99.趣味と実益を兼ねた八年間
新しい朝がきた。
カーテンの隙間から差し込む陽の光にそっぽを向こうとして寝返りを打てば、お腹に置かれていた腕に力が籠る。私の身体をぐっと引き寄せようとする力に、ぼんやりと瞼を押し上げた。
天井。首をこてりと横に向ければ、アッシュグレーの猫っ毛。気難しそうに眉間にしわを寄せて寝ているヴィクトルを見て、自然と口元が綻んだ。ごろりと寝返りを打って、ヴィクトルが寝ているのを良いことに懐に潜り込む。すぅっと彼の胸元で大きく深呼吸。
結婚後の朝はいつもこんな始まりだ。ヴィクトルは仕事で疲れていると眠りが深くなる。それに気がつくのにそれほど時間はかからなかった。前日が休みと出勤で、翌朝の起床が全然違うもの。
「……ヴィクトル、朝ですよ」
「……ん…」
「……ヴィクトル、おはようございます」
「…………んん……」
おねむなヴィクトルの瞼が重たそうに持ち上がる。菫色の瞳が見え隠れ。ふふ、と笑えば、ヴィクトルもふにゃりと笑って。
「……おはよう、フェリシア」
寝起きのかすれた声が私の名前を呼ぶ。ぎゅうっと私を抱きしめる腕にもう一度力を込めると、ヴィクトルはゆっくりと身体を起こした。あふ、とあくびをかみ殺して、何度か目を瞬く。
「私、着替えてきますね。ヴィクトルもちゃんと起きてくださいね」
「うん、分かってる……」
まだちょっと寝ぼけているヴィクトルはもう一度あくびをかみ殺した。ちょっと幼く見えるのが可愛く思ってしまうのは、私の色眼鏡かしら。目が覚めたら好きな人に抱きしめられているというシチュエーションはまだまだ慣れなくて照れてしまうけれど、ヴィクトルのこうしたあどけない表情が見れるのはすごく役得。結婚して良かったな、と思う。
私は寝室から出ると、自室に移動してベルを鳴らす。すぐにエリツィン伯爵家から連れてきたカミラがやってきて、私の身支度を手伝ってくれた。
ここは王城からほど近い、貴族街にある小さな一軒家。小さいといっても、貴族街にあるのでそこそこ広い。結婚式後、私とヴィクトルはお互いの家から数人の使用人を連れてこの家に引っ越した。エリツィン伯爵家はまだまだお父様が現役だし、ヴィクトルの仕事柄、王城に近いほうが何かと便利なので。
ちなみにヴィクトルは現在、国王陛下より新しく名前を頂戴してエリシン子爵となった。私のお父様が隠居したらエリツィン伯爵になる予定。それまではエリシン子爵がヴィクトルの身分となり、私はエリシン子爵夫人という肩書になる。そんなことを思い返しながら外交官の制服へと袖を通して、最後は鏡の前で念入りに確認。
「この制服を着るのも、今日で最後ね」
「八年間、お疲れさまでした」
「もう、カミラったら。まだ気が早いわよ」
「そう言ってる間に一日が終わりますよ?」
二人で顔を見合わせて笑い合う。本当に、この八年間はあっという間だった。カミラの言う通り、きっと今日一日も一瞬で過ぎ去ってしまう。
だから私は、今日という一日を惜しむことなく生きようと思うの。
「フェリシア、支度できたかい?」
「はい。朝食にしましょう」
ヴィクトルの言葉に返事をして、私は部屋を出る。アッシュグレーの髪を一つにくくって、緑を基調とした外交官の制服に身を包んだヴィクトル。ふと廊下の窓を見れば、八年間ずっと見てきた私たちの姿が隣に並んでいる。
「今日も一日、がんばりましょうね」
「そうだね」
私たちは笑い合った。
王城の外務省にある第三外交室。
ここが八年間通った、私の職場。
「おはよう」
「おはようございます」
執務室に入ると、すでにいつものメンバーがそろっていた。
「おはよー、ヴィクトル」
「おはよ〜、フェリシアちゃん」
ティモとトゥロは始業前だからといって、二人でカードゲームをしている。
「おはようございます、室長」
「お姉様、おはようございますぅ!」
イェオリは自分の机ですでに仕事を始めていて、ライザは私を見て駆け寄ってくる。うるうるとした瞳が悲しそうに訴えてきた。
「今日で、今日で最後だなんて……っ、お姉様がいなくなってしまうなんて……っ」
「決めていたことだもの。許して頂戴?」
「ぐぅううう、悲しみぃ……!」
最近のライザはとっても情緒が豊か。化粧品を変えたおかげか、ぐっと垢抜けて美人になった。あれだけ気にしていたそばかすも、薄い化粧で隠れるくらいになっている。顔つきがキリリとしているから、仕事中の彼女はお世辞抜きで格好良い女性に見える。私の前ではその表情が崩れるのはご愛嬌。
「全員そろっているね。朝礼しようか」
始業の鐘が鳴ると、私たちは着席して今日一日のスケジュールや仕事の割り振り、直近の大きな業務や出張などの事項が共有される。
その中には当然。
「今日がフェリシアの最終出勤日だ。引き継ぎ漏れがないようにしっかりとしておくこと」
「やー、ついにこの日が来たねー」
「フェリシアちゃんから外交官の思い出をどうぞ〜」
「えっ、急にですか」
引き継ぎ漏れないよね、と頭の中で一つ一つ今日やることを数えていたら、急にトゥロから無茶振りされた。外交官の思い出、ですか?
