25.本番/甲板にて
『おや、仲直りできたのかい?』
エリクといつもみたいに手を繋いで舞台袖に戻ると、メイソンさんが穏やかな視線をこちらに向けて言った。うん、と笑って頷くと、エリクはふてくされたように顔を背ける。
公演は今2番手の人だ。この人の次の次が私の番。徐々に緊張してきて、指先から身体が冷えていく。エリクの手が暖かくて、握っていると安心感があった。
『そういえば僕、スグルの演奏聴くの初めてだ』
言われて見れば、私が防音部屋で練習するのは一人で深夜の時間だったし、エリクはリハーサルの時もいなかった。エリクの大きな瞳が瞬いて、私の顔をじっと見る。
『そうなの?スグルくんは凄いよ。僕も今まで旅しながら沢山ディルネ聴いてきたけど、スグルくんは一、二を争うなあ』
メイソンさんのべた褒めに思わずへらっと笑みがこぼれる。褒められるのは昔から弱いのだ、お世辞でも嬉しい。嬉しくてついついもっと頑張ってしまう。昔友人にはよく「ちょろい」と言われた。自覚はあるがどうにもできないのでしょうがない。
『機会があったら一緒に演奏してみたいね』
ソリューシャとの演奏か、それはとても楽しそうだ!うんうん、と頷いて笑みを交わし合う。
会場から大きな拍手が聞こえて、メイソンさんが居住まいを正した。
『次は僕だ。緊張するなあ。それじゃあ後でね』
ソリューシャを握りなおして、ゆっくりと舞台中央に向かって歩き出す。結わえられた長い茶髪が背中で揺れた。
特設ステージへと上がった彼は、いつの間にか用意されていた椅子に腰を下ろして、膝の上に楽器を乗せる。一度ホールが真っ暗になって、そのまま深みのある音色がホールに響き渡った。少しして花火が上がるように、小さな火花が頭上で瞬く。
ソリューシャは、船に乗り込んだ初日エリクと防音部屋を覗いた時に少し聞いていたが、ステージで聞くとまた違った音に聞こえた。深い温かみのある音色で、ぽろんぽろんと一音一音大切に鳴らしたり、かき鳴らすように和音を奏でたり。優しい彼の雰囲気と相まって、なんとなく穏やかな気持ちにさせられる。暗い緑色の衣装に身を包んだ彼は、整った顔立ちもあってとてもかっこいい。胸元には繊細な金のアクセサリーがついていて、レヴィさんの術式の光を反射してキラキラと輝いた。こういう男性の衣装を合わせるのはオリビアの仕事らしいが、とてもセンスが良い。
彼の次が、私の番。肩の力を抜いて、大きく深呼吸をする。彼の演奏が終わると、わっと会場から大きな拍手が上がった。
『頑張って』
エリクが手を放して、私の背中をとんと押す。うん、と決意をこめて頷いて、舞台の中央へと歩を進めた。
会場は暗くて、お客さんの顔は見えないが、結構人数がいるのは上演前に確認済みだ。みんなじゃがいも、みんなじゃがいも、と心の中で呪文のようにつぶやく。さっき手のひらに「人」って3回書いて吸い込んでおいた。だから多分大丈夫、大丈夫。
微かに照らされた臙脂色のカーペットを慎重に歩く。少しだけ高いヒールの靴を履いているので、転びやしないかとひやひやした。ドレスの裾を少しだけたくし上げて、特設ステージへの階段を上がる。ここまでは転ばなかった、私えらい。
特設ステージに描かれた術式の陣がビリっと一瞬光って、見慣れたピアノが現れる。金の装飾が施されているから、きっとレヴィさんの光が綺麗に反射するんだろう。高さも位置もしっかり調節された椅子に座って。膝の上に手を置く。ステージが少しだけ明るく照らされた。
深い呼吸をひとつして、鍵盤に指を乗せる。
今回、演奏するにあたって、同じ作曲家の曲を通して弾いてみたいという気持ちがあった。1曲は舞踏曲が欲しいと言われたので、審査の時に弾いたショパンの『華麗なる大円舞曲』を入れて、同じショパンから『英雄ポロネーズ』『幻想即興曲』『別れの曲』を選んだ。名曲のオンパレードだ。次は、ベートーヴェンでやってみようかなあ、と思っている。
