09.街
街に行くというので早朝に起こされて、準備を終えた私は、今はニルさんの背に揺られている。
ヴェルフリードは、おそらく面倒見がとてもいい。表情の乏しい――わざと抑えているのか、それとももともとそういう顔なのかわからない――顔からは感情はあまり読み取れないが、着替え終わったら子供にするように袖をめくってくれたし(反応に困った)、鞄に私の荷物も入れてくれた。意外と良い人みたいだ。
移動を始めてから結構時間が経っていた。
時々言葉を教えてもらったり、ニルさんの通訳を通して私が生きていた世界について語ったり。あまり長い時間会話が続くことはなかったが、沈黙はあまり苦ではなかった。
お昼時に一度休憩は挟んだが、休んだのはそれだけで、ずっと歩き通しだ。ニルさんは多分疲れてないと思うけど(何度か尋ねても「問題ない」という返事しか返ってこなかったし、もともと生物としての質が違うらしい)、ヴェルの方はどうなんだろう。そう思ってちらりと見上げると、汗一つかいていなかった。少し長めの赤銅色の髪の合間からちらりと鋭い紺色の視線が落ちてくる。
『なんだ』
『…いいえ』
片眉が少し上がった。『元気があるなら勉強をするぞ』と続けられて、『勉強』の単語に恐れおののく。顔に出ていたのか、ヴェルは少しだけ表情を緩めた。
『冗談だ。もう少しで街につくだろう。それと』
そこで言葉を止めると、彼は前方に視線を戻して、少しだけ険しい顔になった。
『言葉が分からない、というのはまずい。いいか、この世界は「言語が1つしか存在しない」』
『通訳しろ』とニルさんに声をかける。
『だから、我々が近くに居ないときは、基本的に「言葉が分からない」ではなく「耳が聞こえない」か「声が出せない」ふりをするのがいい。間違っても人前で異界語をしゃべるな。異質な存在は淘汰される。魔獣が蔓延るこの世界では余計にな』
通訳されて、驚きが隠せない。言語が1つしかない…?
――管理者がそうしたのだろう。ここは、上階層の手が介入する世界なのだ。
愕然としながら、頷く。…私だって「異界人だから」という理由で傷つけられたくはない。
言語が1つというのはどういう状況なのだろう。初めに誰かが意図的に言葉を世界中に浸透させたのか、それとも世界中が同じ言語になるよう後から書き換えられたのか。普通、同じ言葉でも、時間が経てば土地によって変化していくものだ。それが無いのであれば、常に何者かの手が介入しているということ。…だが、それは合理的ではあるように思える。管理する側で考えれば、言葉の壁があるだけで完璧に把握できないこともあるだろう。言葉が統一されていれば管理しやすい。
「わかった。他の人の前で、この言葉は使わない」
――ああ。注意しろ。
話を聞いて、ヴェルがいて本当に良かった、とほっと息をついた。
程なくして、街が見えてきた。街道というのだろうか、ある程度整備された道に出て、街に向かってゆっくり進む。少しずつ畑が増えてきて、まばらに家が建っているのが見えた。畑には見たことのない植物が植えられている。キャベツっぽいビジュアルなのに赤くて、中から根菜のような丸い塊が見え隠れしているもの、大根くらいありそうなサイズのきゅうりみたいな植物。物珍しくて、横を歩くヴェルの服の裾を引っ張って、『なに?』と指さして聞くと、『インガ』と『キャルナ』という返事が返ってきた。へえ、どんな味なんだろう、と少しわくわくする。
周りには人気はあまりなかったが、遠く前方に、同じように獣に跨がっている人の姿が見えた。あれが「騎獣」か。ニルさんも騎獣だといえば普通に中に入れそうだ。ほっと安堵の息を吐く。
夕方に差し掛かり、辺りはオレンジ色に染まっていく。ヴェルの髪がいつもより赤みを増して見えて、凄く綺麗だった。
