16.東へ(2)
こちらに来てすぐの頃は、そういえば野宿だった。ニルさんの毛皮に包まれて、傷ついた身体を休めた。
今度の野宿はそれに比べたら、毛布もあるし、火もあるし、周りに人もいる。随分と進歩したものだ。
翌日の朝、寄りかかっていたニルさんの身体から身を起こしてぐーっと伸びをする。ニルさんはもう起きていたようで、私がもたれていたから動かずにいてくれたらしい。ありがとう、と小声でお礼を言うと、返事をするように尻尾がぱたんと跳ねた。
あたりを見回すと、ちらほらもう起きている人たちがいる。馬車の方には、夜の見張りをしていた人が、荷にもたれて伸びをしていた。護衛が交代制で見張りをするのだそうで、ヴェルは明日が見張り番なのだそうだ。
近くの木にもたれて座って寝ていたヴェルは、その姿勢のままでまだ寝ているようだった。珍しい、私が起きる頃にはいつも起きているのに。彼が寝ている姿など、初めて会った時に見て以来ではないだろうか。
物珍しさに、思わず近寄って顔を覗き込む。普段は見上げている、彼の赤銅色の頭を見下ろすのは、なんだか少し不思議な気分だ。前髪の隙間から覗く赤い睫毛に陽の光が差して、頬に長い影を作っている。睫毛長いなあ、と感動していると、ぱちっと目が開いて、紺色の瞳がこちらを見上げる。
『なんだ』
『!』
びっくりして反応できずにいると、ヴェルは何も言わずにすっと立ち上がった。高いところから、いつもの鋭い視線が降ってくる。
『…寝てると思った』
『起きてはいた。まだ少し早いが、起きたのなら食事を取ろうか』
『うん』
平静を装いながら、まだちょっとドキドキする心臓を抑えて、深呼吸する。綺麗な顔だなあと思ったこととかはどこかに追いやって、取り敢えず朝御飯のパンのことに集中することにした。めちゃくちゃびっくりした。いつか仕返ししよう。
近くでは、リュゼがぐうぐう寝息を立ててまだ寝ていた。
◇ ◇ ◇
『ねえねえ、スグルはご飯何が好き?』
『…パン』
『ええ~、パン?まあ美味しいし、バリエーションも豊富だけど』
『…リュゼは?』
『俺はね~、ボルシア!』
『ボルシア?』
『知らない?卵料理なんだけどさ、肉と野菜を炒めたやつを卵で包んで、たっぷりランシェソースかけて食べるんだ。美味しいよ~!』
なるほど、オムレツみたいなもんか。ランシェソースが何なのかはわからないけど。
2日目。道中喋り続けるリュゼに付き合いながら(幸い相手がたくさん喋ってくれるので、こちらが話せる単語が少なくても会話が成り立っていた)、馬車の後ろを進む。ニルさんの背中に乗ってはいるのだが、それでもヴェルよりも頭が高い位置にあるので、ずっと見上げていると疲れるし、勉強もできないので、ちょっと困る。ニルさんも通訳しっぱなしで疲れているに違いない。ヴェルが居てくれたら…と思うのだが、彼は遥か前方、馬車の真横を歩いている。
『ランシェソース?』
『ランシェソースって言うのはね、アルネイア王国発祥のソースでね。テルネージュとリリィを使った、甘酸っぱいソースなんだ』
『ふうん…』
彼はどうやら食に詳しいようだ。テルネージュとリリィが何なのかはやっぱり謎だが。
相槌と鸚鵡返ししかしていないのだが、なんとか会話は続いている。言葉を聞き取るのでいっぱいいっぱいだし普段より脳みそフル稼働なので疲労が半端じゃない。この状態で昼過ぎまで耐えたのだから、結構頑張ったと思う。
ふああ、とあくびが漏れる。疲れが出たのかもしれない。ん?そうだ、寝たふりをしてしまうというのもひとつの手かもしれない。
『眠いの?落ちないようにみててあげるから、寝てもいいよ』
都合よく、リュゼがそう言ってくれた。リュゼには悪いが、このままなるべく長い時間寝たふりをしてしまった方が後々楽かもしれない。言葉が分からないのを誤魔化すというのはなかなかにしんどい。
リュゼにお礼を言って、ニルさんの背中にしがみついて目を閉じた。今日の夕方くらいまで、寝たふりで何とか躱そう。
と思っていたのだが、本当に眠ってしまっていたらしい。
リュゼに肩を揺すられて目を覚ますと、あたりはもう薄暗く、僅かに夕日で赤く染まっていた。寝ている間に天気が悪くなってしまったらしく、空はだいぶ曇っている。雨でも降りそうな空模様だ。
ずっと同じ姿勢でいたせいで軋む身体をぐーっと伸ばす。ずいぶん長く寝てしまった、夜眠れるだろうか…。
『そろそろ今日の移動は終わりだよ。随分長く寝てたね』
