19.東の大陸へ行くには
「…ん」
ひやりと冷気を感じて目が覚めた。
部屋の中はかなり暗い。宿に入ったのは朝だったので、深夜まで眠りこけてしまったのか、と一瞬焦ったが、そういえば今回の部屋は窓がないんだった。今まで空を見てなんとなく時間を察していたので、それがないとイマイチ時間がわからない。時計とかないんだろうか。
ベッドの縁に腰掛けて伸びをする。薄っすらと見える向かいのベッドには誰もいない。室内には気配がないので、どうやらヴェルは外出しているようだ。
随分と、色々なことがあった。
掴まれた手首に触れると、ずきずきとまだ痛む。気持ちの悪い、男の下卑た笑みが脳裏をよぎって、嫌悪感が込み上げてきた。ヴェルが助けてくれなかったら危なかったかもしれない。
ヴェルといえば、その、昨日は随分と距離が近くて、恥ずかしいやら何やらで死ぬかと思った。そういえば怖かったとはいえ抱きついてしまったし、ヴェルは…い…嫌じゃなかっただろうか。で、でも昨日宿についてすぐ隣に座って肩を寄せられたときに「嫌か」って聞いてきたから、逆にヴェルも気にしていたわけで、それならヴェルはそこまで嫌じゃなかったということなのではないか。ああいや、でも、あれはそういうのじゃないし、断じて違う。怖かったから安心してちょっと縋り付いてしまっただけで。
ぐるぐる考えているうちに、彼の広い背中とか、がっしりとした胸とか、大きな手とか、いろいろ思い出して頭がパンクしそうになった。枕を抱き寄せて顔面を埋めて、一旦頭を真っ白にするべく、最近恒例となりつつある素数を数える。考えたくないことを頭から追い出すのにちょうどいい。昨日どこまで数えたっけ、たしか71まで数えた。
彼はあまり表情が豊かな方ではないし、目つきもあまりよくないというか、鋭いし、勉強を教えるときなんかは容赦がないけど、なんだかんだと優しい。普段はあまり笑わないけど、ふっと浮かべる微かな笑みは穏やかで、なんだか心がふわっとする。
枕の中で呼吸を整えて顔を上げると、ベッドの下で寝ていたニルさんと目があった。いぶかしげな表情に、頬に熱が集まるのを感じる。いつから起きてたんだろう、恥ずかしいところを見られてしまった。
――スグル、
「あっ待ってなんでもないから何も言わないで」
思わず言葉をかけられる前に牽制する。ニルさんは変な顔をして瞬きをした。
――…いや、身体の方は大丈夫か。
「う、うん、げんき。ニルさんは?」
――少し疲労は残っているが、問題はない。
「そっか…、長い距離走ってくれてありがと」
――ああ。
「そういえば、ヴェルは?」
――船について調べて来ると、数刻前に出て行った。リュザフィールが言っていたことの真偽も確かめねばなるまい。
「巡航船が無い…っていう?」
ニルさんがこくりと頷く。ううむ、難しい事態だ。
ガチャリ、とドアノブの音がする。扉の方に視線を向けると、ちょうどヴェルが帰ってきたところだった。扉の向こうの窓から空が見える。今は夕暮れ時のようで、ヴェルの髪がいつもより赤みを増して見える。
『起きたのか』
うん、と頷きを返す。部屋の灯りがつけられて、唐突なまぶしさに目が眩んだ。何か買い物でもしてきたのだろうか、手に紙袋を持っている。それをサイドテーブルに置いて、向かいのベッドに腰を下ろした。
『腹は空いているか。空いているなら先に食事を取ろう』
空いているかと聞かれると、空いている気がする。自覚した途端、ぐう、とお腹が鳴った。恥ずかしくて頬に熱が集中するのがわかる。
『先に食事にしようか』
微かに微笑むヴェルに、恥ずかしさとは別に頬が赤くなるのを感じて、一体私はどうしてしまったのかと、胸中で呟いた。
今回の宿は、前の宿に比べると少し広々としている。ベッドがふたつと、そのベッドの横にサイドテーブルがそれぞれひとつずつ。そしてテーブルがひとつに、大きめのソファーと小さめのソファーがひとつずつ。部屋には窓はないが、換気はちゃんとしているようで、空気が籠っているような感じはしない。なかなかに居心地の良い宿だった。
