10.ピアノ(1)
どれくらい経っただろう。ぼんやりと座ったまま鍵盤を見つめていると、後ろから肩をたたかれた。振り返ると、荷物を抱えたヴェルと目が合う。
『…どうした?』
はっとして、ピアノの前の椅子から降りた。なんでもない、と首を振って笑顔を向けると、ヴェルは少し眉根を寄せた。うまく笑えていなかったかもしれない。
カウンターの方に行くと、おじさんが『ちょうどよかった』と笑顔で迎えた。
『お部屋が用意できましたよ』
文字が刻まれた金属のプレートがついたカギを差し出されて、ヴェルがそれを受け取る。
『3階に上がっていただいて、廊下を奥まで進んだところにある部屋です。303号室』
『わかった。すぐに湯を浴びたいのだが、用意できるだろうか』
『ええ、用意できますよ』
『礼を言う』
やり取りはニルさんが通訳してくれた。湯を浴びるって、どういう感じなんだろう。異界の風呂事情を不思議に思いつつ、階段を上がっていくヴェルの後ろを追いかけた。
部屋は思ったより広かった。それもそうか、平均身長が大きければ全体的にでかくなるか。天井も高いのでより広々として見える。大きいベッドが2つと、小さな机が1つに椅子が2つ。室内は照明で明るいが、やはり術式というものでついているのだろうか。紐もついてないし、どうやって消すんだろう。壁を見渡すと、入り口付近の壁にスイッチらしきものがついているのが見えた。…あれで消すのかな。
奥の壁には扉があって、どうやらもう一部屋あるらしい。ドアを開けると、簡易的な浴室のようだった。大きな(こちらの人からしたらあまり大きくないのかもしれないが)湯船のようなものに蛇口がついていて、そこに何かの目盛りがついている。捻ったらお湯が出るんだろうか。異世界風呂事情は思ったより近代的なようだ。「おお~」と感嘆の声を上げていると、後ろから『先に入っていいぞ』と声がかけられた。
『量が決まっているから、目盛りが半分になるまで使って、あとは残しておいてくれ』
ニルさんに通訳してもらって、わかった!と頷いた。やっと待ち望んでいたお風呂に入れる!
ニルさんは机の近くまでのそのそ歩いて行って、ぽすっと顎を乗せた。ちょっと猫っぽい仕草がかわいく見えてくるから不思議である。
しげしげと部屋のものを見て回っていると、背後からどさっと音がした。ヴェルが荷物を下ろしたらしい。振り向くと、ちょうど彼がベッドに腰を下ろしたところだった。俯いて、深い深い溜息をつく。疲れてるのかな…。
ヴェルはそのままの姿勢で少しの間動かなかったが、不意に顔を上げると、ごそごそ荷物を漁りだした。中から子供用らしき服を引っ張り出して、こちらに放る。生成り色の長袖のシャツは、ボタンを留めれば首元までしっかり隠れそうだ。黒い色のズボンは柔らかくて着心地が良さそうだし、紐でウエストを調整するタイプのようで、履きやすそう。ついでに、と革のブーツも渡された。よく私の足のサイズが分かったな。
『ありがとう!』
『どういたしまして。そのまま風呂に入ってこい』
そう言うと、ふう、と息を吐く。疲れてるんなら先に入っていいよ、と言ったが、『後でいい』とのことだったので、お言葉に甘えることにした。
湯船に少しだけお湯をためる。目盛りはだいたい4分の1くらい減った。疲れているヴェルがたっぷり使えるように残してあげたいし、身体が小さい私はこれくらいで十分だ。服を脱いで、そろそろと湯船に浸かる。いい湯加減だ、気持ちがいい!ずっとこの刻を待っていた!
