11.ピアノ(2)〈side:ヴェルフリード〉
グラスに注がれた酒を眺めながら、らしくないことを言ってしまったと思う。強い酒のようだが、飲んでもあまり酔えない。獣の血のせいだろうか、以前よりも酒に強くなったようだ。軽く煽ると、隣の席の男が『どうした、嫌なことでもあったのか?』と声をかけてくる。いや、とそちらは見ずに返事をして、2杯目を店主に頼んだ。
付き合いは短いが、暗い表情をしているのは彼らしくないと思った。空のグラスをくるくる手の中で回すと、氷がからからと音を立てる。
『はいよ、お客さん』
店主が酒を注ぐ。琥珀色のそれは、自分の中の不快感を洗い流してはくれなかった。
ぼんやりそれを見ていると、ぎしぎしと音を立てて階段を下りてくる音がした。ちらりとそちらを見ると、スグルの挑むような視線と目が合う。弾けるのか、と見返すとぎゅっと唇をかみしめた。同時に獣が「痛い」と声を上げた。
ずんずんうるさい店内を突っ切っていき、ディルネの前で立ち止まる。椅子に腰かけて深呼吸する小さい背中は、僅かに震えていた。何かを決意するように、膝の上で手をぐっと握りしめている。
彼は震える指を鍵盤に置き、ゆっくり音楽を紡ぎだした。
彼の楽士としての腕は、予想外だった。
ディルネの前に立って、はにかみながら頭を下げる少年をぽかんと見つめていると、興奮した口調の店主の男が『お客さん、素晴らしい演奏をありがとう!』と声をかけてきた。目を潤ませている。ああ、と動揺しながら頷いて、グラスにわずかに残っていた酒を煽った。
繊細で美しい曲だった。だが、彼の心境を反映するように、時折激しく、もの悲しい。情感溢れる美しい音色。彼は僅かに肩で息をしているようだった。灰色の目がこちらを見る。どうだ、弾いてやったぞ、と言っているような気がした。
聖都でも、あれほどまでの腕を持つ楽士はそうそういないだろう。素晴らしい演奏だった。賛辞を拍手に乗せて送る。
『…食事を部屋で摂りたいのだが、いいだろうか』
『ええ!もちろん!すぐに用意しますね。素晴らしい演奏のお礼です、お食事のお代は結構です』
『…それではお言葉に甘えて』
ゆっくりと立ち上がってスグルの方に視線を向けると、意図を理解したのか、こちらの方にパタパタとかけてきた。硬貨の詰まった袋を握りしめている。憑き物が落ちたようなすっきりとした顔をしているのを見て、こちらも少しほっとした。グレイプニルは衝撃からまだ抜け出せていないのか、いつもより表情が緩い。心中お察しする。
『…素晴らしかった。いい曲だな』
通訳を挟むので、ワンテンポ遅れて照れくさそうな笑いが返ってくる。晴れやかな表情だった。まっすぐに見上げてくる瞳と目が合う。彼は少しだけ泣きそうな顔で、『ありがとう』と囁いた。微かに笑って頷いて見せると、にこりと笑みが返ってきた。
店主が料理を盆にのせて持ってきたのでそれを受け取る。
『部屋で食事を摂ろう』
声をかけると、こくりと首肯が返ってくる。微かに手が震えているようだった。その手を取って、いつもよりゆっくり歩く。スグルは少しだけ驚いた顔でこちらを見ていたが、気にせず部屋までそのまま連れて行った。
部屋に入って、食事の乗った盆を机に置く。椅子に座ったスグルは物珍しげに料理を見ている。「パスタっぽい…」と異界語で何事か呟いて、くんくん匂いを嗅いでいる。小動物のようだ。
食事は肉と野菜がふんだんに使われた麺料理とサラダ、あとは焼いた骨付きの肉だ。こんもり盛られた麺を皿に取り分けてやり、先が4つ又に分かれた食器を渡す。「フォークだ、すごい…この辺は同じなのか、効率を求めるとこの形になるのかな…もしかしてスプーンや箸もあるのか」とスグルはまた何か呟いて、まじまじと見ている。自分の方にも取り分けて、骨付き肉はそのままグレイプニルに渡す。獣はがつがつと肉を頬張った。不味くはないらしい。
食べ方が分からないのだろうかと見ていたが、スグルは恐る恐ると言った感じで麺にフォークを絡ませる。くるくるとまわして口に入れると、途端顔がほころんだ。とても幸せそうにもぐもぐと食べている。麺に絡めてある野菜や肉は彼の小さな口には大きい。皿から取り上げでナイフで切ってやる。彼はやはり複雑そうな顔で『ありがとう』と切り分けた野菜をもぐもぐ食べた。口元が汁で汚れていたので、布巾で口元をぬぐってやると、スグルは何とも言えない顔でこちらを見上げる。スグルの世話を焼きながら、自分の方も食事を済ませた。
空になった食器を下げに行って戻ってくると、スグルは椅子に座ったままぼんやりとしていた。ついでに下から持ってきた水差しとグラスを置くと、『ありがとう』と言ってごくりと一口飲む。
向かいに座って自分も水を飲みながら、特に何をするということもなく窓の外を眺める。
最近はずっと各地を飛び回り、魔獣を狩っていた。騎士団に所属していたころは、このようにゆったりと心を落ち着ける暇はなかった気がする。つい先日まで、自分は騎士団に所属したまま年老いていき、いずれは後続の若者を育てる立場になり、引退して穏やかに老後を過ごすのだろうと漠然と思っていた。
ふう、と嘆息して目を閉じる。まさか死にかけて、異界のものに命を救われ、このように手を貸すことになろうとは、露程も予想していなかった。
『ヴェル?』
声をかけられて、目を開ける。
目の前の少年の方が、「こう」なることなどもっと予想していなかっただろう。ひどい傷跡は残っているが、その手は柔らかく、剣を握ったことすらなさそうだ。特に荒れてもいない、綺麗な手。美しい音楽を奏でる手。
ちらりと見降ろすと、「寝てるのかと思った」と異界語で何事か呟いた。
『…素晴らしい演奏だった。弾かないなど、勿体ない』
返事はいつも、通訳を挟むので少し遅い。もどかしさを覚えながらじっと待つと、悲し気な微笑みが返ってきた。
「うん。…ありがとう。本当は、ずっと弾きたかったのかもしれない」
彼は机の上で指を動かす。
「こんなに時間が経ってるのに、指って動くんだなあって。お母さんが、私にピアノの弾き方を、沢山の素晴らしい曲を教えてくれて、それなのに、私は怖がって逃げてた」
少しうるんだ瞳がこちらを見上げる。
「ありがとう。やっと、ちゃんと向き合えた気がする」
綺麗に笑って見せる彼に、心が軽くなるのを感じながら、笑い返した。