緑色小さいほうののソファーに腰掛けて、ヴェルが運んできてくれた食事に手をつける。温かいスープと、薄いパンが数枚。スープは少しどろっとした赤色で、ごろごろとたくさんの野菜が入っている。ぱっと見はトマトのスープという感じだ。白身魚のようなものも覗いていて、さすが港町、と感動する。どうやらパンをつけながら食べるみたいだ。スープ自体は魚介系といった感じだが、野菜の甘みが出ていて、優しい味がする。塩味のパンをスープと一緒に食べると、まろやかな味になってすごく美味しい。
もぐもぐと無言で平らげて、ふう、と息を吐く。こちらのご飯はいつも美味しくて、このままではどんどん太ってしまいそうで恐ろしい。どうせなら全部胸に行ってくれればいいのに。
食事を下げてお茶を運んできたヴェルにお礼を言って、それを一口飲んだ。温かさにほっと吐息が漏れる。
お茶を啜りながらぼんやりしていると、ヴェルが紙袋をテーブルに置いて、『腕を出せ』と言った。紙袋の中から包帯や布切れがテーブルの上に並べられていく。手当てをしてくれるらしい。
痣のできた右腕を出すと、薬らしきものを塗布した布が痣にあてがわれた。ひんやりとした感触に少し驚く。優しく手が握られて、あてがわれた布の上に包帯が巻かれていく。日常的に剣を握っているからなのだろう、手のひらはごつごつしていて硬い。暖かい手に少し緊張しながら、手際がいいな、と感心して見つめていると、すぐに包帯が巻き終わった。
『きつくはないか』
うん、と頷く。本来治癒の術式が効けばこんな手間はかからないのだろう。この地で生きるには、自分はどうにも場違いな気がする。お礼を言って、巻かれた包帯を指でなぞる。丁寧に巻かれたそれが、少し嬉しくて、心がふわふわした。
――昨日のあの忌々しい商人についてだが…脳を覗いて分かったことがある。どうやらあの魔獣は、遊覧船に乗せる予定だったらしい。
「遊覧船?」
――ああ。要するに見世物だな。
冷静に続けるニルさんの目は、しかし深い悲しみを湛えているように見える。
『どうやって手に入れたかはわかったか』
――記憶の断片しか拾えなかったが、どうやらあの男、ただ持ちかけられた話に乗った、という風で、特にこれといった情報は持っていなかったようだ。黒い布で顔を隠した、背の低い…男とも女ともつかない者の姿が見えたが、それ以上のことはわからなかった。そこまで覗いたところで、相手の脳の方が耐え切れなくなってしまったのでな。
『そうか…』
脳が耐え切れなくなった、と言うのはどういうことなんだろう。聞くのが怖くて押し黙る。
あの魔獣は果たして、自然的に発生してしまったものだったのか、それとも人為的にこちらにもたらされたものだったのか。そしてそれをあの商人に売りつけた者は何者なのだろうか。
『まだ判断材料が足りないな。情報を集めて行かねば』
――ああ、そうだな。差し当たっての問題は、その情報収集のための東の大陸への移動手段か。
『ああ。船のことだが…』
ヴェルがこちらに視線を向けて話し出した。
『リュザフィールが言っていた通り、巡航船は今は使えないらしい。魔獣に襲われて船底に穴が開いて、どうにもならんのだそうだ』
――他に海を渡る方法はないのか。
『あるにはあるが…一番可能性がありそうなのは、遊覧船に乗り込む方法だな』
――遊覧船に乗り込む?
『ああ。金持ち貴族の道楽だが…東の大陸に向かうのであれば、一番現実的な手段だ。転移陣は使えないし、天馬は高価すぎる…まず市場に出回らない。漁船では長距離の航行はできない』
転移陣が使えればこんなに苦労しないのに。通訳を受けて、申し訳ない気持ちになる。私のせいで、みんなに苦労をかけてしまっている。
『…転移陣はもともと使うつもりはなかった。気にするな』
静かな眼差しと目があった。嘘をついているようには見えなくて、ほっとする。
『差し当たっての問題は、この遊覧船にどうやって乗り込むかだ』
――何故それが問題なのだ?
