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12.誤解

 ニルさんの毛皮も気持ちがいいが、ベッドと羽毛布団もいいものだ。数日ぶりのベッドはふかふかで柔らかくて気持ちが良かった。良質な睡眠が得られたのか、とても気持ちよく目が覚める。室内の小さな窓から陽光が差して、机の横のレース編みのカーテンがきらきら輝いて見えた。そういえばこちらの窓にはガラスが嵌っていない。微かに揺れるカーテンを見ながら、窓ガラスはこの世界には無いのだろうか、とふと疑問に思う。

 ぼんやりした頭で向かいのベッドを見るが、そこにヴェルの姿は無い。んん?と首を捻って、室内を見渡す。入り口の近くの床ですやすや眠っているニルさんの姿があるだけで、彼の姿は室内には無かった。階下に行っているのかもしれない、と起き上がって伸びをする。

 昨日は、ご飯を食べて、少し食休みをした後すぐに寝てしまった。…昨日のご飯はとても美味しかった。見た目はトマトソースの具だくさんなナポリタンみたいな感じで、食べて見るとバジルソースみたいな味だった。ちょっと不思議。野菜もお肉も大きくて食べにくいな、と思っていると、ヴェルが私の皿から大きな野菜や肉を取って、ナイフで切り分けてくれた。…本格的に子供扱いをされている気がする。色々納得がいかなかったが、色々な味の…少々大味なものが多かったが、野菜も肉もとても美味だった。人種も文化も違うので、想像もつかない味の料理が出てくるんじゃ無いかと戦々恐々としていたのでホッとする。サラダの方はちょっとドレッシングが酸っぱかったけど、パスタと一緒に食べたら美味しかった。ニルさんも美味しそうに肉にかぶりついていたので、きっと美味しかったんだと思う。

 立ち上がってニルさんの頭をよしよし撫でて(ふがふが口が動いて面白かった)、顔を洗おうと浴室の扉を開けると、

 …上半身裸のヴェルがいた。

 一瞬頭が真っ白になって、ぽかんと立ち尽くしていると、彼が振り返る。目が合った。そのまま無言で見つめ合うこと数秒、怪訝そうな顔で『…なんだ?』と声をかけられて、やっと脳が動き出す。

「!!!!!???!?!?」

 声にならない声を出してバタンと勢いよく扉を閉める。細身かと思っていたが意外と逞しい背中の残像が脳裏をよぎって、必死にかき消す。

「いるならいるって言ってよ!!」

 閉まったドアに向かって叫んでしまって、びっくりして起きてこちらを見ているニルさんと目が合う。

 ノックしなかった私も悪かったけど!!



 若干の気まずさを覚えながら、運んで来てくれた食事に手をつける。朝食は野菜とお肉が挟まったパンとスープだ。お店の人が気を遣ってくれたのか、パンはヴェルが食べているものより細くて小さい。これならかぶりつけるので助かる。ニルさんは昨日と同じ骨つき肉をむしゃむしゃ食べて、骨をガリガリ噛んでいる。こう言う感じは犬っぽい。

 ちらりと見上げると、相手もこちらを見ていたのか目が合う。ヴェルは食べるのが早い。私の方はまだ半分くらいしか食べられていないのに、もう食べ終わったようだ。居心地悪くて無言で目をそらして続きを食べる。いや、考えてみれば相手はズボンを履いていたのだから私も相手もダメージは少ないだろう。というか無いに等しいんじゃないだろうか。ヴェルも平然としていたし、上半身裸くらいで動揺しすぎだろう私。露出度で言えば水着と同じだ。いや、水着より露出は少ない、だって下は長ズボンだし。過剰に反応してしまった。申し訳ない。ちょっとそういうの見るの久々だったから。

 頭の中で色々考えて自己完結して気持ちを落ち着ける。ちらっとまた視線を上げると、目の前の相手はいつもの無表情で腕を組んで窓の外を眺めていた。ここからだと、私の目の高さだと窓から下の街道は見えないけど、多分ヴェルの高さからならよく見えるんだろう。パンを食べ終わったので、スープに手をつける。緑色の、ぱっと見ほうれん草のスープだ。ほうれん草は好きだけど、これはどんな味がするのか…スプーンですくって一口飲む。み、緑色なのにトマトみたいな味がする。不思議な感覚だが、味はミネストローネのような感じ。でもミネストローネよりだいぶスパイシーな味付けだった。不思議な香りがする。香辛料がたくさん使われているっぽい。くんくん匂いを嗅ぎながらスープを飲んでいると、ふっと吹き出すような音がしてびっくりして正面の男を見上げる。変わらず無表情で窓の外を見ているので、気のせいだったらしい。そもそも、付き合いは短いが、声を上げて笑ったりするようなタイプには見えない。でももし笑われていたら恥ずかしいので、普通にスープを飲んだ。



