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15.東へ(1)

 それから先の9日間は、ひたすら勉強に充て、時々ピアノを弾いてお金を稼ぐという生活を送った。お客さんから貰ったお金は、ヴェルに全て渡してある。宿代や食費諸々全て払って貰っているので受け取ってくれ、と言うと渋々ながら受け取ってくれた。いくらか足しになればいい。

 ニルさんは私と一緒に勉強してくれている。ニルさんの我々との会話は、相手の意識のようなものに自分の意識を繋ぐことで行われているのだそうだ。それ故、私の話す言葉も、ヴェルの話す言葉も、理解はしていないらしい。ニルさんは言葉を話すことができない(言語のような複雑な発音ができるような声帯ではないらしい)ので、勉強しなくても良いのだが…文字が読めた方がいいだろうと、付き合ってくれている。

 日中は部屋で勉強して、夕方はだいたい階下でピアノを弾いて過ごした。お客さんは徐々に増えていき、貰えるお金も増えていく。少し引き攣るような感覚があった手もまともに動くようになって、リハビリ効果があったのかな、とほっとした。ヴェルが帰ってきたら最後に一曲だけ弾いて、晩御飯を一緒に食べて、勉強して眠る。どんなに疲れていようが勉強に付き合ってくれる彼は、律儀というかなんというか…まあ、その甲斐あって、少ない時間でかなりの単語が叩き込めたと思う。勉強用に、と買ってきて貰った絵本もスラスラ読めるようになった。本当に有難い限りだ。


 そうして穏やかに日々は過ぎていき、出発当日になった。


◇ ◇ ◇


 ヴェルが用意してくれた鞄に、自分の荷物を入れる。服とノートとペンだけの少ない荷物だ。あれから服は少し増やして、替えのシャツが3枚とズボンが2枚。ジャージもあるので、これくらいあればひとまず大丈夫だろう。

 東の港町までは、4日ほど歩くらしい。ヴェルは商団の護衛として、馬車の横を歩くという。『前払いでそれなりにお金が入る』と言っていたので、なるほどそれなら好条件だ、と頷いた。そこまで離れた位置を歩く訳ではないので、何かあっても問題ないだろう。

『忘れ物はないか』

 ヴェルが学校の先生みたいなことを言う。なんとなく意味が分かったので、うん、と頷いて、リュックのような形の鞄を背負う。荷物が少ないので軽い。以前は鞄にノートパソコンやら化粧品やら入れていたのですぐ重くなった。少し前のことなのに懐かしく思いながら、ニルさんの背中に毛布や食料などの荷物を括り付けていく。重くないのか心配なのだが、問題ないというので有難く荷を持ってもらうことにした。ニルさんは良い子だね~!とニコニコしながら撫で回すと、やめろ、と怒られた。

 今日のヴェルは、七分丈の黒いシャツに、黒いズボン。黒尽くめだ。がっしりとした前腕が見えて、なんとなくいつもより強そうに見える。私の方はいつもの長袖の白いシャツに、紺色のズボン。宿の人が洗濯もしてくれたので、いい匂いがする。

 行くか、というヴェルの後ろを追いかけて、階下に降りた。

 

 

『また、こちらに立ち寄ることがあったら、是非うちに泊まっていってくださいね』

 ヴェルが返した部屋の鍵を受け取りながら、宿の主人が言った。

 ピアノの方をちらりと見る。自分の中の気持ちに向き合うきっかけを作ってくれたピアノだ。離れがたい気持ちが無いと言えば嘘になる。

『…最後に』

 ヴェルがこちらを見下ろして、ふっと小さく微笑んだ。

『一曲だけ、いいか』

 優しさにちょっとだけ泣きそうになった。朝早いからお客さんはいないけど、宿のおじさんとおばさん、そしてニルさんと、ヴェルのために、一曲。

 

 ピアノの前の椅子に座って、深く深呼吸をする。ずっとここで弾いていたから、椅子の高さも、ピアノとの距離も、自分が一番弾きやすい位置。それでも、いつだって緊張する。

 最後の一曲に、優しくて美しい曲を。

 ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』の第3曲、「月の光」。美しくて、でもどこかもの悲しい、幻想的な曲。とても有名な曲だけど、こちらで弾くのは初めての曲だった。