『きれい』
覚えたての異世界語で褒めると、何のことだ、という顔で見下ろされた。自分の髪をぐいぐい引っ張って見せると、『ああ』とヴェルも自分の髪に触れた。
『お前も』
すっとヴェルの手が目を指差す。私も、母譲りのこの灰色の目が気に入っていた。珍しい色だと小さい頃いじめられたこともあったが、父は母とよく似たこの色をいつも「綺麗だ」と褒めてくれた。
『ありがとう』
嬉しくてはにかみながら答えると、少しだけヴェルも笑った。
夜に差し掛かるくらいの頃、街についた。
街は、意外と木造建築が主なようだった。もっと石造りでファンタジーな感じなのかと思っていたので拍子抜けする。黒い木と、白い漆喰の壁が基本的な建築のベースのようだ。屋根は瓦ではなく、木の板が打ち付けられている。不思議とそれだけで「日本建築っぽくない」と感じられてしまうので不思議だ。真ん中の大通りは石畳で舗装されていて、たくさんの人が歩いていた。そしてそこで気が付いたのだが、みんなでかい。全体的に頭の位置がかなり高いところにある。ヴェルフリードはでかいと思っていたが、彼はまだ小さいほうなのかもしれない。多分男性の平均身長は2メートルを超えていると思う。女性もかなり大きい。すらっとして皆さんモデルさんか何かですか。
人種は様々だ。様々と言ったが、なんというか…本当に様々だ。獣っぽい方もいらっしゃる。獣人とかそういうのかもしれない。オオカミのような見た目のその人は、全身銀色の毛に覆われていて、三角形の耳がぴんと立っていた。とてもファンタジーである。あまりじろじろ見てはいけないと思い、目を逸らした。
全体的に、黒髪や茶髪、金髪が多い。その隙間に、緑やら青やら紫やらが時々目に入る。染めているのか地毛なのかわからなかった。色々珍しくてきょろきょろ辺りを見回していると、小さな声で『きょろきょろするな』と叱責されたので、じっと我慢した。
ヴェルは大通りから脇道に入る。少し歩いたところにある赤と緑の看板の店に入ったので、ニルさんの背から降りて後を追いかけると、店に入った瞬間むわっとお酒と食べ物の匂いがした。それと、がやがやとたくさんの声。食堂か居酒屋のようだった。びくびくしながらヴェルの背中を追いかける。足が長いので歩幅がでかい。ほとんど小走りで追いかけると、高い位置にあるカウンターで、店の主人なのだろう、赤ら顔の優しそうなおじさんと話をしだした。
『部屋を借りたい。1部屋でいいんだが、ベッドが2つある部屋は無いだろうか』
『ああ、あるよ。3階の角の部屋が丁度空いたとこなんだ。ちょっと待っててくれれば用意できるよ』
『助かる。獣も上にあげたいんだが、いいか?』
『うーん、ベッドにあげないって約束してくれるんならいいけど』
『賢い獣だ、問題ない』
おじさんがちらっとお座りしたニルさんに目を向けた。理知的な瞳を見て、うん、と頷く。
『ひとまず3日ほど泊まりたいんだが、いいか』
『ああ。料金は先払いで、30ルスカだよ』
ヴェルが腰に下げていた袋をごそごそと漁って、銀色の硬貨を6枚カウンターに置いた。
『まいど。まだ30分くらいかかるから、その辺に座って待っててな』
おじさんはにこにこして言う。
なんて言っているのかわからないので、じっと突っ立って曖昧な笑みを顔に張り付けていると、ニルさんがそっと通訳してくれた。ちらっとヴェルを見上げて、判断を仰ぐ。
『店の中で少し待っていてくれるか。今のうちに色々買ってくる。お前の服もいるだろう』
緊張しながらこくりと頷いた。そういえばだぼだぼの服を着たまんまだった。
(ニルさん、ヴェルに、紙と書くものが欲しいって言ってくれる?)
