雨上がりの晩餐 〜カミソリの鞘〜
1. 伝説への問いかけ
鍋の具材も少なくなってきた頃、それまで静かに話を聞いていた羽柴が、意を決したように眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……佐藤さん。一つ、どうしても伺いたいことがあったんです」
その場の空気が、少しだけ引き締まる。
「『カミソリ佐藤』と呼ばれ、偏差値も底辺だったはずのヤンキーが、弱冠18歳にして最難関の司法試験を突破した……。それは盛トワでは知らない者がいない伝説です。でも、どうしてあなたが『弁護士』を目指すことになったのか。その本当の理由を知る者は、誰もいません」
俺は一瞬、きょとんとした顔をしたが、やがて可笑しそうに口角を上げた。
2. カミソリを捨てた理由
「……なんてことはねぇよ。向かってくる奴を返り討ちに、力でねじ伏せてただけさ。だがな……以前のような、誰に対しても心を閉ざした頑なな気持ちを捨てたら、不思議と俺の周りにも人が集まってきた。それを教えてくれたのは、やっぱり瀬戸だったんだ」
俺はグラスを置き、遠い目をして続けた。
「弁護士になろうと思ったきっかけは……高校に入ってすぐ、親父が知り合いの連帯保証人になっちまってな。家の中がメチャクチャで、途方に暮れてた時だ。一人の弁護士が、俺たちを助けてくれたんだよ」
俺が「弁護士になる」と言い出した時、周りは何を寝言言ってるんだと鼻で笑った。俺を一番知っているはずの親ですら、本気にはしなかった。
「……ただ一人を除いてな。あの時のあいつの言葉、表情……今でも、はっきり覚えてる。」
3. 世界で一人の理解者
俺の脳裏には、あの放課後の教室の光景が鮮明に浮かんでいた。瀬戸は、俺の突拍子もない夢を聞いて、自分のことのように目を輝かせて言ったんだ。
「すごい! 佐藤君は不良の子たちの気持ちもわかるし、優しいし正義感もある! 絶対に向いてるよ! 絶対になれるよ、大丈夫だよ!」
「……あいつだけは、本気で応援してくれたんだ。俺の中に正義感なんて欠片もねぇと思ってたのに、あいつは俺を信じ切ってた。……だから、決めたんだよ。こいつの想いに応えるために、死ぬ気で猛勉強してやるってな。狙いは一発合格。それ以外、俺には道はねぇって」
俺が本気で机に向かい始めると、最初は馬鹿にしてた周りの連中も、次第に応援してくれるようになった。俺を変えたのは、俺自身の努力じゃねぇ。俺を信じ抜いたあいつの「大丈夫」だったんだ。
4. 本当の正義漢
「でもな……」
俺は、ゆうを優しく見つめ直した。
「本当に優しくて、正義感があったのは、瀬戸……あいつの方だったんだ。俺はいつだって、あいつに助けてもらってばかりだったよ」
その言葉を聞いた瞬間、羽柴は何も答えなかった。
ただ、眼鏡の奥の瞳をわずかに揺らし、佐藤の歩んできた壮絶な努力と、その根底にある深い友情の重さに、深く、静かに感じ入っていた。言葉にするのも野暮だと言わんばかりの、敬意に満ちた沈黙。
阿久津は目元を真っ赤にしながら顔を背け、獅子堂は深く、深く頷いた。
「パパ……お父さん、本当にすごかったんだね。佐藤さんを、そんなに元気づけられるくらい……」
「ああ、最高に凄え男だったよ。……そして、その最高な男が最後に俺に託したのが、君なんだ」
5. 絆の熱気
鍋の湯気が、温かく部屋を満たしている。
伝説の裏側にあったのは、泥臭くて、けれど誰よりも真っ直ぐな男たちの約束。
「ゆう。……お前のお父さんは、俺たちの誇りだ」
大和が、噛み締めるように言った。窓の外では、夜の闇が少しずつ薄れ始めていた。
悲しい過去を語り終えたはずなのに、部屋の中には、かつてないほどの熱い「生」のエネルギーが満ち溢れていた。
鍋の湯気の向こうで、ゆうはみんなに囲まれながら、小さく笑っている。
その姿を見つめながら、佐藤弁護士は静かに目を細めた。
……誰かを信じ、誰かを救い、誰かの孤独に手を伸ばし続けた男。
だからこそ、あいつは誰かを愛し、帰る場所を作ったのだろう
そして今、その愛は確かにここに生きている。