 食べ終わったら、ヴェルが下に食器を下げに行ってくれた。帰って来たところで礼を言うと、いつも通り『ああ』と返事が返ってくる。椅子に戻ろうとして、『そういえば』と、荷物をゴソゴソ漁り出した。なんだろう。

『昨日渡し忘れた。ほら』

 と、手帳のようなものとペンを渡される。おお!!私も頼んでいたのを忘れていた。ありがとう!と声を上げて受け取る。

 手帳は、だいたいA5サイズとB5サイズの中間くらい。皮で装丁されている。こちらの人にとっては多分手帳だが、私にとってはほとんどノートだ。中を開けると少し厚目の紙がぎっしり詰まっている。100枚くらいありそう。結構書けそうで助かる。ペンの方は、ぱっと見は木製の細い筒といった感じで、どうやらキャップ式のようだ。グイグイ引っ張っても開かないので、くるくる回して見ると開いた。ペン先は金属ではなくガラスでできている。どう言う構造なのか、持ち手の部分にあるインクが、ガラス細工の内部を通ってペン先まで降りているらしい。ぼたぼた垂れそうなものだが、しっかりインクはペン先に留まっている。恐る恐る紙にぐっと押し付けると、インクが紙に思ったより広がってびっくりした。さらさら書かないとダメらしい。くるくる線を引いて感覚を掴む。ゲルインキのボールペンって感じ。あいうえお、と文字を書いて見ていると、不思議そうにヴェルとニルさんが覗き込んでくる。日本語が珍しいらしい。そういえばこちらの文字はどういう形なんだろう。

 向かいの椅子に座ったヴェルに、なんか書いてみろ、とペンを渡すと、さらさら文字を書き出した。筆記体のように連なった文字は、ぱっと見は英語のようだった。なんて書いてあるのだ、と見上げると、『こんにちは』と声を出す。

 文字の数と発音の数は同じではないので、日本語のように1文字で1音ではないのだろう。少し絶望しながら、彼が書いた文字の上に発音を、文字の横に「こんにちは」と書く。私が書いた文字をじっと見ているので、日本語で「こんにちは」と声を出すと、なるほど、と頷きが返って来た。

 続けて、昨日教わった単語で覚えているものを書き綴る。

――何と書いているのだ?

「昨日、教えてもらった言葉。もう殆ど忘れちゃったけど、覚えてるのだけちゃんと書いとこうかと思って」

『…殆ど忘れた?』

 律儀に通訳しないでくれ、ヴェルの目が怖い。とても怖い。

『…まあ、全て覚えているとも思っていない。ついでだ、文字を教えよう』

 先生モードになったらしいヴェルが向かいの椅子に座った。…とても嫌な予感がする。



 ヴェルが言葉を教えながら、言葉を紙に書き綴る。その横に、私が意味と発音の仕方を日本語で書き込む。それを繰り返しながら、発音の練習をする。スイッチの入ったヴェルは厳しい。辟易しながら文字を書いていると、ふと『随分と、様々な形のある文字なのだな』とヴェルが感心したような声を出した。

――そうだな、面白い形だ。

 ニルさんの返事でなんとなく何を言っているのかわかる。母国語に興味を持ってくれたようなので、今度は私が先生になって教えることにした。正直だいぶ疲れていたのもある。

 「ニルさん、通訳お願いね」と、机の上に置かれたノートを見ているニルさんに声をかけて、新しいページに「あ」「ア」「亜」と書いてみせる。

「私の世界には、いろんな国があるの。全部で、…正確な数は知らないけど、190くらいだった気がする。増えたり減ったりするけど。そして、言葉もたくさんあるの。同じ言葉を話す国もたくさんあるんだけど…私の国は特殊な方かな」