――優が、紙と書くものが欲しいと言っている。
ヴェルは少しだけ不思議そうな顔をしたが、追及はせずに頷いた。
『では行ってくる。部屋の用意ができるまでには戻ってくる』
ヴェルは大きな鞄だけ置いて、すたすた店の外に出た。姿勢がよくきびきびしているので軍人さんみたいだなあと思ったが、そういえば騎士だった。
手持無沙汰になって、空いていたカウンターの席に座る。騒がしい店内は、40代くらいのおじさんが多いと思う。おいしそうなにおいが充満していて、ぐうとお腹が鳴った。いいなあ、はやくヴェル帰ってこないかな。
ぼんやり座っていると、お店の人なんだろう、優しそうなふっくらとしたおばさんが『お水でも飲むかい?お金はいらないよ』と声をかけてきた。通訳を挟むのでどうしても返事がワンテンポ遅れる。こくりと頷くと、にこっと笑ったおばさんがお店の奥に水を取りに行ってくれた。
ここはとても緊張する。知らない人が多いのは怖いし、しかもみんな言葉が通じない。ニルさんがいなかったら恐怖で押しつぶされていただろう。カウンターに座ったまま、なんとなく店内を見渡す。店はそこまで広いという感じじゃない。地元の人たちに愛される小さな食堂という感じだ。ひげをたっぷり蓄えた赤ら顔のおじさんたちががっはっはと笑いながら酒を酌み交わしている。スケールがでかいからか、若干威圧感を感じた。これだけでかいのが普通ということは、日本人女性では割と平均的な高さの160センチくらいの自分はかなり小さい部類に入る筈で、完全に子供だと思われている可能性が高い。ヴェルももしかしてそうなのではなかろうか。後で追及せねばなるまい。
そんなことを考えながら店内をさらに見渡すと、壁に見慣れたものがあるのに気が付く。
…どこからどう見てもピアノだ。アップライトピアノだ。
嘘だろ、という気持ちになってまじまじと見つめる。白と黒の鍵盤は、よく見知ったものだ。3年前まで、毎日のように触れていた鍵盤。母のことを思い出してしまうのが辛くて、触れるのを避けていた鍵盤。
異界であっても、同じ音が鳴るのだろうか。
呆然とピアノを見ていると、とん、と背後から音がして振り返る。水の入ったグラスがカウンターに置かれていた。
穏やかに微笑むおばさんと目が合う。ぺこりと頭を下げて、コップを受け取って一口飲んだ。微かに柑橘系の香りがする。美味しい。
『坊ちゃん、ディルネが弾けるのかい』
おばさんがニコニコしながら問いかける。ニルさんの通訳を通しても「ディルネ」が何かわからない。首をかしげると、『あれだよ』とピアノを指さした。こちらではピアノは『ディルネ』というらしい。
曖昧に微笑むと、近くで話を聞いていた酔っ払いのおじさんが『おお?』と話に参入してきた。
『坊主、弾けんのか?こないだ弾ける奴が引っ越しちまってよお、寂しい思いしてたんだ。いっちょ弾いてくれや!』
そのまま手を掴まれて、ピアノの――ディルネの前に連れ出された。
困惑しながら振り返ると、遠くにいるニルさんと目が合う。
――弾ける人間がいなくて困っていたのだそうだ。弾いてくれと言っている。
ニルさんはカウンターに置かれていたヴェルの荷物を咥えて、近くに座った。期待に満ちたおじさんたちの目が痛い。『あんまり困らせるんじゃないよ!』と遠くからおばさんが何か言っているが、よくわからなかった。
今更断れなくて、ピアノの前に座る。鍵盤の数は同じだし、鍵盤の大きさも同じ。色も同じ。微かに埃をかぶった鍵盤に、震える指が触れる。
母はピアニストだった。
母は美しかった。
母は私の憧れだった。
母は私が高校3年生の時に事故で死んだ。
それから私は、ピアノに触れるのが怖くなった。
固まって動かなくなってしまった私を、ここまで連れてきたおじさんが不思議そうに見つめる。
おじさんの方を振り向いて、困ったように笑うと、『なんだ、弾けねえのかあ。悪かったな、坊主』と残念そうに言われた。静かになっていた店内に喧騒が戻る。
震える手をぎゅっと握りしめて、私はヴェルが戻ってくるまで、ただぼんやりとピアノの前に座っていた。




