14.東か西か
なんだかお金持ちの気分である。袋に詰まった硬貨をぎゅっと握りしめて、ヴェルの広い背中を追いかける。お金に夢中になっていたので、階段で転びそうになった。不覚である。床にぶつかりそうになったところで、ヴェルの手が肩を掴んで止めてくれた。呆れたような視線が降ってきてちょっと恥ずかしい。
ここでの演奏は、自分は楽しいし、みんな喜んでくれるし、お金も入るしで一石二鳥どころか一石三鳥くらいいってる気がする。まだまだ下手くそで、母のようにはいかないが、いつか追いつきたい。
今朝はまあ色々あったが、午後は基本的に部屋でのんびりしていた。暇すぎて「ヴェル遅いねえ」「そうだな」という会話を繰り返し、昼寝をし、それでもやることがなくなってニルさんとしりとりをしていたら(無理やり付き合わせた)、お腹がぐう、と鳴った。外はすっかり夕暮れ時で、ニルさんの肉球をふにふにするのにも飽きてしまい、どうしたものかと頭を抱えていると、
――階下に降りて見たらどうだ?
とニルさんに言われたので(肉球を触られるのは嫌なのか、随分辟易した顔をしていた)、ドキドキしながらニルさんと下の食堂に降りた。
『お?昨日の坊主じゃねえか!』
『また弾いてくれんのか?』
『ちょっと、お客さんに無理言うんじゃないよ!』
と、いろんな声を浴びせられる。あれよあれよという間にピアノの前に座らされ、客にキラキラした目で見つめられたので、これで弾かないのは申し訳ないと、数曲弾いて今に至る。
ヴェルは、朝は酷い動揺っぷりだったが、今はいつも通りに見える。部屋に入って、いつものように椅子に座り向かい合って食事をとりながら、彼の様子を伺う。私はまだ半分しか食べていないのに、彼はもう食べ終わったらしい。腕を組んで、朝と同様、窓の外に鋭い目を向けていた。
子供だと思われているとは感じていたが、まさか男と思われているとは思わなかった。食事に意識を戻し、もぐもぐ食べながら胸中で独白する。ただまあ…過去の彼の行動にも色々納得がいった。同性なら、そりゃあ着替えの時に気を遣ったりはしないだろう。
今日の晩ご飯は、パンと、野菜と肉の炒め物。野菜はやはり、見たことのない色と形状のものばかりで慣れない。赤いのに味は葉っぱっぽいのとか、緑なのにトマトみたいな味とか…あ、もしかしたら朝のスープ、これでできてたのかもしれない。少々量は多いが、しっかり完食して手を合わせる。ごちそうさま。
食後は、ヴェルが運んできてくれたお茶に口をつけて寛いだ。驚くことに、緑茶である。ティーカップに緑茶が注がれるのはなんとも言えない違和感がある。湯呑みはないのだろうか。
『今後のことだが――』
一息つきながら、ヴェルが紙に世界地図のようなものを書きながら続ける。ヴェルはどうも絵が下手らしく、少々残念な有様だったが突っ込まず目を瞑っておいた。意外な一面である。
『まず前提として話しておかなければならないことがある。初めて魔獣が出現したのは、ここから東に海を渡った先にある…この大陸だ』
ヴェルはそう言って北アメリカ大陸を示す。
『「初めの魔獣」は、大陸の東にある小さな街に、突如出現した。巨大で、強力な魔獣だったらしい。街の人間は一人を除き全て殺された。その生き残りの一人も、先日病死した。獣の血を浴びていたらしくてな、徐々に身体を蝕まれていった』
ニルさんの通訳を聞き、ぞっとする。
『獣はその後大陸の東部を蹂躙し、多くの死者を出した。その後、聖騎士団によって魔獣は打ち倒されたが、聖騎士にも多くの死傷者が出た。世界全体に甚大な損害を与えた、忌々しい事件だ』
苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ヴェルは続ける。
『聖帝はこの事件ののち、魔獣の出現の折は聖騎士を派遣し、これを打ち果たすよう勅命を出された。それと同時に、魔獣がどこから来るのかの調査も始めた。勿論、初めて魔獣が出現した地を、より詳しく調べはしたが――…結果は何も出なかった。何故魔獣が現れるのか、それが人為的なものなのか、どこから現れるのか。すべて不明だ。だが、お前の目で見れば違った結果が出るのではないかと思う。まずは東の大陸に渡り、「初めの魔獣」について調べてみるのがいいと考える』
――私もその意見に賛成だ。
『だがひとつ、懸念点がある。街の者から聞いたのだが――ここでは「魔獣は西の大陸からやってくる」と言われているようだ』
――東ではないのか。
『ああ。ただの噂と切り捨てるべきか、それとも理由があってそう言われているのかは判然としない』
――ふうむ…。
途中から通訳が止まってしまって手持無沙汰にカップからお茶を飲む。どこに向かうか迷っているらしい。
――…東にしよう。噂は気になるが、初めて現れたという獣の痕跡は見ておきたい。あとひとつ言っておくが…「初めの魔獣」は人為的に「こちら」に現れたものだろう。本来こちら側にネグロフィリアの者は干渉できない。その後の出現については…微妙なところだ。これほど不安定になっていれば、自然的に発生してしまうものもあるだろう。哀れだが、魔獣はこちらでは長く生きられない。こちらとあちらでは空気が違いすぎるのだ。それ故あまりの苦痛に神経をやられ、理性を失う。
『そうか…』
