグル、こちらへ』

 手を引かれて、横抱きにされる。お姫様抱っこ、再びである。やっぱりどうしても照れてしまって、近い距離にあるヴェルの顔が直視できない。

『しっかり掴まっていろ』

『…うん』

 ぎゅっと首に回した手に力を込める。ヴェルは身軽に窓から飛び降りた。激しい衝撃を覚悟していたのだが、殆ど衝撃は無かった。思っていたよりあっさりした着地に、拍子抜けして目を瞬かせる。ヴェルは私の身体を地面に下ろして、周囲に視線を走らせた。

『多少減らしはしたが、ここは無駄に警備が多いな。こちらに向かってくる足音がいくつかある。裏口にグレイプニルを待たせている、もう少し移動するぞ』

『うん』

 ふらつくリュゼの身体を時折支えながら、ヴェルの後ろに続く。ヴェルは剣を抜いたまま、ずんずんと、周囲を気にせず歩いて行く。…なんというか、豪胆だ。

『おい、待て!』

 追いかけてきた警備を、特に気にする風もなく、一撃で地に這わせ て行く。目の前で平然と繰り広げられる殺戮に、感覚が麻痺して来たのか、もはや何の感情も沸き起こらない。ヴェルが剣を振ると、纏わりついていた血が飛沫となって、ぴしゃりと地面に飛んだ。

『死にたくなければ邪魔をするな!』

 吠える声に、取り囲んで来ていた警備が立ち止まる。

『…お兄さん強烈だね…』

『うん…』

 我々がギリギリのところで必死に進んで来たのが、なんともアホらしくなってくる。警備の人たちも攻めあぐねているのか、少し離れたところから剣を構えたまま様子を伺っている。…できれば、無駄に命を散らすような真似はしてほしくない。

 淡々と剣を振るうヴェルの背中は、普段通りのように見えるが…気配が、いつもよりビリビリと鋭い。リュゼもそれを感じ取っているのか、ヴェルを追いかける足取りは重かった。

 ヴェルの足が、裏口の前に広がる庭に差し掛かる。

『っ、ヴェルディ!?』

 不意に高い声が響いて、ヴェルの動きが止まった。剣を肩に乗せて、ちらりと声のした方に視線を向ける。

『ヴェルディじゃないの!わたくしに、会いに来てくださったの…?』

 長い金髪の女性が、庭を駆け抜けてこちらに近付いてくる。カトリーナ、だ。そっとヴェルの背中を伺うが、ヴェルは無表情で彼女の方を見るだけで、何も言わない。

 カトリーナは、ヴェルの後ろに呆然と立ち竦む私とリュゼなど見えていないように、ヴェルの前に立って、陶然と微笑んだ。

『また私の為に働きたいのね?よろしくてよ、今までの無礼は無かったことにしてあげるわ。ねえ、今度は私の――』

『…邪魔だ』

 滔々と語りだしたカトリーナを遮って、ヴェルは肩から剣を下ろした。返り血が、剣を伝って地面に吸い込まれていく。背中から感じていた、ビリビリした圧が膨れ上がるような感覚に、リュゼとふたりしてびくっと身体を跳ねさせる。

『ヴェ――』

『お前の下につくつもりはない。邪魔をするなら殺すぞ。失せろ』

 後ろに立っているだけで鳥肌が立つ。正面でヴェルの視線を受け止めたカトリーナは、腰を抜かしてへたり込んだ。

『…行くぞ、スグル』

 こちらを振り向いたヴェルの顔は、いつも通りの落ち着いた表情で、おっかなびっくり近くに寄る。ヴェルはへたり込んだカトリーナには一瞥もくれず、庭の草木の間を進んでいった。

『ヴェル、いいの…?』

『なにが』

 心底意味がわからない、といった風にきょとんと見下ろされて、口をつぐむ。カトリーナとは、そういう仲じゃなかったのか…?彼女は随分ショックを受けていたようだが、前を見据えるヴェルの顔は冷静だ。あれ、私の勘違いだろうか。問い質すのも違う気がして、黙り込んでヴェルの背中に続く。

 警備はもう追ってくるのを諦めたのか、庭を抜けても人影は無かった。…ヴェルは『多少減らした』と言っていたから、単純にこの辺りの警備は既に居ないのかもしれないけど。

 程なくして、裏口の門が見えてきた。両脇には、どうやら門番だったらしい兵が倒れている。おそらくヴェルにやられたんだろう。

――優!