 日本語が母国語の国は日本だけだ。正確に言えば他にもありはするのだが、定着していなかった気がする。

「私の国は「日本」、ビルレストでの位置はここ、小さな島国。日本語は、ひらがな・カタカナ・漢字の3種類の文字を使うの」

 先ほど書いた3文字を指しながら言う。少し遅れて、ふむ、とヴェルの頭が縦に動いた。

「この3つの文字は、全部「あ」って読むの。ひらがなとカタカナは表音文字。これは音をあらわす文字で、文字自体には意味はないもの。カタカナは少し特殊かな、外来語や擬音語、擬態語なんかのオノマトペによく使う。ひらがなとは数が同じ。まあなんていうか、親戚みたいな…そういう感じ」

 ひらがなの五十音表を書いて見せる。

「ひらがなは全部で50。ああ、濁点と半濁点、小さい文字もあるのか。それも入れるともうちょっと行くかな」

 書き足していきながら言う。

「ひらがなは、1文字で1音。あ、い、う、え、お。基本的には全部1通りの読み方しかしないけど、「は」は「わ」、「へ」は「え」って感じで、ちょっと違う読み方をしたりもする」

 ほお、とニルさんが興味深そうに五十音表を見る。少し遅れて通訳を聞いているヴェルは眉間の皴を増やした。

「こっちの方は、「漢字」。表意文字で、文字自体が意味を持っているの。この「亜」っていう文字は…そうね、「亜熱帯」とか「亜種」とかって使われ方をするから、意味合い的には「何かに準じる」みたいな意味なんだと思う。正直こういう細かいところは、学者とかじゃないと正確に把握してないんじゃないかな。私たちは辞書を見てそれを学ぶの」

「漢字は読み方が色々あって…この「亜」っていうのは多分「あ」としか読まないけど…」

 話しながら、「優」と自分の名前を書く。

「これが私の名前。すぐる。「優しい」とか、「優れている」とかって意味。読み方も同じ。そのまま1文字だと「ユウ」って読んだりする。前者が訓読み、後者が音読み。ああ、他にも「まさる」とも読むかな」

 「優」という漢字の上に、ひらがなですぐる、と書きながら言う。ニルさんは咀嚼しきれなくなってきたのか、そのままヴェルに伝える。こういう説明は苦手だし、習ったのもだいぶ前なので、どういうふうに教えてもらったのかも覚えていない。国語の先生って大変なんだな。

 説明を受けて、ヴェルの眉間の皴がさらに1本増えた。それを見て思わず苦笑しながら続ける。

「読み方が同じものがあったり、他の漢字と組み合わせて特殊な読み方をするものがあったり。日本人にとっても難しい。特殊な読み方をするものには、上にひらがなやカタカナを書いて、「こう読みますよ」って伝えるの。私の名前も、漢字だと色んな読み方があるから、読み仮名を振らないとちゃんと読んでもらえないことの方が多いなあ。だいたい「ユウ」って読まれちゃうの」

 更に眉間に皺が増える。ここらで説明はやめておこう。手を止めて、ニルさんの通訳が終わるのを待った。ニルさんは不思議そうに、「優」の文字を見ている。テレパシーみたいなもので会話をしているから、言語については理解していなかったらしい。

 難しい顔で頷いていたヴェルが、こちらの顔をまじまじと見て言う。

『…年の割に頭が良いな』

――年の割に頭が良いな、と。子供だと思われているな。

 私が突っ込む前に、不思議そうな顔で『子供だろう?』とヴェルが突っ込んだ。

「…いくつだと思ってるの?」

 微かに恐怖を感じながら聞いてみる。

『…12、3歳…くらいかと…』

 こちらの表情を見て、意図を理解したのか、少し気まずそうな顔になって言う。半笑い気味でニルさんが通訳したのを聞いて、思い切り睨み付けると、『すまない』と返事が返って来た。

『14、5歳か?』

 ニルさんが爆笑した。「21です!!」とキレながら言うと、ニルさんが笑いながら遅れて通訳する。今までの子供扱いはそういうことか!

 21という数字を聞いて呆然とした顔になったヴェルは、僅かに震えた声で、『あちらは時間の流れが違うのか?』と何事かニルさんに問いかける。同じだぞ、という返答を聞いて、また少し時間を開けて『すまない…』と言った。

――ああ、あと、勘違いしているようだが、優は女だ。

 は?と、ヴェルと同時に声が漏れる。

 お互い顔を見合わせて、少しして愕然とした顔で胸元に視線をやったヴェルの顔面に、私は思わず平手打ちを食らわせていた。

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