氷解の夜 〜壊れたアンテナと、天使の失踪〜
1. 凍りついた円卓会議
深夜二時。獅子堂家のダイニングには、肺が重くなるような沈黙が満ちていた。
テーブルの上には、手付かずのまま冷え切った食事が並んでいる。主を失った椅子を見つめ、獅子堂が低く、震える声で切り出した。
「……また、食べてないのか」
阿久津は、目の前の冷めた料理を握りつぶさんばかりに拳を固めていた。数時間前、部屋へ運んだ時のゆうの顔が脳裏に焼き付いて離れない。
「……『ごめんね、阿久津くん……』って、あんな儚い笑顔で言われて……」
阿久津の瞳に、悔しさと悲しみが滲む。
(……クソッ、あんな顔で謝られるくらいなら、いっそ怒鳴られた方がマシだ……!)
真心込めて作ったものを拒絶される以上に、ゆうの「申し訳なさそうな優しさ」が、阿久津の心をズタズタに引き裂いていた。
傍らで羽柴が、眼鏡の奥の瞳を伏せて告げる。
「……バイタルに数値上の異常はない。だが、彼の内面は限界です。論理的な解決を拒むほどの深い不安感。……僕たちがどれだけ手を尽くしても、彼の心の深淵には届いていない」
2. 大和の宣告と「解ける魔法」
獅子堂は、窓の外を睨むように立っていた大和に声をかけた。
「……大和さん。あんたはどう思う」
大和はゆっくりと振り返ると、ゆうの眠る部屋がある天井を見上げ、吐き捨てるように言った。
「……俺の卒業だろうな」
その言葉に、部屋の空気が一気に凍りつく。
「俺たちは学生だ。この場所は永遠に続く学校じゃねぇ。だが、ゆうにとっては、ここはやっと手に入れた『家族』そのものなんだ。……いつかは解ける魔法みたいに思ってるんだろうな。……あいつは、その魔法が解けるのを独りで怖がってるんだよ」
獅子堂は、何も言い返せなかった。
守っていると思っていた。この巨大な屋敷に閉じ込め、愛を注げば永遠だと思っていた。
だが、ゆうが見ていたのは、今この瞬間の温もりではなく、明日には消えてしまうかもしれない「蜃気楼」のような平穏だったのだ。
3. 綻びたアンテナ、決死の逃避行
その時、二階の部屋。
獅子堂の「ゆうくんアンテナ」は、皮肉にもこの夜、機能していなかった。
ゆうを心配しすぎたゆえの精神的疲弊と、大和の言葉によって突きつけられた「自分の無力さ」への自問自答が、獅子堂の研ぎ澄まされた感覚を決定的に鈍らせていたのだ。
ゆうは音もなくベッドを抜け出した。
雨を孕んだ重い雲が空を覆い、湿った風がカーテンを揺らしている。
リュックに入れたのは、たった二つ。
ご両親の写真立てと、みんなとお揃いで買ったキーホルダー。
窓枠を越え、闇の中へと降り立つ。
迷いはなかった。ただ、これ以上みんなに「申し訳ない」と思いながら生きることに、心が耐えきれなかった。
雨の匂いが混じる深夜の街へと、その小さな背中は音もなく吸い込まれていった。
4. もぬけの殻
数時間後、夜が白み始めた頃。
獅子堂が部屋を訪れたとき、そこには残酷なまでの「虚無」が広がっていた。
朝日すら届かないどんよりとした薄明かりの中、開け放たれた窓から冷たい風が吹き込み、カーテンがバタバタと虚しく鳴っている。
綺麗に整えられたシーツには、もう主の体温は微塵も残っていない。
「…………っ」
獅子堂の喉が、絶望に震えた。
机の上には、はなちゃんから貰った折り紙の指輪だけが、ポツンと取り残されている。
「……頭、朝飯……えっ」
部屋に入ってきた阿久津の手から、トレイが滑り落ちた。
ガシャン、と陶器が砕け散る音が、死んだように静かな屋敷に響き渡る。
主を失った部屋に吹き込む風は、彼らが必死に繋ぎ止めていた「家族」という名の魔法が、音を立てて崩れ去ったことを告げていた。