 一音一音大切に、ていねいに。切なくて繊細で、優しくて柔らかくて、月の光がきらきらと降り注ぐように。心を捧げるようにピアノを奏でる。ここでの演奏はとても楽しかった。家族以外の誰かのために演奏するのは初めてだったけど、みんなが温かい拍手をいつもくれたから、とても幸せだった。感謝の気持ちを指に乗せて、今までで一番の演奏になるように、一生懸命弾いた。

 ゆっくりと鍵盤から指を上げる。少しだけ名残惜しい。椅子から降りて、いつものようにぺこりと客席に向かって頭を下げた。

 拍手の音で顔を上げる。宿のおじさんとおばさんが、ボロボロ泣きながら拍手してくれていた。照れくさくて、ヴェルとニルさんの近くまでパタパタと戻る。

『…ありがとう』

 宿のおじさんとおばさんに、初めて言葉をかけた。少しだけびっくりした顔をしたけど、またにっこり笑いかけてくれた。

 いつか、やらなきゃいけないことが全部終わったら、またここで弾きたいと、そう思った。

 


『良い演奏だった』

『ありがとう』

 あと、最後に一曲、演奏させてくれてありがとう、と日本語で続ける。通訳されて、一瞬こちらを振り向いて『ああ』と返した。

 まだ朝なので、街中は閑散としている。こうやって通りを歩くのは、この街に来て以来だった。この街にも、色んな種族の人々が住んでいて、生きているのだなあ、と思う。洗濯物を干す人、お店の前を掃除する人、家の前の椅子に腰掛けて、のんびり煙草を吸う人。そういう人々の姿は、こちらでもあちらでも変わらない。

 ぼんやり周りを見渡しながら歩く。多分、暫くここへは来られない。日本であって日本でない、きっと私が生まれ育った場所に近い場所。

『…大丈夫か』

 足が止まっていたようだ。ぼんやり正面を見上げると、静かな紺色の瞳と目が合う。

『残りたければ、残っても良いが』

 自分にとっては、一つの大きな分岐点かもしれない。

 きっと、残ると言えば、律儀な彼は私がここで暮らせるようにしてくれるんだろう。

『残らない』

 覚えたての、異界の言葉はまだ慣れないけれど。

 立ち止まっていたヴェルと、ニルさんの後ろについて歩いた。


◇ ◇ ◇


 朝の空気を胸に吸い込んで、前を歩くヴェルの後ろを追いかける。多分普段はもっと歩くのが早いのだろうが、こちらに合わせて少しゆっくり歩いてくれているようだ。こちらも早歩きくらいで何とかついていける。

 街の東側に向かって大通りを歩いていく。しばらくすると、街のはずれについたらしい。辺りが畑になっていく。

 正面に、大きな馬車が2台停まっていた。丁度準備をしていたようで、体格の良い男達が、幌で覆われた馬車に大きな荷を積んでいる。2メートルを軽く超えるその体躯にちょっとビビる。こちらの人達の中でもかなり背が高い部類だろう。腕なんか、ちょっとした丸太のようである。ヴェルがまだ小さい方でよかった。日常的にあのサイズを見上げるのはしんどいだろう。今ですら首が痛いのに。

 少し離れたところで、大きなお腹の男が彼らに指示を出している。この商団の主らしい。派手な紫色の上衣を着た、長い髭の男。目はちょっとぎょろっとしていて、丸い鼻と分厚い唇をしていた。なかなか一度見たら忘れられない顔だ。

『移動中は別行動になる。日中移動し、夜間は野営する。夜はなるべく近くにいるが、何かあればグレイプニルに知らせろ』

 通訳をしてもらって、頷きを返す。今回は4日間の移動、なかなか大変だろう。ニルさんは背中に乗れと言ってくれるけど、かなり運動不足なので、出来るだけ歩いておきたい。

 歩いて4日は、車だったらどれくらいで着くんだろう。聖術とやらをうまく利用すれば、似たようなものは作れるんじゃないだろうか。初めに車を発明した人って凄いなあ、とぼんやり考えて突っ立っていると、徐々に周りに人が集まってきた。多分20人くらいで、騎獣も数匹いる。

『みんな、東に、行く?』

 小声でヴェルに尋ねる。私の異界語力は多分だいたい、中学生の英語力くらいだ。一度外国語を勉強した経験が活きて、短時間でけっこう成長したと思う。まだ単語が弱いけど。

『ああ、そうだ。私と同じように、護衛をする者もいるが』

 ふうん、と頷いて馬車の方を見やる。そろそろ馬車も動き出せそうだ。

『では、後で』

『うん』

 ヴェルは馬車の方に歩いて行った。同じように歩いて行く者がちらほらいる。みんな護衛らしい。程なくして馬車が動き出し、周りにいた人達が後ろについて行った。それに倣って、最後尾につく。スピードはちょっと急いで歩くくらいで、なんとか徒歩でもついていけそうだ。疲れるまではニルさんの背中には乗らずにいようと思う。よし、と気合を入れて、馬車の後ろを追いかけた。



