94.婚約者からの手紙【悪】
噂が下火になったので、私も社交界に復帰し始めた。もうそろそろ社交界も終盤なので、やることもそれほどないけれど。
その日、夜遅くに夜会から帰ると一通の手紙が届いていた。誰からかと思ったら、ヴィクトルからだった。しばらく前に第二弾の報告書が来た際に、一緒に手紙をいただいたのは記憶に新しい。もしかしてあれからまめに手紙を書こうとしてくれるようになったのかしら。そう思って、気軽に私は手紙を開封した。ほんのりとした甘い香りが鼻腔につく。
〝フェリシア・エリツィン伯爵令嬢。僕は自分の過ちに気がついた。この出張の間、君から離れて過ごしてみて分かった。君との婚約は過ちだったと。僕と君の身分差では、あまりにも社交界の醜聞になる。僕の今後の仕事にも支障が出るかもしれない。そう思い直した。どうか婚約を白紙にしてほしい。〟
……これはいったい、なんの手紙?
ヴィクトルからの手紙を何度も読み返す。婚約の白紙を打診する手紙だわ。これは、何? 誰から、誰に向けての? ――ヴィクトルから、私へ向けての?
血の気がさぁっと引いていく。
急に手のひらを返したような内容に呆然とした。
「わ、悪い夢かもしれない……夜だし、疲れたし……ね、寝よう」
手紙を置いた。夜会から帰ったばかりだもの。久しぶりの夜会でちょっと疲れてしまったんだわ。いそいそとベッドにもぐりこむ。明日になったら私の頭もしゃっきりして、ちゃんと手紙を読めるはず。
そう思いながら、眠ろうと瞼を閉じる。
いつもなら瞼を落とした瞬間、すやっと意識が暗転するのに。
(眠れないわ……)
つきつきと心臓が痛む。胸が詰まっているように、呼吸が細くなる。不安。私の中をいっぱいにするのは、ヴィクトルから婚約破棄を打診されたことによる不安だ。
ごろごろとベッドで寝返りを打つ。これは眠れない。頭の中にさっきの手紙が焼き付いている。ため息をついた。もう一度、落ち着いて、手紙を読もう。
テーブルランプに火を灯して、か細い明かりの中でヴィクトルからの手紙を開く。先日届いた手紙では、愛するフェリシア、なんて書いていたのに。他人行儀な敬称で始まる手紙に、胸がつきりとした。
「やだなぁ、こんなじめじめした気持ち……それだけ私、ヴィクトル様のことが好きだったのね……」
思っていたよりも、私はヴィクトルのことが好きだったみたい。この気持ちが恋だっていう自覚はあったけれど、なんというか、私もヴィクトルも恋だの愛だのに浮つくような関係じゃなかったので……。婚約が決まっても、さっぱりした間柄だったし……。
でも、ヴィクトルがずっと隣にいることが当たり前だと思っていた。出張で長いこと離れていても、それが覆ることはないと思っていた。
――君が死んだら、僕が君のことを本に綴ると言っただろう。
彼が約束してくれた言葉は、ずっと私の胸の宝箱にしまってある。大切に、大切に。私がフェリシアとしてこの世界で生きるために必要な、大事な思い出。
だから今、すごく動揺している。
「ヴィクトル様……この一ヶ月で、何か心変わりをしてしまったのかしら」
何がきっかけになったのかは分からない。クーヤくんのそばにいて、私の前世の話を聞いたとか? でも、クーヤくんとは言うほど前世の話をしていない。クーヤくんから伝わることも、ほとんどないと思う。
それなら何がヴィクトルの心を変えてしまったのか。私はじっくりとヴィクトルからの手紙を読む。何も分からない。それなら、これの前に届いたヴィクトルからの手紙には、何か予兆みたいなものはなかった? ヴィクトルからの婚約者らしい手紙に浮かれすぎて、私は何か見落としていない?
