17.東へ(3)
――まさか…何故!
ニルさんの酷く焦った声がする。
あれは、魔獣だ。魔獣が檻に閉じ込められている。大きな狼を思わせる、闇を溶かして固めたような真っ黒な体躯。狂気に満ちた鋭い真っ赤な瞳で周囲を睨みつけ、濁った色の鋭い牙の並んだ口を大きく開けた。だがしかし、その咆哮は空気を震わせることはない。檻に何度も体当たりをしているがびくともしなかった。何かの術式がかけられている、のだと思う。
ひ、と誰かが悲鳴を上げる。恐怖は伝染して、半狂乱の山賊たちが弓矢を獣に向けて放った。
『うわああ!』
沢山の矢が獣に向けて放たれる。数本の矢が魔獣の身体を貫き、身体が苦し気にのたうつ。口の端から血の混じった涎を吐き出して、また音のない咆哮を上げた。
やめて、やめて。お願いだから!
ボロボロ涙が流れるのが止まらない。口を抑えて嗚咽が漏れそうになるのを止める。隣でニルさんの毛が逆立つのがわかった。怒りと悲しみと、ごちゃ混ぜになった感情が流れ込んでくる。
魔獣の身体が大きく歪んで、檻に体当たりをした。何度も何度も、苦しそうに。びくともしていなかった檻が歪んでいく。
『そんな、やめろ!』
でっぷりと太った商人が声を上げた。
バリンッ
術式が砕かれる音が周囲に響く。金属の檻をいとも容易くねじ切って、獣がその身を雨の下に晒した。恐怖の声が至る所で上がる。
――優、森へ逃げろ!私が何とかする!
がくがく震える身体に鞭打って、立ち上がって森へ走る。恐怖で足がもつれて、水たまりの中に突っ伏してしまう。
『スグル!』
腕を掴まれて、無理やり立たされる。手の主はヴェルだった。走れ、と目で言われた気がして、頷いて森の中へ駆けていく。
山賊たちももはや盗みどころではなくなって、残った者は皆方々へ逃走していた。馬車を燃やす炎に照らされて、真っ黒な獣が、ゆっくり歩きだすのが見える。身体を矢で射抜かれて、歩くたびに血が噴き出していた。あまりの痛ましさに見ているのが辛くて、目を背けて森を走る。怖い、怖い、怖い。魔獣が怖いのではない、魔獣だからという理由で傷つけてしまうのが、檻に閉じ込めるのが、怖い。こちらに現れてしまった魔獣はもう帰ることができない。身を焦がす聖なる空気に苦しみながら死んでいくしかない。それならばせめて、せめて苦しまないよう、殺すしかないのだと。悲痛なまなざしで言っていた白い獣の姿を思い出す。
ランプが無いので、真っ暗な森の中を手探りで走る。何度か木にぶつかりそうになって、それでも走って、大きな木の根に躓いて転んだ。もう体はびしょ濡れで、毛布もあまり意味をなしていない。転んだまま、動けずに息を整える。身体を起こして、もう少し走って、近くの木に背中をつけてまた息を整えた。ずりずりと背中で木の幹を擦って、そのままその場にへたり込む。
目を閉じても、苦しむ魔獣の姿が瞼の裏によぎる。可哀そうだと思った。何もわからない場所に投げ出されて、空気が身体を蝕んで、苦しくて苦しくてたまらないのに、誰も助けてくれない、助けられないんだ。何もわからないまま、人に襲われて、殺されて。
閉じた目の端からぼろぼろと涙がこぼれる。泣くだけで何もできないのが悔しい。
はあ、はあ、と荒い息をしながら膝を抱えて心を落ち着かせる。冷たい雨が頭を濡らして、頭に上っていた血が少し下がった気がした。
遠くで、獣の咆哮が聞こえる。断末魔のようなその叫びに、心臓がぎゅっと痛む。思わず耳を塞いで身体を縮こまらせた。
暫くそのままじっとして、身体に降り注ぐ雨に意識を向ける。徐々に身体から力が抜けて、耳を塞いでいた手を下ろした。
『ああ、なんてことだ』
絶望に打ちひしがれるような、掠れた声に、身体がびくりと跳ねる。ざくざくと草を踏む音が聞こえる。
『ああ、くそ、高かったんだぞ、いくらしたと思ってる!』
『見世物にすりゃあいい商売ができたのに』
『檻だって高い金払って特注で作ったのに、破られたじゃないか!』
『あいつら、今度会ったら金は返してもらうぞ!』
『ああくそ、アルネイアの貴族どもに金ももう貰っちまってたのに』
ざく、ざく、ざく。
地面を踏む音と一緒に、徐々に声が大きくなる。木々の隙間から現れた声の主は、商団を率いていた商人の男だった。ぎょろりとした目がこちらを見て、『ああ?なんだ、ガキか』と呟いた。
ふつふつと怒りがこみ上げる。こいつが、こいつが!