くすくすリュゼに笑われて、ちょっと恥ずかしい。自分でも寝すぎだとは思う。
馬車が減速して、脇道にゆっくりと止まる。そういえば、あの馬車の荷は何なのだろう。生成色の幌でしっかり覆われているので、中は窺い知れない。だが、何だろう…初めて見たときには気が付かなかったが、なんとなく違和感がある。うまく言葉にできないのだが、少し気持ち悪い感じだ。何か匂いのきついものでも乗せているんだろうか。
今日は森の近くで休むようだ。木々が生い茂っていて、昨日よりも少し涼しい。木の下でニルさんの背中から降りて、澄んだ森の空気を吸い込む。
『気持ちいいね』
『うん』
リュゼはなんだかいつもニコニコしてるし、穏やかで空気が柔らかい。ヴェルが纏う空気はいつも鋭いので、ギャップに少し気が抜けてしまう。いや、時々ヴェルだって優しそうに微笑むときもあるし、柔らかい空気のときだってあるのだが。
『夜は雨が降るかもね』
二人並んで空を見上げる。街灯なんてないので、月がないと夜はだいぶ暗い。暗闇は本能的な恐怖を掻き立てるものだ。ランプに火を灯してもらって、心を落ち着かせる。
森の入り口に、座るのにちょうど良さそうな岩を見つけたので、そこに腰を下ろしてヴェルを待った。足元でニルさんが伏せの体制で寛いでいる。尻尾がゆらりと揺れていて、少しだけ辺りを警戒しているようだ。背中を撫でてやりながら、鞄から水を取り出す。ヴェルが教えてくれたのだが、瓶には圧縮する術式が組み込まれているのだという。見た目よりも量が入っていて重たい。口をつけて少しだけ飲むと、身体に染み渡る感覚がして気持ちがよかった。
ぽた、と手に水が触れる気配がする。あれ、こぼしたか?と思ったが、違ったらしい。どうやら雨が降り始めたようだ。ぱらぱらと木々の隙間を縫って水がしたたり落ちてくる。さあっと音がして、徐々に本降りになってきた。こちらに来て初めての雨である。
水が草の上をはねて、飛沫で辺りがうっすら白く見える。だが周囲は一気に暗くなってきて、それすらも見えなくなってきた。ランプは筒状になっていて上が開いているのだが、水が入ってきても消える気配が無い。もしかしたら術式で点けているから水では消えないのかも。木の下に居るのでまだそこまで雨は落ちてこないのだが、地面を撥ねた水が足にかかる。ニルさんの身体もすっかり水で濡れていってしまう。
リュゼが荷物をごそごそしながら、こちらを振り向いた。
『降ってきちゃったか。スグルの持ってる毛布って、防水?』
『わかんない…』
でもとりあえずニルさんの体は覆ってあげなくちゃ、と思って、先にニルさんに毛布を掛けてあげる。毛布はヴェルがくれた聖騎士団のものなので、結構質はいいはずだ。ニルさんにぱたぱたと落ちてくる水を毛布がはじいている。防水だったらしい。
――私の方より、スグル、自分に毛布を掛けろ。
心配する目を向けられて、自分の方も急いで毛布を用意する。あわあわしているうちに大分雨で体が濡れてしまった。隣でリュゼが『大丈夫?』と毛布を少しの間かけてくれたので、助かったけど。ヴェルの方は大丈夫だろうか、と馬車の方を伺うと、ちょうどこちらに走ってくるところだった。
ヴェルも身体がすっかり濡れてしまっている。濡れたシャツが肌に張り付いて、なんとなく目のやり場に困る。濡れた前髪を後ろにかき上げながら、私が差し出した毛布を受け取った。そういう髪型だと普段よりももっと年上に見えるので不思議だ。
『濡れているじゃないか』
眉間に皴を寄せるヴェルに、お前もだろう、と心の中で反論する。
――私に先に毛布を掛けるから。私のことなど気にせず先に自分にかけろ。
(むう…)
そんなこと言われたって、心配だったんだからしょうがないじゃないか。
『雨足が徐々に強まっている。この辺りでは雨をしのげる場所が無いからな…なるべく木々が密集している所にいた方がいいだろう。少し森の中に入るが、問題ないか』
通訳を受けて、うん、と頷く。
『ヴェルは?』
『見張りの番がある。一晩中ではないから心配するな』
彼だって曲がりなりにも元聖騎士だ、身体は鍛えているのだろう。そう納得させて、頷きを返した。
森の中に少し入ったところに、成り行きでついて来たリュゼと、2人と1匹で腰を落ち着かせる。座るのにちょうど良さそうな岩があったので、3人並んで腰掛けた。ぽた、ぽた、と時折雨が葉を伝って落ちてくるが、頭から被った毛布に弾かれ、地面を濡らして行く。フードのようにして頭にかぶって首元で留めると、フード付きのマントのようになって、結構雨は防げる。
