雨上がりの聖域 〜静寂の祈りと、来訪者の影〜
1. 氷解の帰還
豪雨の中、獅子堂の腕に抱かれて戻ったゆうは、指先まで氷のように冷え切っていた。
屋敷に戻るなり、阿久津は震える手ですぐさま湯を沸かし、羽柴は清潔なタオルと着替えを山のように用意した。
獅子堂は、意識の朦朧とするゆうをそのまま風呂場へ連れて行き、自らの手で温かな湯をかけた。
「……大丈夫だ、ゆう。…大丈夫だ。」
その声は、ゆうに言い聞かせているのか、自分自身に言い聞かせているのか分からないほどに揺れていた。
2. 祈りのような執着
獅子堂は、ベッドの傍らに座り込み、ゆうの白く細い手を片時も離さず握りしめていた。
微かに伝わる体温。それが、今の獅子堂にとって唯一の救いだった。
扉は開け放たれ、隣のリビングには阿久津、羽柴、そして険しい顔の大和が揃っている。
さらに、ゆうを心配して居残っていた数名の生徒たちも、いたたまれない表情で壁際に控えていた。
重苦しい沈黙が、屋敷全体を支配していた。
阿久津は、さっきまで温かかった料理の残骸をただ見つめ、拳を血が滲むほど握りしめている。
羽柴は、外した眼鏡を握りしめたまま、深く俯いていた。
愛していれば、守れると思っていた。
けれど、自分たちの注ぐ熱が、逆に彼を溶かして消してしまいそうになっていたのではないか。
獅子堂は、眠るゆうの横顔を見つめ、ただ祈るようにその手を強く握り直した。
3. 沈黙を破る、一人の生徒の言葉
その静寂の中、リビングの壁際にいた一人の生徒が、ぽつりと口を開いた。
「……あの、的外れかもしれないっすけど……」
全員の視線が、彼に集まる。寝室でゆうの手を握る獅子堂の耳にも、その声は静かに届いていた。
「俺の姉貴が、結婚する直前にいきなり家出したことがあったんすよ。……幸せすぎて、怖いって。……最悪なことは、これ以上悪くならないって思えるけど、幸せなことは、幸せすぎていつかバチが当たりそうで怖いんだって……」
「……バチが当たる……?」
阿久津が掠れた声で繰り返す。生徒は頷き、言葉を継いだ。
「でも、その時の旦那さんが言ったんすよ。『これくらいの幸せで怖がるな! これからもっと、もっと幸せになるんだからな』って。……無理やり連れ戻されて、姉貴、泣きながら笑ってやがったんす」
生徒の言葉が止まると、再び深い沈黙が降りた。
獅子堂は、握りしめたゆうの手の甲に、静かに額を寄せた。
何が正解なのかは分からない。けれど、この温もりだけは、何があっても守り抜くと、改めて心に誓うしかなかった。
4. 運命のチャイム
沈黙が、再び屋敷を支配しようとした、その時。
ピンポーン——! ピンポーン——!!
夜の静寂を切り裂くように、玄関のチャイムが激しく、執拗に打ち鳴らされた。
この時間、この張り詰めた空気の中で、訪れるはずのない来客。
「……誰だ、こんな時に」
阿久津が反射的に立ち上がる。大和も、鋭い眼光を玄関の方へと向けた。
獅子堂は、ゆうの手を離さないまま、鋭い視線だけを入口へと飛ばした。
それは、獅子堂たちが「力」や「愛」だけでは決して辿り着けなかった、ゆうの「過去」と「未来」を繋ぐ、最後のピースが扉を叩く音だった。