改めて身体を見下ろす。湯で身体が温められたせいか、傷跡がより赤くなってくっきりと浮かび上がる。最早見慣れてきたので特に何とも思わなくなってきた。目を閉じて肩までゆっくり浸かると、じんわりと骨の内側までびりびりと熱いものが染み込んでくるみたいで、気持ちいい。
湯船の横には石鹸のような塊と、液体の入った瓶が1つ。石鹸とシャンプーと予想する。やっと髪が洗える。
石鹸を湯でぬれた手に落として、ごしごし触ると、すぐに泡立ち始めた。泡を取って身体をごしごし擦る。所々痛む箇所があったが、気持ちがいいという感覚の方が強かった。溜めていた湯を桶ですくって身体を流し、今度は髪を洗う。瓶を開けると花のような良い香りがする。シャンプーかな?と思ったが、泡立たないのでどうやら違うらしい。香油か何かだろうか。椿油なんかは髪につやを出すのに使われるし、同じようなものかもしれない。石鹸でそのまま髪も洗って、油を少しだけ手に取って髪につけると、ふんわりといい香りが広がる。新しく湯を出して髪と身体をしっかり洗い流して、湯船も一度空にする。目盛りを見ると、使ったのは3分の1くらいだった。これならヴェルもゆっくり浸かれるんじゃないか。風呂場から上がって、近くにかけてある大きなタオルで身体をぬぐう。籠があったので、多分そういうことなんだろうと思って濡れたタオルを入れておいた。
ヴェルの買ってきてくれた服に袖を通し、扉を開けると、ベッドに腰かけたままだったヴェルと目が合う。
「どうぞ」
浴室を指示して言うと、『ああ』と頷く。浴室に向かう背中を見て、心の中で「ゆっくり休めよ!」と言っておいた。
ヴェルが座っていたのと反対側のベッドに腰かけて、湯で温まった身体を落ち着ける。
「ニルさんはお風呂入らないの?」
――水は苦手だ。
「えっ、ふけつ!」
茶化して言うと睨まれた。冗談冗談、と言って、ニルさんが顎を乗せている机の横の椅子に腰かける。ひと心地ついたからか、さっきまでさざ波のように乱れていた心は落ちついていた。手の甲に走る傷跡を指でなぞりながらぼんやりしていると、ニルさんが「優」と声をかけてくる。視線は上げず、ぼんやりしたまま返事をする。
「なに?」
――…いや。何故弾かなかったのだ。
「…なにを?」
――…。
何について聞かれているのはわかっていたが、あえて聞き返すと、ニルさんは沈黙して机から顎を下ろした。
会話もなく、私も押し黙ったままじっとしていると、浴室の扉が開く。髪がまだ少し濡れたまま、ヴェルが顔を出した。ヴェルは紺色のシャツと黒いズボンを着ている。イケメンは何を着てもイケメンになるからちょっとむかつくなあと思ってみていると『なんだ』と聞かれたので首を振った。
『…何か、あったのか』
ヴェルが、横に立って問いかけてきた。その問いかけには答えずにいると、彼は向かいの椅子に座る。
『何かあったのか』
同じ言葉を問いかけてきたので、むっとして見上げると、静かな眼差しが降ってきた。
「…3年前に死んだお母さんが、」
海の底のような静かな目に根負けして、気付いたら話してしまっていた。
「ピアニストだったから」
思い出すのが嫌だから。そう続ける。だから弾くのが怖い。まだ私は、気持ちの整理が上手くできずにいた。
私がお風呂に入っている間に、ニルさんに聞いていたのかもしれない。私の言葉に、ヴェルの目は静かなものだった。
『弾けるんだろう、お前も』
「…」
弾けないと嘘をついたところで、どうせわかるんだろう。沈黙していると、静かな声が続ける。
『…私は何も知らんが、母親は、弾かないことを望んでいるとは思わないが』
ニルさんに通訳されて、ぎゅっと手を握りこむ。
『思い出してやらないのは――思い出してもらえないのは、辛いことだな』
身体がびくりと震える。胸が苦しくて、鼻の奥がツンとする。
ヴェルは立ち上がって、部屋から出て行った。
天使のような女性だった。指先から紡ぎだす音はキラキラして、いつだって私の心を震わせる。母に憧れて、物心ついた時から母を真似て演奏するようになった。上手に演奏すると、とびきりの笑顔で両親が褒めてくれた。それが嬉しくて、毎日のようにピアノを弾き続けた。高校を卒業したら音大に行ってピアニストになるんだと言うと、母は「負けていられないわ」と笑った。
大好きだった両親は、ある日突然、事故で死んでしまった。わき見運転をしていたトラックに突っ込まれて、トラックの運転手も死んで。両親は即死だっただろうと言われた。そんなの、全然救いにならない。生きていて欲しかった。…それからピアノに触るのが怖くなった。優しかった母を思い出すのが辛かったから。音大に行くのもやめて、地元の小さな企業に就職した。
震える手を握りしめてじっと黙っていると、ニルさんが近くに座った。お座りすると高い位置に来る頭は、椅子に座った私と同じくらいの位置になった。
――お前の弾く「ぴあの」を聞いてみたい。
「……」
指先から力が抜けた。
「ニルさん、優しい顔もできるのね」
ふ、と微笑みながら言うと、少し困ったような顔をされた。
階下に降りると、カウンターで茶色い液体の入ったグラスを持って座っているヴェルと目が合った。挑むような視線を向けると、いつもの鋭い視線が返ってきた。少し気圧されて隣のニルさんの毛をぎゅっと掴むと「痛いからやめろ」と言われた。
ぐっと気合を入れて、ピアノの前に立つ。『弾けねえんじゃなかったのか?』少し前に私をピアノの前に連れ出したおじさんがこちらをのぞき込んできた。うるさいな、いいから黙っていろ、集中してるんだ!