「急に振られても困りますけど……あ、せっかくエルパダ王国の方と交流を持てたので、いつかエルパダ王国に行きたいです。在職中にエルパダへの出張がなくて残念でした」
異世界のサンドイッチ伯爵を見つけることができたのは、エルパダ王国の外交官と交流を持てたから。ハルウェスタ王国とエルパダ王国では遠すぎて目立った国交はないけれど、大陸規模の国際交流の場に参加できて得られた縁は、間違いなく私が外交官になったからこそ得られたものだもの。
「うちの外交官でエルパダ語ができるのって室長とフェリシア様だけですよね……去年みたいに大陸規模の行事って直近でありますか?」
「大陸連合の定期会談が毎年あるけど、会談自体はアニマソラ語が主流だな。ハルウェスタは数年前に開催国になったばかりだから、あと十年は他国を大々的に招くような行事はないと思うぞ」
習得者の少ない言語のできる外交官がいなくなることに不安を覚えたらしいライザがそわそわとするけれど、それに対してはイェオリがきっぱりと断言する。ライザ以外の在職期間の長い私たちも同じ見解でうんうんと頷いた。
「目下のところはエルパダ語よりも玄蒼国じゃなーい?」
「技術者招聘の交渉行くんでしょ〜?」
技術者の招聘。
ティモとトゥロの言葉にヴィクトルが肩をすくめる。
「交渉自体は問題ない。僕が行くからね。問題が出るならそのあとかな。技術者の招聘が決まったあと、国内での段取りで通訳が複数人、必要になるだろうから。……まぁ、それも交渉がうまくいったら、だけど」
玄蒼国にある蒸気機関車。その技術に当然のようにハルウェスタ王国の上層部は興奮したそう。国交を結ぶならばまずはその技術がなんとしても欲しい。当初よりもはるかに前のめりで玄蒼国との国交を結びたがっている上層部の期待を背負ったヴィクトルはなんだか肩が重そう。
でも、そんなヴィクトルを支えるのが私の役割ですから。
「私も外交官という身分はなくなるけれど、引退した他の方々と同じように依頼があれば通訳や翻訳の仕事を受けるつもりです。出仕しないで自宅でできる仕事に変わるだけですし、夜会にも参加しますから」
閲覧権限が制限されるような重要書類じゃなければ、委託業務は全然できる。とはいえ、その業務もすぐにとは言えないけれど。
それに気がついているイェオリがジト目で私のほうを見てきた。
「そうはいってもフェリシア。どうせ室長の出張についていくんだろ」
「ついていきますけど?」
三ヶ月後には再びヴィクトルの玄蒼国超長期出張が待っている。滞在帰還は最長二年。交渉がうまくまとまれば一年で帰れるけれど、うまくまとまらなかったら二年で一度帰国する予定。なのでイェオリの言うように、私が委託業務をもらうようになるのはその後のお話でしょうね。
「最優先は旦那様を支えることですから」
「惚気だー」
「惚気だね〜」
ヴィクトルが双子に横腹を突かれている。無言で甘んじていたヴィクトルだけど、こほんと大きく咳払い。
「ついでだから報告しておこうか。実際の任命は来月になるけれど、今年の人事異動について」
「あ、いよいよー?」
「うちの部署での異動って何年ぶりだろうね〜」
驚いた。入省じゃなくて異動があるの。他部署では毎年あるけれど、うちの部署は本当に内輪のような扱いをされているから、ここ数年、人事異動とは無縁だったのに。
「モルデンブルグに常駐していたキリール様が十年の任期を満了される。帰国後は第三外交室室長に任命される予定だ。そしてイェオリ、君が第三外交室副室長。キリール様も今のこの部屋の勝手が分からないだろうから、色々と教えてあげて」
「はいっ!」
長らく空席だった第三外交室の副室長にイェオリがなる。そこにベテランのキリール様が戻ってこられるのなら、ヴィクトルの超長期出張に関しても心配がない。
そして当の本人であるヴィクトルは。
「僕は特命全権大使を任じられる予定。エリシン使節団として玄蒼国に行くよ」
もちろん、それには私もついていく。エリシン子爵夫人として。そして玄蒼国語の通訳として。通訳を雇うこともできるけど、外交官だった私だからこそ勝手も分かっている部分がきっとある。どうぞ便利に使ってください。
そんなこんなで、これからの第三外交室の将来も安泰でしょう。みんなであれそれ言い合いながら朝礼を終えて、私は最後の仕事に取り掛かる。
そして終業の鐘を聞いた時にこう思うの。
趣味と実益を兼ねた八年間だったな、と。
人生初めてのトモコレで遊んでいます。フェリシアとヴィクトルを住人にして二人の関係を見守っているのですが、ヴィクトルからの告白で二人は無事お付き合いはじめました。本編では理詰め婚約をもぎとったヴィクトルですが、トモコレではロマンティックな告白をしてにこにこです。