準備したとき雨に濡れて身体がすっかり冷えてしまったが、隣に人が座っているので今はだいぶ暖かい。鞄の中から今日の分のパンを取り出して、口に入れる。今日のは野菜と卵が挟まったパンだ。美味しいけど、ケチャップかけたらもっと美味しいかも。ヴェルのは今日は私と同じパンだった。リュゼは干し肉をかじっている。パンばかり食べていると、コメが恋しい。小麦があると言うことは稲があってもいいんじゃないか。
普段からそんなに会話があるというわけでは無いのだが、リュゼが居るのでヴェルは完全に無言だ。多分嫌っているというわけではない…と思うのだが、普段より空気が怖いし、眉間の皺も深い。このままだと将来眉間の皺が取れなくなるぞ。
『…スグル、怪我したの?』
ふと、首元に冷たい指先が触れて、ぞくりとする。びくっとして、その手の主をふり仰ぐと、リュゼが私の首元に視線を向けていた。直ぐに後ろから腕がまわってきて、身体が引き寄せられる。後頭部が硬い胸板に当たった。
『…まだ、痛むというから、触らないでやってくれないか』
『あ、ごめん!』
冷静なヴェルの言葉に、リュゼが謝罪した。申し訳無さそうに見下ろして来るので、気にしてないよ、と微笑みを向ける。
そうか、服が濡れて肌に張り付いて、襟が普段より大きく開いてしまっている。首の付け根辺りから広がる傷跡が見えてしまっていたようだ。
『痛かった…?』
根が優しいのだろう、少し泣きそうな顔で尋ねられて、ううん、と首を振ると、また『ごめん』と頭を撫でてきた。別にもう痛くないから気にしてないのに。僅かに、身体に回されたヴェルの腕に力が入った。大丈夫、とヴェルの腕を軽く叩くと、身体が離れる。
少し気まずい空気の中、残りのパンを口に入れて嚥下する。ヴェルは今日は見張りの日だ。私がパンを食べ終わると、ランプを持ってヴェルが立ち上がった。
『見張りの番につく。ここから動くなよ』
『うん』
夜、いつも近くにいたので、離れるのは少し不安だった。
『…』
『わ』
不安が顔に出てしまっていただろうか。大きな手が降ってきて、ヴェルに無言でフードの上から頭を撫でられた。凄く不器用な撫で方で、髪がボサボサになる。やめろ、と言う前に手が頭から降りた。少しだけ困ったような顔のヴェルと目が合う。
『近くにいる、何かあったらグレイプニルを寄越せ』
『…うん』
ボサボサの頭を整えながら返事する。ヴェルはそのまま背を向けて馬車の方に歩いて行った。
『…お兄さん不器用だねえ』
『…』
ほっといてやってくれ。
ニルさんの背中にもたれて目を閉じる。身体は毛布で包んでいるので雨からは守られているが、一度濡れてしまっているので、冷たい服が肌に触れて気持ちが悪い。着替えたいけど、途中でリュゼが起きてしまったら困る。彼はさっきさっさと着替えて、今はこちらを向いてすやすや寝息を立てている。寝付きはいいらしい。頼むから反対側を向いて寝てくれないだろうか。
眠れないので、ニルさんの前足の肉球をふにふにする。なんでこんな柔らかいんだろう、魅惑の前足である。
ぴくっと、ニルさんの体が跳ね起きる。
(あ、ごめん、肉球の魔力に吸い寄せられて…)
ふにふにする手を止めて言い訳をしてみたが、ニルさんから返事はない。お、怒らせただろうか…?
――気配がする。
(何の…?)
――人間だ、複数。
(えっ?)
こんなところで、しかも森の中だ。他の旅人というのは考えにくい。
(山賊とか、盗賊とか、そういうやつ…?)
――可能性は高い。不快な気配もわずかに感じる。
(ヴェルに伝えて!)
――しかし、お前が。
(じゃあ一緒に行く)
身体を起こして鞄を背負う。流石にリュゼをそのまま置いて行くのは気が咎めたので、隣で寝息を立てる身体をぐいぐい揺する。なかなか起きないので、肩を掴んで思いっきり揺すると、『んあぁ』と間抜けな声を出して目を開けた。
『なに…?』
事情を説明しようとして、はっと思考が止まる。
盗賊、とか、山賊、とかの単語はわからないし、危ないってどう言うんだろう…!?言葉がわからないともどかしい!
泣きそうになりながらあわあわ手を動かしていると、リュゼが徐々に覚醒してきたらしく、こちらの慌てぶりに不審な目を向ける。
『…?どうしたの?』
『…!』
ええと、ええと、どう言ったらいいんだ!