3年ぶりのピアノだ。震えを抑え込んで鍵盤の上に指を滑らせる。とん、と鍵盤をたたくと、酷く耳慣れた音がした。鍵盤の重さも、音も、私のよく知ったものだった。
ピアノの前に腰かけて、椅子の高さを調節する。形状は違うが、レバーを動かすと高さが変わる仕組みのようだ。身体に染みついた、自分が一番弾きやすい高さ。ペダルは足を伸ばせばぎりぎり届く。すう、と大きく息を吸って、はあ、と吐き出す。肩の力を抜いて、鍵盤に手を置いた。
ショパンの「別れの曲」。母はショパンが好きだった。
あまりに繊細な、作者の心を映したような、優しくて悲しい旋律。随分長いこと弾いていなかったピアノは、それでも身体が覚えているのか、指が勝手に動く。
穏やかな旋律が指先から溢れていく。大好きだった。優しくて優しくて、この旋律のような、優しくて美しい人。中盤に向かうにしたがって激情が溢れるように、曲調は激しいものになっていく。腕の傷が引き攣れてビリビリ痛む。構わず力いっぱい鍵盤を叩く。心がまっさらになっていくような、指先がピアノと一体となって溶けていくような感覚。曲調はまた穏やかなものになっていく。指先から、悲しかった気持ちが流れ出て、消えていく。
4分と少し。ゆっくりと鍵盤から指を離す。ああ、もう終わってしまった。いつも曲が終わると寂しい気持ちになる。
あんなに避けていた筈なのに、悲しいくらい以前と同じ感覚だった。そして、なんだか少し、心が軽くなった気がした。
ぼーっとしていたが、周囲がとても静かになっているのに気が付いた。食堂内はしーんとしている。ニルさんの方をチラッと見たが、丸い目をさらに真ん丸に見開いて硬直していた。そっと後ろを振り向くと、おじさんたちもぽかんとしている。あれ、なんか私やっちゃいけないことをしたのか…?弾いちゃいけない曲だったのか…?
カウンターの方を見やると、同じくらいぽかんとした顔のヴェルと目が合った。表情があまり変わらない、彼らしくない表情に、びっくりすると同時にちょっと笑いが込み上げてきた。ふ、と笑うと憮然とした表情が返ってきた。どこからともなく拍手が上がって、みんなの大きな拍手が食堂を包み込んだ。ヴェルも変な顔をして拍手してくれた。椅子から降りてぺこりと頭を下げると、近くの空いていた机に硬貨が投げられる。すごい、チップだ!感動していると、お店のおばさんが硬貨を集めて袋に入れて渡してくれた。
『すごいねえ!とても素敵な曲だったよ。また気が向いたら、聞かせてくれるかい?』
ニルさんが固まったままなので通訳がいない。おばさんから死角になる足でつんつんニルさんをつつくと、「ああ」と返事が返ってきた。
――素敵だったと。また気が向いたら聞かせてほしいと言っている。
もちろん。嬉しくて、にっこり微笑んで頷いた。
同時に、ずっと血を流していた傷が、やっと「傷跡」になってくれた気がした。