(うし)

――しか。

(か…かい)

――いかだ。

(ダックスフント)

――なんだそれは。

 疲れてきたのでニルさんの背中に乗って、暇なのでしりとりをしていた。若干めんどくさそうにしながらも付き合ってくれるのだから、ニルさんは優しい。

 しかし、共通認識として存在していないものの名前を出すと、突っ込みが入る。どうしてもあちらにいた動物とか、地名とかが出てきてしまうので、うまく繋がらない。逆にニルさんからも聞いたことのない単語が出てくるので、これはしりとりが成立しているのか、と疑問に思わずにはいられない。

(あっちにいる犬でね、毛足が長くて、胴が長くて脚が短いの)

――随分と生きにくそうだな。

(言われてみるとそうかも。走りにくそうだよね)

 ふふ、とちょっと笑ってしまう。でも、短い脚で走り回る姿はなんだか可愛い。

――ビルレストには犬が沢山いるのだな。

(そうだね、いろんな国にいろんな犬がいるよ。日本だと、柴犬とか、秋田犬とか、土佐犬とか…ダックスフントは外国の犬。どこだったかなあ…語感的にドイツっぽい…)

――ふうむ。

(ええと、なんだっけ、次、ニルさんでトからだよ)

――トルケル。

(なにそれ)

 まあ、こんな調子なのだが、結果的にお互いの世界の知らないことを知るきっかけになるので、それもいいか、と思っている。因みにトルケルというのは、ニルさんの階層にいる、尾の長い翼竜の名前らしい。ちょっと想像がつかない。

 そんな感じでしりとりをしたり、ノートを読み返して勉強したり、ニルさんの背中から降りて歩いたりしているうちに、あたりは少しずつ暗くなっていった。先頭の馬車が止まって、道から少し離れたところに移動していく。それにみんなついていって、各々座って寛ぎ出した。こういうのは新鮮で面白い。

 食事はそれぞれが用意しているものを食べているようだ。炊き出しのようなものはないらしい、残念である。

 至る所でポッと火が灯る。焚き火かと思ったのだが、どうやらランプらしい。そういえば荷物の中に入っていた。

 座りやすそうな倒木があったので、そこで座ってヴェルを待ちながらランプに火を点け…ようと思ったのだが、点け方がわからない。スイッチみたいなものはあるのだが、カチカチしても無反応だ。もしかして術式が必要なのだろうか。うーん、うーんと唸っていると、誰かの手がランプを取り上げて、カチっと火を点けた。

『ありが――』

 知らない、大きな翠色の瞳と目が合う。

 びっくりして見上げていると、『あ』と相手が声を出した。

『ごめん、びっくりさせちゃって』

 人なつこい笑顔を向けられて、気が緩む。ニルさんはまだ少し緊張しているようで、尻尾がゆらりと揺れた。

 ヴェルより少しひょろっとした感じの、背の高い男だった。少し長めの柔らかそうな黒髪、優しそうな顔をしている。年の頃は10代後半くらいだろうか。

 火のついたランプを渡されて、『ありがとう』と言い直す。

『君、一人なの?』

 ふるふる、と首を振る。

『親と一緒とか?』

 また、ふるふる、と首を振る。

『兄弟?』

 こくん、と頷いてみせる。取り敢えず、今は兄弟ということにしてあった。似ても似つかない顔だが、まあ養子とか腹違いとか、色々理由はつけやすい。

 ふうん、と頷いて、『俺は一人旅なんだ。一緒にご飯食べていい?』と続ける。それに返事をする前に、男が隣にどさっと腰を下ろした。距離が近い。ニルさんがちょっと唸って、身を起こしたが、彼は気づいているのかいないのか全く動じていない。

 離れてくれ、というのはどういったらいいのかわからないし、面倒だったので、そのまま黙っておいた。

『君、名前は?』

『…スグル』

 一瞬逡巡して、でも正直に答える。

『珍しい名前だね』

 そうか、こちらではやはり珍しい名前なのか。

『俺、リュザフィール。リュゼでいいよ、よろしくね』

 にっと笑う。その笑顔は幼く見える…もしかしたら歳下かもしれない。

『リュゼ、いくつ?』

『18だよ。スグルは?』

『……12』

まさか21でこんなにサバを読むことになるとは…。そして歳下に歳下として扱われるのは、なかなかに複雑な気分だ。

『…スグル?』

 聞きなれた声に後ろを振り向くと、眉間に皺を寄せたヴェルが立っていた。ちらっと左隣に座る男を見て、『誰だこいつは』というようにこちらを鋭く見下ろす。いやいや、違う、自分から声かけたんじゃないってば!