 声を掛けられて、思わず駆け出す。

『ニルさん、ニルさん!』

 真っ白な獣の首元に顔を埋めて、ぎゅうぎゅう抱きしめる。

「心配かけて、ごめんね。来てくれてありがとう」

――全くだ。

 怒ってるのかなあ、と思ったが、覗き込んだ青い目は優しい。ほっとして、笑みがこぼれた。

『この後は、どうするの?』

 ヴェルの方を振り返ると、剣を鞘に収めながらこちらを見下ろした。

『ここを離れる。宿を取ると足がつきかねないし、この状態で行くわけにもいかない。一旦別の場所で休むが、構わないか』

『うん。リュゼは?』

『大丈夫…』

『ニルさん、リュゼ、乗せてもいい?』

 少しだけ嫌そうなニルさんをぎゅっと抱きしめて、お願いする。承諾するように背を向けてくれたので、リュゼを引っ張ってきて、ニルさんに乗せた。リュゼは辛そうにしながらも、ニルさんの背中にしがみつく。

『スグル、来い』

 ヴェルに呼ばれて近くに行くと、抱き上げられた。

『ふぁっ』

 変な声が出た。唐突な横抱きは心臓に悪い。

 びっくりしてわたわたする。バランスを崩しそうになって、慌てて首に掴まった。至近距離から紺色の瞳に見つめられて、顔に熱が集中する。

『少し走る。お前の足ではついてこられないだろう』

『…っ』

 まあ、そうだけども、それ、おんぶの方が緊張しないので、変えてもらえないだろうか。

 そう進言する前に、ニルさんとヴェルは駆け出してしまった。



 目隠しされてここまできたので、アルネイアの街並みをちゃんと見るのは初めてだった。暗いし、視界もぐわんぐわん揺れているので判然としないが、煉瓦造りの建物が多い気がする。道は同じ煉瓦でしっかり舗装されていて、多分、ここは豊かなんだろうな、とぼんやり思った。領主の館も、全貌は見えなかったが…お城なんじゃないかってくらい、大きな庭があったし。メイソンさんは治安が悪いって言ってたけど――ふと彼の顔を思い出して、かぶりを振る。忘れよう、きっともう会うこともない。

 ヴェル達は街外れまで走って、森を背にして建つ、かなりボロボロの建物の前で立ち止まった。三角形の大きな屋根のてっぺんには、円と十字が組み合わされたエンブレムのようなものが乗っかっている。なんだか、教会みたい。壁はところどころ欠けていて、廃墟一歩手前という感じだ。

 ヴェルに促されて中に入ると、がらんとしたホールになっていて、壁際に小さなベンチがいくつか並んでいる。木製のそれは、いくつか壊れて床に転がっていた。他には特に何も無い。吹き抜けの天井の奥の壁には、大きな窓…があったのだろうが、ガラスは割れてしまっていて、風がびゅうびゅう吹き込んできた。冷たい風に火照った体が冷やされて、ぶるりと震える。廃墟一歩手前じゃなくて、廃墟だ。

 ニルさんの背中からリュゼを下ろして、ヴェルがベンチのひとつに座らせた。リュゼは少し荒い呼吸で、小さく『ありがと』と呟く。気が抜けたのか、彼はそのままくたりと背凭れにもたれて、意識を失ってしまった。

『グレイプニル、頼めるか』

――…ああ。

 ニルさんが、自身の爪で毛皮を引っ掻く。じわりと滲んだ赤い血が、意識を失ったリュゼの口に、少しずつ、少しずつ垂らされていった。その様をぼんやりと眺めながら、ほっとしてその場にへたり込む。

『……はああああ……』

 大きく息を吐き出して、目を閉じる。多分リュゼはもう大丈夫だ。正直、何度も…もう駄目かと思った。アドレナリンが切れたのか、腕がずきずき痛むし、お腹も痛いし、熱っぽい。頭がぼうっとしてきて、そのまま身体がぐらりと傾いだ。

『っ、スグル!』

 肩を掴まれて、はっと意識が浮上する。

『…あ、ごめん、大丈夫』

 ちょっと、疲れが出ただけだから。頭を軽く振って、気持ちを切り替える。ずっとここにいるわけじゃないだろうし、なるべく頭はしっかりさせておかないと。

 ヴェルは何も言わずに、私の身体を抱き寄せて、額に触れる。びっくりして見上げると、彼の眉が顰められたのが見えた。

『…熱がある』

 抱き上げられて、リュゼが座っているのとは別のベンチに座らされる。いつかのように、背中に腕がまわされて、肩を抱き寄せられられた。硬い胸板に、こつんと頭があたる。

『少しここで休むから、眠っていい。後のことは気にするな』

 静かな口調に、なんだか緊張の糸が完全に切れてしまって、意識が朦朧としてくる。ヴェルの腕の中は、なんだか、凄く安心する。なんでだろう。そんなことを考えているうちに、目の前が真っ暗になった。

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