そう思って、私はこの間もらったヴィクトルからの手紙や、以前もらった手紙を引っ張り出してきて。
見慣れたヴィクトルの筆跡。
じっくりと眺めていて、ふと気がつく。
「……この紙、和紙じゃないわ」
この世界の紙事情。以前は羊皮紙が主流だったけれど、最近はハルウェスタ王国でも植物紙が増えて、量産体制が整ってきた。なのでハルウェスタ王国で流通している紙のうち、貴族が使うような高級な紙は前世のパルプ紙に近い手触りをしている。けれど玄蒼国の紙は同じ植物紙でも和紙のような製法をしているのか、植物の繊維が手触りとなって残るような趣深い紙だった。
この手紙が玄蒼国から届くには一ヶ月以上かかる。まだヴィクトル自身が帰国していないことを考えれば、この手紙は玄蒼国から送られてきたもの。手紙を書くことをすっかり忘れていたヴィクトルが、ハルウェスタ王国からこんなにもきっちりしたレターセットを持っていたなんて考えられにくい。それに何より、先日届いたクーヤくんとおそろいの手紙は玄蒼国特有の紙だった。
「これ、本当にヴィクトル様の手紙……?」
届いたばかりの手紙と、他の手紙を見比べる。
すると、一目瞭然。
「ヴィクトル様、私の名前を書く時だけ、すごく丁寧……」
和紙に書かれた〝フェリシア〟という文字。慣れない筆を使ったのか、全体的に書きづらそうに文字が崩れ気味なのに、〝フェリシア〟という綴りだけがお手本のように綺麗。どうしてかしらと考えて、ほんのり頬が熱を持つ。
「私の名前を、大切にしてくれているのね」
悲しかったはずなのに、苦しかったはずなのに、痛かったはずなのに。ヴィクトルが思いを込めて私の名前を書いてくれている。そう思うと、胸が甘い気持ちで満たされた。
私ってこんなに単純なのね。たったこれだけのことで、こんなにも嬉しくなっちゃって。
愛おしさと悲しさの二律背反に苦しくなりながら、他の古い手紙にも目を通す。でも手紙を広げて分かったことは、和紙じゃなくても彼は〝フェリシア〟という文字だけすごく丁寧に綴ってくれていたこと。そんな彼が何の前触れもなく、顔を合わせることすらしないで婚約破棄をするなんて、どうしても考えられない。
もう一度、婚約破棄について綴られた手紙を手に取った。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「……ん?」
一瞬だけ漂った甘い香りに首を傾げる。嗅ぎ慣れない香り。手に持っていた手紙をくんっと嗅いでみる。
(……そういうことね)
理解した。
だからこそ、許せない。
「ヴィクトル様の名前を騙って、婚約破棄を打診する手紙を偽造するなんて……乙女心をもてあそんだこと、高くつくわよ」
玄蒼国からハルウェスタ王国までは、手紙が届くまで一ヶ月以上かかる。そんな長い旅路の中、ここまではっきりと香りが残ることなんてない。
こうと決まったら、やることがある。
まずはシーリン商会へ手紙を書こう。今度の納品の時までに、この偽造された手紙のレターセットがどこで取り扱われているものかを調べてもらうわないと。
私にこんなことをする人、一人くらいしか思い浮かばない。この香りが証拠になるけれど、香りは証拠として残しづらい。もっと決定的な何かがほしい。
慎重に、慎重に。
噂だけだったらまだしも、こんな手の込んだことをしてまで、私とヴィクトルを破談させたいなんて。
考えていたら、ふつふつと腸が煮えくりかえってきた。
「仏の顔も三度と言うものね。私だって怒る時は怒るんです」
売られた喧嘩、買ってみせましょう。
【ヴィクトルの出張日誌17】
出立も近いため、最後に遊覧船というもので神湖スロイスティエ・ ロジェーニヤを巡ってみることとなった。広大な湖は神聖なものだと伝わるが、それとともにこの地に生きる人々の生活の場でもある。ここで暮らしている船頭に話を聞いたところ、この神湖にはヌシと呼ばれる大魚が住んでいるらしい。だが人にはまず近づかないようで、ヌシの影を見ることができたらその人に幸運が訪れるのだとか。またこの神湖の中央には小さな島があるが、それもヤマト遺跡群の一つらしい。近くまで行くと小さな小屋が建っているのが見えた。あの小屋は玄蒼国語で〝hokora〟と言うらしい。神や精霊を祀るのだとか。あのホコラでは何が祀られているのだろうか。
本日夕食:カレーライスというものを食べた。フェリシアの作るカーヤムのスパイスと近しい味がする。不思議に思いクーヤ殿に聞いたところ、どうやらフェリシアから譲られたスパイスのレシピをさらに改良し、ニホンの味に近づけたらしい。なるほど、フェリシアがカーヤムのスパイスにあんなに熱意を注いでいたのは、前世の味を再現したかったからなのか。もうすぐ帰国できるというのに、フェリシアに早く会いたくなった。彼女のスパイスを使ったチキンのサンドイッチが食べたい。