1曲目は、『英雄ポロネーズ』。「英雄」と名がついているのが頷ける、英雄の凱旋で流れそうな、品の良い、力強さのある曲だ。少しいっぱいいっぱいなので周りを見る余裕は無いのだが、視界の端で金の光が弾けるのが見えた。この曲はやはり力強く弾きたくて、めいっぱい指先に力を籠める。跳ねる様な音が楽しくて、弾いていて少しずつテンションが上がってきた。緊張もほぐれてくる。最後の和音を鳴らして、鍵盤から一度指を離す。照明が落とされて一瞬沈黙が流れたが、大きな拍手が上がった。少しほっとして、また鍵盤に指を乗せる。
2曲目は審査でも弾いた『幻想即興曲』だ。流れるように指を動かしていく。1曲目に比べると指がよく動くようになってきた。アドレナリンが分泌されているのかもしれない。
そして3曲目は、『華麗なる大円舞曲』。この時はホールの照明が灯される。お客さんが少しだけきょとんとした顔をしているのが見えて、何とも言えない高揚感が心を支配していく。渇いた唇を舐めて、指を鍵盤に落とす。少しするとお客さんも意図を理解したのか、ざわっと声が上がって、男女一組になってダンスを踊りだす。ちらっと壇上から客席を見下ろすと皆楽しそうで、自分も楽しくなってくる。自分でも口角が上がるのが分かった。最後の音を鳴らして、肩から力を抜く。僅かな倦怠感を感じて、ふう、と溜息を吐いた。ホールが明るいうちに一度立ち上がって、客席に向かってお辞儀をする。お客さんの温かい拍手で、緊張がほぐれていくのを感じた。
最後の曲…思い出深い『別れの曲』を弾いて、ホールに溶けていく音に耳をすます。ホール内はまた薄暗くなって、幾何学模様の形をした光の粒が空間を満たしていくのが見えた。指先をゆっくり鍵盤から離して、椅子から立ち上がる。大きな拍手に少しだけ照れくささを感じながら、ぺこりと頭を下げた。
緊張で時々指がもつれそうになったが、なんとか大きな問題も無く、演奏を終えられたことにほっとする。ステージの階段を降りて、来た時よりもゆっくりと歩いて、ホールの外へ出た。
ホールの外は豪奢な装飾の施された廊下が続いていて、奥まで進むと甲板がある。舞台裏に戻るためには、一度甲板まで出てから、脇にある階段を降りて、階下の通路を通る必要があった。明るい廊下には要所要所に警備の人が立っていて、窓の外に視線を向けている。そういえば彼らは、外界からの魔獣の襲撃に対処するために雇われているのだ。
彼らになんとなくぺこりと頭を下げて、甲板へと続く扉を開ける。
甲板には特に照明も置かれていないのでかなり暗い。人影は無くて、しーんと静まり返っていた。潮風が、こちらに来て少しだけ伸びた髪を撫でていく。本当はすぐ階下に降りなくてはならないのだが、夜風が気持ちよくて月明かりに照らされた甲板を歩いた。船の欄干に手をついて、海上を見下ろす。真っ暗で何も見えないが、波をかき分けるざあざあと言う音が響いていた。ぼんやりとそれを聞きながら、目を閉じる。
『スグル』
低い声に、びくっと身体が跳ねる。でもそれは、聞き覚えのある声だった。
『…ヴェル?』
殆ど音を立てずにこちらまで歩いてきて、ヴェルが隣に立った。彼は、警備の人が着ていたような真っ黒でシンプルな正装に身を包んでいる。前髪をオールバックにしていて、それも相まって気配が普段より鋭く感じた。装飾は殆ど無いが、金色のボタンが月光を反射して時折輝く。流石というかなんというか、とてもよく似合っていた。いつもより顔の位置が近いような、と思ったが、そういえば私が今はいているのは高いヒールの靴だった。見慣れた紺色の鋭い目が、たった数日見ていなかっただけのはずなのに酷く懐かしく感じる。
『中に、いた?』
『ああ、素晴らしい演奏だった』
小さく微笑む顔に、嬉しくてこちらも笑みを返す。
『あと――』
