30.希望の糸
夢を見ていた。
私は、白い獣になっていた。森の中を走る足取りは軽い。どこか高揚した気持ちで、木々の間を駆け抜ける。
少しすると、小さな小屋が見えてきた。可愛らしい赤い屋根の、木製の小屋だ。小屋の前には小さな池があって、その前のベンチで黒い髪の少女が本を読んでいた。こちらに気付いたのか、顔を上げた少女が、穏やかに微笑った。
気分が更に高揚して、飛び跳ねるようにして彼女のそばまで駆け寄る。頭を優しく撫でられて、心地よさに目を細めた。彼女は本を閉じて、何かの歌を口ずさむ。初めて聞くはずなのに、どこかで、聞いたことがあるような気がした。
ふと、少女の背後で、草むらが大きく揺れる。警戒してそちらを見やると、まだ幼さの残る少年が、木の幹に身体を隠して、こちらをじっと覗き込んでいた。
◇ ◇ ◇
ゆっくりと、意識が浮上する。最初に視界に入ったのは、石でできた天井だった。
「…?」
冷たい床はゴツゴツしていて、身体が痛い。ゆっくりと身体を起こすと、がりがりと背中が擦れた。
ここは、どこだろう。床は石畳で、明らかに先程いた部屋とは違う。というか、天井も壁も石でできているようだ。かなり高い位置に、鉄格子の嵌った小窓がある。ここから見えるのは青い空だけで、建物の類は見えなかった。角度の問題かもしれない。部屋には、何も置かれていない。ベッドも机も椅子も、毛布すら無かった。室内はなんだかじめじめしていて、もしかしたら地下なのかもしれない。窓の反対側には、金属製の重そうな扉。扉の上の方と、下の方に小窓が付いている。…もしかして、ここ、地下牢なのか…?
酷い目にあったと思っていたが、まだそれは続いていたらしい。謎のとばっちりで誘拐され、しかも私が逃げるとメイソンさんが殺されて、逆にメイソンさんが逃げると私が殺される。…最悪だ。人のいい彼でも、流石に辛くなれば逃げたくなるだろう。その時は私が問答無用で殺されるのだ。
ずるずる床を座ったまま這うように移動して、壁に背中をつける。はあ、と大きく溜息をつく。
切りつけられた右腕の上腕部がずきりと痛む。シャツには血がべっとりついていた。裂けたシャツの隙間から覗くと、二の腕がすっぱり切れているのが見える。思ったより、傷は深くはない。
正直、死ぬかと思った。髭面の男の顔を思い出して震える。容赦無い暴力が脳裏をよぎって、血の気が引いていった。…骨は、折れていないと思うが、踏みつけられた腹部がずきずき痛む。膝を抱え、痛みを堪えて身体を丸めた。ぼろぼろ涙が溢れる。あの時、あの人が割って入らなかったら、多分腕を切り落とされていた。
不意に、外から足音が聞こえてくる。複数の足音だ。あの、男もいるんだろうか。慌てて、扉と反対側の壁に後退りする。
『…君には、子供の世話をしてもらう。といっても、食事を運ぶのと、用をたす時に外に連れ出すだけでいい』
『……はあ』
『それ以外の時間は、部屋の近くにいればいい。声の届く範囲に。暇なら本でも読んでゆっくり過ごせばいいよ。外で警備するよりずっと楽だ。君、あんまりそういうのは向いてなさそうだし』
『…まあ、そうですけど…こんな、地下に閉じ込めて、いいんですか』
『…君には関係無い。まあ、死なないように管理してくれればいいさ』
『…』
足音に重なって、小さく声が響く。聞き取りづらいし、ところどころ意味がわからなかった。
ガチャっと大きな音がして、金属製の扉が開かれる。重そうな扉が、石畳と擦れて嫌な音を立てた。そこに立っていたのは、茶髪の…助けに入ってくれた男の人と、翠色の瞳の青年。その顔には見覚えがあって、思わずぽかんと顔を凝視する。相手もこちらの顔を見て、大きく目を見開いた。
『…っ』
だが、彼は何も言わずに目を逸らす。気まずそうに、絞り出すように声を出した。
『…この子ですか?』
『ああ』
返事をして、男はこちらに視線を向けた。
『…これから先は、ここで生活してもらう。彼が君の世話をする。用がある時は彼に言いなさい』
そう言うと、男はすぐに部屋の外へ出ていった。
遠くの方で、男の靴音が響く。
『…スグル…?』
靴音が聞こえなくなってから、リュゼが泣きそうな顔になって、跪いた。
『リュ、ゼ』
掠れた声で声をかけると、泣きそうな顔が更にくしゃっと歪んだ。
『どうして、ここに…?』