『あ、お兄さん?』

 隣に座る男はへらへらしてヴェルに手を振る。ヴェルはなんともいえない顔で、『どうも』と私の右に座った。

 頭の上で軽い自己紹介が交わされるのを聞き流しながら(ヴェルはさらっと偽名を使っていた)、鞄からパンを出してヴェルに渡す。保存の術式がかかっているとのことで、普通のパンでも5日くらい保つんだそうだ。保存料が入っていないので身体に優しそう。それ以上保存させようとすると、だいたい乾パンみたいにするらしい。

 チーズが入ったパンを口に入れる。ふわふわだけど、チーズのかかった表面がカリッとしてて美味しい。隣を見上げると、ヴェルも既にパンを頬張っている。ヴェルのはベーコンが挟まってるやつだ。いいなあ~美味しそうだなあ~と思って見ていると、視線に気付いたのか、パンをちょっとちぎって分けてくれた。

『ありがとう!』

『…どういたしまして』

 塩味のきいたカリカリのベーコンが美味しい!味はちょっとベーコンエピっぽい。

 お返しに、と、チーズのパンを同じくらいちぎって渡してあげる。ちょっと間があったが、受け取ったヴェルがそのまま口に入れた。

『美味しい?』

『…美味しい』

 うむ!うまいだろう、とうんうん頷いていると、なんとも言えない顔を向けられた。

『仲が良いんだねえ』

 やり取りを見ていた男がニヤニヤ笑いながら話しかけてくる。ニルさんが通訳してくれなかったので、「欲しいのか…?」と思い、リュゼにもパンをちぎって渡すと、きょとんとした顔をされたが、受け取ってくれた。

『ありがと、美味しいよ』

 大きな手が降ってきて、頭を撫でられた。この歳ではなかなか頭を撫でられることなど無いので、身体が緊張する。あと凄く複雑な気分だ。いやでも、12歳くらいの子供相手なら自分も頭を撫でるくらいはする。

『そういえば、お兄さん歳離れてるね。いくつ?』

『…25』

 そういえば聞きそびれていた。25だったのか。ふうん、と心中で呟く。正直もっと上だと思っていた。顔立ちと言うよりは振る舞いが大人っぽいというか、老けているというか。

『へえ、結構離れてるね』

『…そうだな』

『顔も似てないよね、親が違うとか?』

『そうだな』

『立派な騎獣だねえ』

『…そうだな』

 さっきから『そうだな』しか言っていない。普段に比べると少し機嫌が悪そうだ。だがそんなヴェルに気を悪くした風もなく、リュゼはつらつらと喋り続ける。

『俺はさ、転移陣で南に行くんだ。君達は?』

『船で、東に…』

『船で?』

 リュゼが素っ頓狂な声を上げた。

『東に行く船、今ないらしいよ。1週間くらい前に魔獣が出たらしくてさ、巡航船が壊されたんだって。今出てるのは、金持ちの道楽の大型の遊覧船だけだって聞いたけど』

『…本当か』

『だから今はみんな転移陣使おうとしてて、すごい混雑してるんだってさ。すっごい時間かかるし高いけど、背に腹はかえられないってね』

『……』

 ふうむ、とヴェルが唸る。

 私には、おそらく転移陣というものが使えない。下手をすれば、こちらに来た時の二の舞になるぞ、とニルさんに言われた。つまりはバラバラである。だから物理的に船で渡る方法しかない。

 どうしよう、と視線をニルさんに向けてみる。

――想定外の事態だな。だが、転移陣は使えない。他の方法を考えるしかないな。

(他の方法…その、遊覧船って言うのには乗れないのかな)

――ふうむ…今は他人の目がある。港に着いてから話そう。

 うん、と返して、隣のヴェルをちらっと見上げる。

『…先のことは考えても仕方がないな。今日はもう休もうか』

 視線で察してくれたらしい。話を切り上げる一言を口にして、眠る準備に入った。

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