ヴェルの手が、私の頬にかかっていた髪を耳にかける。
『よく、似合っている』
柔らかい、いつもより優しい笑みに、思わず顔に熱が集まる。暗くなかったら真っ赤なのがばれていたかもしれない。夜でよかった。そのまま彼の親指が頬を撫でて、少しざらついた感触に鼓動が早まる。目が回りそうだ。
『…傷は、隠したのか。見られたのか?』
指がそのまま首に移動して、傷跡があったあたりを優しくなぞる。背筋にぞわりと込み上げてくるものがあって、慌てて緊張気味に『うん、でも、大丈夫、ひみつ、してくれる』と片言で返す。『そうか』という呟きとともに指が離れて、ほっと息をついた。
『あまり外にいると身体が冷える。その恰好は寒そうだ。はやく中に入った方がいい』
『うん』
頷きはするが、彼との時間が名残惜しくて、そのまま船の欄干に背を預ける。ひんやりとした金属製の手すりが背中に当たって、ばくばくとうるさい心臓が落ち着いていった。目を閉じて、ひとつ大きく深呼吸する。
『…次の公演はいつだ?』
ヴェルも私と同じように背中を預けて、こちらを横目で見下ろした。微かに肩が触れて、そこからじんわり温もりが伝わってくる。
『15日目』
『そうか。なるべく中で聞けるようにしよう』
『…うん』
嬉しくて、俯いて顔をほころばせる。
『今日の曲は…なんという曲だ?』
その答えは、難しい。こちらの言葉ではなんといったらいいんだろう。英雄ポロネーズ、とは…。顎に手を当てて唸ると、少しだけ笑う気配と共に、『また今度、聞かせてくれ』と言われた。ニルさんが一緒の時に、通訳してもらおう。それでも、ポロネーズはポロネーズのままな気がする。ポロネーズとはフランス語でポーランド風、という意味で、ポーランド起源のダンス、またはそのための舞曲を指す。
『勉強の方はどうだ?』
『…』
ううむ、エリクに頻繁に邪魔されてしまってあんまり進んでいない。唸り声をさらにあげると、隣の空気が少し鋭くなった。こ、怖くてヴェルが見れない。
『船旅が終わるまでには、3冊分きっちり頭に叩き込んでおけ。船から降りたら試験する』
試験、という単語に慄く。ううう、と恨めしく彼を見上げると、厳しい顔で見返された。昔英語で赤点取った時の先生の顔に雰囲気が似ている。つらい。ぐっと声をあげて、目を逸らして俯くと、微かに笑う気配がした。チラッと彼の顔を見上げると、すぐに笑みを引っ込めて厳しい顔になってしまう。
『スグル』
催促する声に、渋々頷く。彼は隣で満足そうに息を吐いた。…今日から猛勉強しよう。成績が悪いと、多分彼はどんどんスパルタになっていく。
『…そろそろ行かなくては。仕事を抜けて来たのでな』
『…うん…』
ドレスの裾をきゅっと握りしめて俯く。離れがたくて彼の顔を見上げると、静かな眼差しと目が合った。夜の闇の中で、彼の目の色がよく見えなくて、少しだけ残念に思う。ふっと目の前の彼は優しく微笑んで、私の頭に手を乗せた。
『そんな顔をするな。…次の公演も楽しみにしている』
ぽんぽん、と頭を撫でて、すぐに手が離れる。
『さあ、先に戻れ』
『…うん』
またうるさくなりだした胸を押さえて、下の階へ続く階段へと駆け出す。次会えるのは最後の公演の後か、船を降りた後だろう。1週間以上会わないのか…と思って、寂しくなる。
…こちらに来て、ヴェルと顔を突き合わせている時間が長かったせいだろうか。彼の顔を見ると、なんだか少し安心する。私の事情を全部わかっていてくれているから、嘘をつかずに接することができるというのも大きいのかもしれない。
ヴェルはどうなんだろう。彼は、私のことを、どう思っているんだろう。言葉もあまり通じず、こちらの習慣にも疎い私を、面倒だとは思ってはいないだろうか。
指先が冷えていく感覚に、手を握りしめる。面倒だと思われないように、勉強しないと。決意を固め直して、階段をゆっくり降りた。