ヴェルの眉間に深い皴が刻まれる。そうか、だからあの時…初めてこちらで魔獣を見たとき、ニルさんはあんなに苦しそうだったのだ。早くこの状況を解決してあげなくてはならない。あちらで生活する魔獣たちのためにも、こちらで苦しめられた人々のためにも。このままでは、みんなが苦しんで、沢山の生き物が死んでしまう。
『…10日後、東の港町に向かう大きな商団がいるらしい。大規模な移動になるが…商団の近くに居れば、不測の事態の際身を守りやすい。かなり多くの護衛が付くそうだ』
――なるほど。ではそれまでここに留まり、旅の準備を整えよう。
優、とニルさんに声をかけられてそちらを向く。
――10日後、東に向けて出発する。それまでに旅の準備を整える。言葉も勉強しろ。
東か…、「初めの魔獣」について調べるのだろう。なるべく言葉も聞き取れるようになっていた方がいい。
『私もしばらくはこの街で金を稼ぐ。明日は1日開けておくから、なるべく言葉の習得の時間に充てよう。言葉が通じないのは何かと不便だ』
…ずっとしおらしくしていてくれたらいいのに。厳しい目で見下ろしてくるヴェルを見上げながら、ぐう、と唸り声をあげてささやかな抗議をしておいた。
◇ ◇ ◇
今日はもうお風呂に入って寝ようか、という感じになると思っていたのだが、残念ながらお風呂の後にはお勉強の時間が待っていた。ひとまず単語を頭に叩き込め、と言われ、さっきからぶつぶつ発音の練習もかねていろいろな単語を口にしている。高校時代に単語帳を作って英単語を頭に叩き込んだのを思い出す。正直、当時は全然頭に入ってこなかったのだが、今回は死活問題なので、英語よりすんなり頭に入ってくる気がする。
意外だったのが、文法はどうやら日本語に近いということ。
発音は英語に似ている感じがするのだが、英語のように主語の後に動詞、というわけではなく、文の最後に動詞が来る。明日の朝、ヴェルが絵本を買ってきてくれるというので、しばらくはそれを読みながら文法と発音の勉強だ。
文字はやはりというか当たり前というか、アルファベットとは違う。全部で32文字で、表音文字だ。一文字一文字書いてもらって、それをなんと読むのか横にカタカナを書いていく。徐々に法則性が見えてくるのは面白い。
最初は椅子に座って向かい合い、頭を突き合わせて勉強していたのだが、毎回ノートをひっくり返すのは面倒なので、今は椅子を動かして横に並んで座っている。それを横からニルさんが覗き込んで、通訳をしてくれているという図だ。勉強開始からどれくらい経ったのかわからないが、結構な数の単語がノートに並んで行って、頭の中がだいぶ混乱してきている。すっかり湯冷めしてしまって、「へぶしッ!」くしゃみが出た。窓にはガラスが嵌っていないので、夜風が室内を吹き抜ける。『寒いのか』とヴェルが尋ねてきたので、ああ、それさっき習ったぞ!と思い、ニルさんが通訳する前に『寒く、ない』と返事をして見せる。どや顔である。
『覚えるのが早いな』
今度はよくわからなかった。むう、と唸っていると、ヴェルが手の甲を私の首筋にあてた。なんだなんだ、びっくりする。
『身体が冷えている』
ヴェルは何事か囁いて、毛布を肩にかけてきた。
『風邪を引かれては困る。冷えないようにしておけ』
通訳を挟まないと、彼が何を言っているのかわからない。
ヴェルは、基本的に普通に喋る。その方が私も聞き取りの練習になって助かるのだが、時々もどかしい。スラスラこちらの言葉が話せるようになるまで、どれくらい時間がかかるだろう。毛布を引き寄せて『ありがとう』と返事しながら、不安に思わずにはいられなかった。
すっかり夜も更けて、頭もパンクしてきた頃、やっとヴェルが解放してくれた。頭の中をいろいろな単語が駆け巡る。机に突っ伏したままぐったりしていると、ヴェルが温かいお茶を入れてくれた。お礼を言って受け取って、口をつける。随分時間が経っていたのに、温かいままだ。薄い陶器のポットは別に魔法瓶になっているようには見えないし、どうやら何か術がかかっているらしい。便利なものだ。こういう魔法みたいなものがあると、逆に科学技術の方は発展しないのかもしれない。
彼は『明日は動詞を中心的に叩き込むか…』と何事か呟きながらお茶を飲んでいる。ちょっと嫌な予感がする。この男加減というものを知らないのではないだろうか。
徐々にやってくる眠気と戦いながら、今日勉強した分の単語を見返す。日常的に使いそうな…挨拶編から始まり、身の回りのものの名詞。おはよう、こんにちは、こんばんは、おやすみ…目を閉じて単語を頭の中で反芻していく。ええと、おやすみってなんだったっけ。目を開けてページをめくれば答えがそこにあるのだが、どうにも眠すぎて目を開けることができない。
身体に力が入らなくて、頭が揺れる。隣に座るヴェルの肩に頭をぶつけて、その衝撃で一瞬意識が浮上したが、強烈な睡魔に勝てずにそのまま眠ってしまった。
◇ ◇ ◇
私は夢の中で、獣になっていた。
美しい青い瞳の娘が、自分の身体を抱き上げる。どこか既視感を覚える青い瞳。彼女の口が動いて、何か言われたようだったがわからなかった。彼女は、近くの水に私の身体をつけてごしごし洗い出した。
水は嫌いだ。だいぶ暴れて、彼女の腕を引っ掻いてしまったが、彼女は気にした風もなく、手を止めない。
しばらくして水から私の身体を引き上げると、白くなった毛を見てふわりと微笑んだ。
水は嫌いだが、その笑顔は綺麗だと思った。