『まず、乗客として乗り込むのが難しい。貴族の道楽といったが…まさしくそれだ。あまりに旅費が高すぎて支払えない。まあ、もともと客はこれ以上乗せるつもりも無いのだろう。そこでいくつか手段を考えたのだが…』
ヴェルが背もたれにもたれて、腕を組む。
『1つ目が、密航だ。船員に紛れ込む。この方法だと私は誤魔化せるかもしれないが、スグルは誤魔化せない。となると、スグルとグレイプニルは荷に紛れて隠れ続けなければならない。これはあまり現実的ではないと思う』
『2つ目は…貴族の護衛として雇ってもらう方法。探したところによると、どうやら人員の補充が必要な状況になっているらしい。巡航船が魔獣に襲われたことに起因しているのだろう。これは、私は可能だがスグルには不可能だ』
『3つ目は、奇術団に入る方法。東の大陸に向かう船は、15日間航行する。乗客が飽きないよう、様々な催しをするのだそうだ。それに向けて、追加団員の募集をするらしい。これに関して言うならば、スグルのディルネの腕なら確実に加入できるだろうが…私はそうもいかないだろう』
通訳してもらって、ふうむ、と唸る。というか、
「15日間も船の上なのか…」
思っていたよりずっと長い。船酔いでもしたら地獄だろう。食材はもつのだろうか…ああ、そうか、聖術で保存できるのか。まったく、便利すぎてびっくりである。飛行機ならすぐ着くのに…術式で飛ぶ飛行機は作れないのだろうか。そういうものを作る企業があるなら是非提案させていただきたい。
――状況は理解した。場合によっては別々に船に乗り込むことになりそうだな。
『ひとり、大丈夫!』
いつもヴェルにおんぶに抱っこ状態では良くないだろう。どんなに幼く見えていようが、一応自分も成人した大人なのである。自立せねば。頷いてみせると、疑わしげな視線を向けられる。そ、そんなに頼りないだろうか。
『一番確率が高いのは、私は護衛として、スグルは奇術団の一員として船に乗り込む方法だが…別行動はやはり心配だな。時間は無いが、やはり何か芸を仕込むか…』
眉間に深い皺を刻んで、ニルさんを見下ろす。ニルさんが若干嫌そうな顔になった。
――私はそういうのはできないぞ…。
『なにかこう、手軽なものはないだろうか…私が短剣を投げるから、それを避けるのはどうだ』
――貴様…私を殺す気か?
『加減はする』
――信用ならないな!
『それなら…術式で火炎の輪を作るから、それをくぐる芸というのは』
――却下だ、危ないだろう。
『失敗したら治してやる』
――失敗前提で話をするな!
『玉乗りはどうだ、お前が明日までに出来るようになれば何とかなる』
――なぜ私だけ苦労させるような道を選ぶのだ!自分で努力する気にはならんのか!
『不器用なのでな』
――やる前から諦めたようなことを言うな!
ニルさんの返答から察するに、どうやらヴェルがかなり無茶なことを言っているらしい。ちょっと笑いそうになる。
――いい加減にしろ!やはり別行動だ、お前は護衛の方をあたれ!
ニルさんが拗ねてしまった。思わずぷふっと吹き出すと、憮然としたふたつの視線がこちらに向けられた。気まずい空気に思わず目をそらす。
『…残念ながら時間はあまりない。船の出港は明後日、奇術団も護衛も、審査は明日だ。これを逃すと、巡航船が直るまで身動きが取れなくなる』
――ならば明日は別行動だな。健闘を祈る。
突っぱねるようなことを言って、ニルさんが私の隣に座り直した。つーんと横を向いている。意外と気が短い。断片的にしか言葉は分からなかったが、どうやら結果的に別行動ということになったらしい。取り敢えず「言葉喋れません」という感じでなんとかやってみるしかないだろう。覚悟を決めてヴェルを見上げると、腕を組んだ姿勢のまま、鋭い視線で『健闘を祈る』と返された。




