87.お腹がすく呪いの書
ゴドーヴィエ・コリツァ暦一四〇〇年。
年が明けた。
昨年は年越しから人生稀に見る……いやもう、二度と巻き込まれたくないような大騒動から始まり、ほそぼそと堅実に後輩を育てていた一年だった。婚約という人生の転機となるイベントも起こり、昨年の私は本当にぎゅぎゅっと圧縮されたような日々を過ごした。
そんな怒涛の一年だったものの、なんとか乗り越えられたのは、周囲にいた優しい人々のおかげ以上の何ものでもない。だからこそ、今年は平穏無事に過ごしたい……と思うものの、結婚という大イベントが控えている以上、忙しさは変わらないんだなぁと思ったり。
年が明けてからは、完成したテネッコンをどうやって領民にお披露目するのか、お父様に合格をもらえるまで企画を練り練りしていた。全領民に平等にテネッコンを見せてあげたい私は、綿密に企画を練ってはお父様に駄目出しをもらった。「じゃあ明日から順番にベプオークの丘に皆さんきてくださーい」なんてできるわけもないし、テネッコンを扱える専門家も用意しないといけない。留学生のノエルをこのままエリツィン伯爵領に留めておけないので、ノエルの代わりになる人材を育成しないといけなかった。
そんなことをしていればあっという間に長期休暇は終わってしまう。外交官としての仕事がある私は、ギリギリのところでお父様に合格をもらったので、あとのことを両親に託し王都に戻った。もちろん、テネッコンと離れがたくて悲壮感漂うノエルを王立学園の寮に責任持って送り届けましたとも。勉強、がんばってね。
ヴェルナーさんとドナートさんは、私が新たに提案したカメラにご執心中。原理は説明したので、彼らはレンズを通した先で像を投影するために必要な感光材料を求めて旅立っていった。実現できるかどうかも分からないので、気長に任せるつもり。
そうしていつもの日常に戻るべく出勤した私を迎えたのは、長期出張中のヴィクトルからの報告書だった。
「フェリシアー。回覧。読んだらライザに回して」
「はーい」
休み明けののんびりとした空気の中、翻訳する書類の仕分けをしていると、イェオリに紙の束を渡される。筆記された文字の癖を見て、ついイェオリを二度見した。
「ヴィクトル様からの報告書じゃない。読んで良いの?」
「めっちゃ勉強になるから見たほうがいい」
そう言われると、すっと背筋が伸びる。姿勢をただして読まなければ。
報告書をぱらっとめくる。
ハルウェスタ王国を出て、クロワゼット共和国を経由し、ガムラン連合王国へ。そこから船を乗り継ぎ、連合王国の一角であるヴガール王国に停泊。そこから小大陸オストロリーチの沿岸部づたいに玄蒼国へ到着予定。これは最後の出航前に送った報告書みたい。
報告書には途中で立ち寄った町や港の雰囲気や物価など、細やかに書かれている。すごい。為替レートまで計算されてる。こんなところまでしてるなんて、ヴィクトルってば几帳面。
そんな中、私の目が吸い寄せられたのは。
「ウミアユ……? 海の鮎……?」
蟹やら貝やら魚やら。美味しそうな海鮮をしこたま食べてるらしいヴィクトルの報告書の中で目につくのがウミアユという魚。どうやら玄蒼国と小大陸オストロリーチの間の海域にいる魚みたい。
鮎といえば川魚。綺麗な清流に生息していて、綺麗な藻を食べて美味しく育つ。前世、長良川の鵜飼を一度だけでもいいから見てみたかったな、なんて。
ウミアユの名前がどうやってつけられたのか分からないけれど……玄蒼国には転生者ヤマトの伝説が残っている。ウミアユが〝海の鮎〟という意味でつけられている可能性だってあるのでは!?
さりげなくウミアユをメモし、私は報告書に既読のサインをしておく。テクマク港とかマヤコン港とか、ツッコミどころのある港名もあったけど、さすがに魔法少女の呪文が分割されて地名になる理由の考察ができないので、こちらは一旦保留で。偶然の産物と思いたい。
他にも、泡水という天然炭酸水っぽいのにも興味がそそがれる。浜焼きに炭酸水、ぜったい美味しい。ヴィクトルばかり美味しいものを食べてずるい。私も浜焼き食べたい。蟹食べたい、貝食べたい!