記憶が確かなら、彼は南に行くと言っていたはずだ。それに、どうしてこんな所にいるんだろう。あの人達の、仲間なのか。少し怯えてしまったのが伝わったのか、こちらに伸ばされたリュゼの手が一瞬止まる。
『っ、大丈夫、なにもしない』
『……』
小さく頷くと、微かにほっとしたように表情が緩んだ。
『君こそなんでこんなとこに…?怪我、してるじゃないか…』
そっと、血の滲む腕に触れられる。走った痛みに身体が跳ねて、リュゼの手がびくっと動く。
『ご、めん。ちょっと待ってて。薬もらってくるから』
リュゼはすぐに立ち上がって、部屋を飛び出して行く。…こんな所で、数少ない知り合いに会うとは思わなかった。運は凄まじく悪いと思っていたが、思っているほど悪い訳でもないらしい。
少しして、慌ただしい足音とともにリュゼが駆け込んでくる。手には小さな木箱のようなものを持っていた。私の近くに膝をついて、私の右手を取る。
『袖、上げても届かないや。シャツ、脱げる…?』
『…』
少しだけ抵抗はあるが、これでは手当できない。ボタンを外して、肌着一枚になると、リュゼが呆然とこちらを見下ろす。
『それ、どうしたの…』
『…』
傷跡のことだろう。返事するのが億劫で、無言で切られた右腕を出す。リュゼは戸惑った顔のまま、まだ血の滲む切り傷に薬を塗って、包帯を巻いていった。
『…ありがとう』
『…ううん』
シャツを羽織って、ため息をつく。
『スグル、女の子だったんだね』
苦笑するリュゼに、こくりと頷きを返す。薬がじくじくと傷口に染みて痛い。薬をつけたリュゼの手が伸びて、頬に触れる。ああ、そういえば…椅子が飛んできた時、破片が掠めていった。どうやら頬を切っていたらしい。触れられるとぴりっと痛んだ。
いま、何時頃なんだろう。それに、攫われてからどれくらい時間が経ったのか。
『リュゼ、なんで、ここに?』
先ほど答えてもらえなかった問いを再び投げかける。リュゼは困ったように頭をがしがし掻きながら、ぎゅっと目を閉じる。
『…俺は、南に行くつもりだったんだけど、あっちの国で内乱があったらしくて、危ないって聞いたからこっちに来たんだ。お金無くなってきたから、ここの警備の仕事についたんだけど、向いてなかったみたい。まあ、他にも色々…あるんだけど、まあいいや…』
『ないらん…?』
わからない単語に首を捻る。
『ああ、えっと…国の中で、争いが起きたんだって』
『あらそい…?』
『うーん、と…。まあ、いいや。とにかく南に行けなかったってこと』
『ふうん…』
『スグルは?何があったの?』
『船でアルネイアにきた。港で、ええと…』
誘拐ってなんていうんだろう。うまい言い回しが思いつかなくて、困惑する。
『…攫われた?』
助け舟を出してくれたようだが、それがあっているのかもわからなくて、曖昧に頷く。
『さっき、聞いたんだけど、お兄さんが捕まってるって?ええと、ヴェルディさんだっけ』
『ううん、違う。メイソンさん』
『メイソン…?昨日連れられてきた、楽士の人かな。お兄さん他にもいたの?』
『違う。お兄さんじゃない。間違えられた』
『勘違いで連れてこられたの?』
憐れみのこもった視線に、唇を噛んで頷く。
『私が逃げると、メイソンさんが殺される。メイソンさんが逃げると、私が殺される。だから、逃げられない。みんなで、逃げないと――』
そこで、ふと、気がつく。彼に、ヴェルと連絡を取ってもらえるのではないだろうか。
『ねえ、リュゼ』
身を乗り出して、リュゼの両手をぎゅっと握る。
『えっ、なに?』
翡翠みたいな綺麗な色の目が、ぱちぱちと瞬く。
『リュゼにしか頼めない。お願い、きいて』
リュゼの手を握る指に、力が入る。リュゼが、神妙な顔でゆっくりと頷いた。誰にも聞こえないよう、顔を近づけて、小声で話す。
『私の鞄の中に、通信板、が入ってる。ヴェルに繋がる。お願い、助けてって、ヴェルに伝えて』
『…!わかった、任せて』
『きっと、心配してる。大丈夫だって、それも、伝えて』
『…大丈夫じゃないだろ』
困ったように見上げると、リュゼはきゅっと眉間に皺を寄せた。
『…大丈夫、だから』
リュゼの指にも力が込められた。少しだけ黙り込んで、すっと彼は手を離して立ち上がる。
『なんとかやってみる。多分、逃げようとしてるとは思われてないはずだから、荷物は探せば見つかると思う。待ってて』
ふっと微笑む顔に、笑みを返す。なんだか、すごく久々に微笑った気がした。