「なんで…」
思わず立ち上がって、声を出していた。
『ああ?なんだ、文句でもあるのか』
こちらに歩いてくるでっぷりとした男の胸ぐらを両手で掴む。
「なんであんなことしたの!」
『何言ってんだ?』
言葉が通じないのが分かっていても、口からついて出てくるのは祖国の言葉だった。
「あんなに苦しんでたのに!好きでこんなところに来たんじゃないのに!檻なんかに閉じ込めて!どうして!」
『意味が分からんな。だがなあ、坊主』
胸ぐらをつかまれたまま、男がぬっとこちらに顔を近づけてくる。
『いいか、人間はな、死を身近に感じて初めて生を感じるんだ。恐怖を感じた分、その先の生を実感できる!充実していると感じる!そういう見世物を俺はやってんだ。金になるんだよ。退屈してる貴族どもなんかにゃあ随分と受けがいい!それがなんだ、大損害だ!あれは金の卵だったんだぞ!』
怒号を浴びせられて、一瞬怯む。唇を噛んで相手の顔を睨み上げる。
『ん?お前…フェリアの酒場でディルネ弾いてたガキか…?はは、こいつは運がいい!』
それまでの様子と一転して、突然男がげらげらと笑いだす。ひとしきり声を上げた後に、下卑た笑いを顔面に張り付けて、さらに顔を近づける。
『お前もいい金になりそうだなあ』
ぞくりと恐怖が背筋を駆け抜けた。胸ぐらを掴んでいた手を咄嗟に離す。言葉が分からなくても本能が危険だと信号を発していた。身体を翻して森の奥に走って逃げようとしたが、男の大きな手が手首を掴んだ。あまりに強い力に、喉の奥から悲鳴が上がる。
『おいおい、逃げるなよ』
抵抗すればするほど手首を掴む力が強まっていく。歯を食いしばって必死に引き抜こうとしていると、男が手を上に持ち上げた。肩が外れそうな衝撃に、喉の奥がぎゅっと窄まる。足が僅かに地面から浮いて、恐怖に身が竦む。
『んん~?お前もしかして、女か?』
女、という単語に身体が震える。
『違う!』
『ああ?なんだ、喋れんじゃねえか。女か確かめる方法なんざいくらでもあるんだぜ』
もう片方の腕が、身体に伸びてくる。恐怖でぎゅっと目を閉じたとき、
――男の身体が真横に飛んだ。遠くで地面に落ちて転がる音がする。
男の手から解放されて、その場にへたり込みそうになる身体を、誰かの腕が支えた。
『スグル』
聞き慣れた声に、安心感で体中から力が抜けた。力の入らない腕で思わず目の前の大きな身体にしがみついてしまう。ぼろぼろと目から涙が溢れて、喉の奥から嗚咽が漏れる。目の前の濡れたシャツに、涙が吸い込まれていく。
ぎゅ、と強い力で抱きしめられて、ほっとして更に涙が溢れる。今日は泣いてばっかりだ、と頭の片隅で思った。背中を撫でる温かい手が心地よくて、ずっとこのままでいたいような、離れがたいような気分になってしまう。
『…大丈夫か』
囁くような低い声に、腕の中で頷く。腕がゆっくりと離れて、落ち着いた紺色の瞳と目が合う。ぽろっとこぼれた涙を、ヴェルの親指が拭った。じゃりっと頬と指の間で土がこすれる。そういえば転んだんだった。酷い有様かもしれない。
『ニル、は?』
『魔獣に、血を。後でこちらに来る』
そうか。血を流した途端、身体が溶けて行った獣の姿を思い出す。せめてその魂だけでも、あちらに帰れるといい。
『少し移動する。歩けるか』
『…待って』
まだ足に力が入らない。震える身体を落ち着かせようと深呼吸をしていると、『無理に動こうとしなくていい』とヴェルがそのまま私の身体を抱きかかえて立ち上がった。おおおおお姫様抱っこである。
『待っ…!』
恥ずかしいやら情けないやら顔が近いやらで頭の血が沸騰しそうになる。いつもよりずっと近い位置にある瞳がいつも通りの鋭い視線を向けてくる。
『少し動くだけだ。黙っていろ』
有無を言わさぬ口調に押し黙る。重くないかなあとか凄く視点が高くて怖いとかどこ持ってればいいのかわからないとか力の抜き方が分からないとか、頭の中で色んな言葉がグルグルグルグル廻って死にそうになる。頼むから早く降ろしてくれ!