「お腹すいたわ……」
「分かる。今回の室長の報告書、なんだか食べ物だけ異様に詳細に書かれてるんだよな……」
イェオリもヴィクトルの飯テロの犠牲者みたい。グルメリポーターのように食欲をかき立てるような報告書を送ってきたヴィクトルは、何を思って食事のことをこんなにしっかり書いたのかしら。
お腹がすくなぁと思いながら、隣で黙々と翻訳作業をしているライザに報告書をまわす。
「はい、ライザ。回覧です」
「お、お腹がすく呪いの書……!」
「それは言いすぎ」
私とイェオリの会話に聞き耳を立てていたらしいライザ。わなわな震えながらお腹がすく呪いの書を受け取った。
「ほぇ……為替……何……お金……? えっ、これも私たちの仕事なんですか?」
「記録はね。金貨はどの国もだいたい共通で使えるけれど、銀貨や銅貨は変動しやすいから。次回出張の予算組みする際の目安にするし、その蓄積資料の一環ね」
駐在している外交官がいればそのあたりも含めて定期報告するし、行き来する商人がいれば情報を買うこともできる。でも、普段から交流のない国々はこうやって出張中に情報収集しておくのです。とくに玄蒼国と国交を結ぶのなら、今後の交易ルートに入る国々の為替はとても大事。為替が極端に変動していたら何かあったのだろうと予測を立てられるしね。
ヴィクトルの報告書にはそういう視点での報告がもれなく記載されていた。食事の報告だけやけに気合が入っているだけで。それ以外はさすがの優秀さ。私の婚約者、すごいでしょう?
「ライザもそろそろ出張組むから、室長の報告書でどういうところを見ておくべきか参考にするといい」
「うぇ!? も、もももうですか……!? 私、まだ全然、新人ですけどぉ……!」
そうはいっても、ライザって入省前から優秀だったみたいで、習得済みの言語に関してはほとんど問題ないもの。今年は千四百年祭の影響もあって、どこも内政重視。大がかりな条約締結とかもないから、出張も定例的なものばかり。初出張にはちょうどいいものね。
……と、いうのが、外交官としての職務がそこそこ長い私たちの見解なのだけれど。ライザには出張というハードルが思いのほか高く感じられるようで、ぴるぴると小動物のように震えている。
「無理です無理です無理ですぅ……! あと五年くらいコツコツコツコツ下積みをさせてくださぃ……!」
「フェリシアは一年目から出張に行ってたぞ」
「さすがお姉様……!」
イェオリが私を引き合いに出すと、ライザの目がきゅるりと輝く。あの、期待の目でこっちを見ても、ライザの出張予定はそのままよ……?
「ライザ、あのね? 順調にヴィクトル様が帰ってきたら、私、年内には退職になるのだけれど……その前に、あなたが立派にひとり立ちした姿を見せてくれたら、私も安心して退職できるわ」
「あ、ああぁ……っ! フェリシア様が退職……! そんなっ、私の、私のお姉様が……っ、楽園が……!」
「そのつもりであなたが雇われたのを忘れないで?」
今更気づいたみたいに大げさに頭を抱えているけれど、長期休暇をはさんだせいですっかり忘れていたのかしら……? イェオリと私は視線を交わし合って苦笑する。まぁ、ライザのコレは最初からだった気もするので、通常運転ということにしておきましょう。
「はいはい、じゃあ報告書読んだら業務に戻れよー。ライザは回覧後、双子の机にそれを置いといて」
「分かりましたぁ」
双子はそれぞれ外回り中。ティモは他部署に書類配りに行っているし、トゥロは翻訳予定だった書簡にミスがあったようで担当部署に出向いて確認中。
二人が戻ってきて、ヴィクトルの報告書を読んだらどんな反応するのか楽しみね。やっぱりお腹が空いてしまったら、ライザの言う通りお腹が空く呪いの書と名付けてやりましょう。
【ヴィクトルの出張日誌10】
玄蒼国の雰囲気はハルウェスタ王国とまるで違う。衣服はレースや刺繍をふんだんに使ったものはあまり見かけず、色彩豊かな布を何枚も重ねることで華やかさを増す。色の種類が豊富で、染色技術がハルウェスタ王国よりも発展しているようだ。安価で鮮やかな色彩の反物が店に並ぶ。他にも交易向けの店ではなぜか包丁を売る店が多くあった。〝タマハガネ〟と呼ばれる金属から作る切れ味の鋭い刃物で、包丁一振りとっても美術品として見れる美しさがある。玄蒼国の人はこんなに美しい包丁で食事を作っているのか……。
本日夕食:魚介の汁で煮込んだ麺。玄蒼国では麺の種類が豊富で、この地域ではウントンなるものが人気らしい。パンと同じ小麦から作られるのだとか。白くコシのある太い麺で、魚介の汁とよく合う。麺一本が思っているより長く、椀の中に数本しか入っていなくて驚いた。それでお腹いっぱいになるのだから、このウントンという主食はすごいと思う。玄蒼国は米が主流だと伝え聞いていたが、実際にこうして麺も豊富であるのを見ると、玄蒼国の食文化は色々と期待ができそうだ。