馬車の方を見たり、周りを見渡したりする私を見て、『もしかして、お兄さんの所に行きたいの?』と首を傾げてリュゼが聞いてきた。
そう、それだ!取り敢えずヴェルの所に行きたいのだ。察しがいいじゃないか、上司に好かれるぞ!と肩をぽんぽん叩く。ああ、違う、焦りすぎて頭がおかしくなってる!
『リュゼ、一緒、来て!』
『え?うん』
私以上に混乱している様子のリュゼを引っ張って、ニルさんと森の中を走る。水溜りを踏んで、ズボンと靴にばしゃりと濁った水が飛んだ。雨足は弱まる気配がない、むしろどんどん強くなって来てる気がする。ランプを持ってはいるが、足元しか照らせないので、何度か転びそうになった。少し走ると、灯りでうっすら照らされた馬車の幌が見えた。
『ヴェル!』
声を掛けると、赤銅色の頭が振り向いた。
『…どうした』
只事ではない様子が伝わったのか、腰の左に下げた剣の柄を握っているのが薄っすら見える。
――森の中に、複数の人間の気配がする。
『…なに?』
ヴェルが鋭い視線を私達の背後に向ける。黙ったまま少しの間森を注視していた。私には全くわからないのだが、ヴェルには何か見えるのだろうか。微かに剣を握る手に力が入ったのか、かちゃり、と金属と金属の触れ合う音がした。ヴェルはそのまま視線は森から外さず、こちらに指示を出す。
『スグル、お前は馬車の陰に隠れていろ。グレイプニルは近くにいてやれ。あとは状況を見て判断しろ』
『え、なに?どういうこと?』
混乱しているリュゼに、ヴェルがちらりと視線を向ける。
『雨の音で判然としないが、複数の人の気配がする。賊かもしれない』
ごくり、と大きく唾を飲み込む音がする。リュゼの顔に緊張が走った。
『お前は、何か起きたら周りの旅人を起こしていってくれ』
『わかった』
急いで走って来たので、きちんと纏えていなかった毛布を体に巻き付ける。人と人が剣を交える様を見るのは怖い。ヴェルが刺された時のことを思い出して身体が震えた。
――スグル、馬車の反対側へ。
うん、と頷いて、森からは死角になる馬車の幌の陰に身を隠し、あたりを伺う。
杞憂であればいいが、もしも襲われたら…ヴェルが危険な目にあうのは怖い。横に控えるニルさんの背中の毛をギュッと握る。
大粒の雨が頭や背中を叩く。毛布から出ている手はすっかり冷えて白くなっていた。雨が伝って、白い手の甲をさらに濡らして冷やしていく。冷たさからか、恐怖からか、手が微かに震えた。
ひゅ、と耳元をかすめる音がして身体が跳ねる。
――優!
ニルさんの声がして、馬車の裏に突き飛ばされた。
『賊だ!』
大きな声が上がる。自分が先程まで立っていた場所のすぐ近くの地面に、大きな矢が刺さっていた。ぞっとして腰が抜ける。
――無事か。
「だい、じょうぶ」
思わず日本語で返事をしてしまう。それよりヴェルは、無事だろうか。
うおおお、と大きな声がして、真っ暗な森の中から大きな男たちが飛び出てくる。空気がビリビリと張りつめて、恐怖で身がすくむ。ヴェルの方を伺うと、既に剣を抜いて応戦しているようだった。僅かな光を反射して、ヴェルの刀身が舞うように動く。他の護衛も合流して、至る所で剣戟の音が空気を切り裂く。
ひゅん、ひゅん、と音がして、火矢が飛んでくる。ヴェルの剣がその内数本を叩き落したが、それでも残った矢が、私が隠れているのとは別の馬車の幌に当たった。大雨なのに、火はどんどん燃え広がり、荷を覆っていた幌を焼き尽くしていく。炎が辺りを赤く照らし、半狂乱の商人の男が飛び出してくる。
――術式の矢か、厄介だ。
うおお、と山賊の男たちが声を上げて、燃える馬車に飛びついていく。かなりの数で、護衛もさばき切れていない。大きな武骨な剣を振り回して、大男が馬車の幌を切り裂いた。
――まさかこれほどの人数とは。ここも危ない、移動するぞ、優!
「う、うん」
返事はしたが腰が抜けて動けない。少し離れたところの、ぼろぼろになっていく馬車から目が離せず、硬直する。いや、正確には、ぼろぼろになっていく、馬車の荷から目が離せない。山賊たちの――おそらくそれだけではない、周囲にいる人々全員の動揺した声がこちらまで聞こえる。それは…それは、大きな檻だった。金属製の、太い支柱の真っ黒な檻。その中には、
見覚えのある――真っ黒な獣がいた。