とかなんとか思っていたら、本当に少し移動するだけだったようだ。岩場の、平らなところに降ろしてくれて、横にヴェルも座る。片腕を取られて、袖をめくられた。先ほど男に強くつかまれた所だった。酷い痣になっているそれを見て、ヴェルが眉間に皴を寄せる。少し触れられて、痛みが走って腕が震える。
『…すまない。もう少し早く見つけていれば』
呟くように言って、触れたところから術式が行使される。だが一向に治りはしない。内出血だ、私の血の特性的にそりゃあ治りにくいだろう。尚も手を止めないヴェルの手を取って、首を振る。
『大丈夫』
ちょっと痣ができたくらいだ、数日で痛みは無くなる。気にするな、と視線を上げたが、ヴェルは苦い顔のままだった。
『他に、怪我は?』
『無い、大丈夫』
『そうか』
『…ヴェルは?』
『無い』
そうか、よかった。ほっと息をついていると、視線を感じて顔を上げる。
『…なに?』
『…いや、身体が随分冷えている』
ヴェルが自分が肩から羽織っていた毛布を広げて、私の肩にもかけてくれた。そのまま肩を抱き寄せられて、びっくりして身体が硬直する。背中にまわる腕が暖かくて、一瞬安心感はあったが、そこから先はなんだか恥ずかしい気持ちの方が強くなってしまった。手をどこにやったらいいのかわからなくて、胸の前で拳を握り締める。顔に熱が集中していくのが自分でもわかって、相手にばれないように必死に下を向く。だって多分彼は私の身体が冷え切っていたから気を遣って毛布を掛けてくれたのであって、別にそういうのじゃない訳で。そういうのってなんだ。脳内で一人で突っ込んでもなかなか顔に上った血はどこかに行ってくれない。いやいや、というかこれだけ真っ暗なんだから絶対ばれないし、大丈夫、問題ない。素数を数えて落ち着こう。
『スグル…?』
不審そうにヴェルが声をかけてくる。『大丈夫!』と返した声は少し震えてしまった。目を閉じて頭の中で素数を数えているとちょっと落ち着いてくる。次何かあったらこの方法で落ち着こう。
胸の前で握りしめていた手の力を抜いて、膝の上に置く。もう多分大丈夫だ。
そういえば、とふと思って、ヴェルに向き直る。
『リュゼは…?』
穏やかな微笑を思い出して、無事だろうか、と不安になった。
いつもより近い位置にある紺色の目が、少し不機嫌そうな色を宿す。
『…さあ』
さあって何さ!やっぱりヴェルはリュゼのことが嫌いなんだろうか。
『リュゼ、大丈夫?』
『おそらくは』
…無事じゃなかったらこういう態度にはならないだろう。彼が無事ならよかった、とほっとして息を吐き出す。
――優!
白い身体が森の中から現れて、こちらに走ってきた。よかった、ニルさんも無事だった。ほっとして立ち上がって、ニルさんの身体を抱き寄せる。
「よかった。大丈夫?」
――問題ない。優は無事か?
「大丈夫」
美しい蒼い瞳を見て、安心する。ニルさんの身体はぎゅっとするとあったかくて柔らかくて気持ちがいい。
『グレイプニル。私とスグルを乗せて移動は可能か?今日の夜、港まで一息に移動したい。スグルの身体がだいぶ冷えている』
――長時間は走れない。だが…ここから歩いて2日の距離か、走れば朝には着くだろう。それくらいなら走れる。
『そうか、助かる』
――優、今晩このまま港町まで移動する。背中に二人で乗れ。
「わかった」
ニルさんには手綱などないので、前にヴェルが座って、その後ろに私が乗ることになった。
――速い移動になる、落ちたらただでは済まないぞ。ヴェルフリードの身体にしっかり掴まっていろ。
「うん…」
とは言ったものの、ちょっと恥ずかしい。目の前の広い背中を見上げて、思い切ってその身体に腕を回す。覚悟を決めて、ぎゅっと胸元のシャツを握りしめると、ニルさんがゆっくり走りだした。徐々にスピードが上がっていくが、身体はあまり上下に揺れない。地面をすべるように、しなやかに走る。前に座るヴェルの背中が暖かくて、思いのほか居心地がいいと感じてしまう自分がなんだか恥ずかしい。
時々休憩をはさみながら、ニルさんが頑張って走ってくれたおかげで、翌日の朝には港に着くことができた。




