86.ファインダー越しの未来
ドロたち一家を馬車で送る手配を終えて、私とノエルはようやく人心地がつく。カミラが労るようにお茶を淹れてくれたので、私は遠慮なくそれに手を伸ばした。
「なんとか丸く収まって良かったわー……」
「ご両親がしっかりした方々で良かったですね」
本当に。カミラの言う通り。ドロのご両親が真面目な人たちで良かった。ドロの目に関しては予断を許さない状況だけれど、なんとか快方に向かってほしい。
「ノエルもお疲れ様。今日はゆっくりするつもりが、ばたばたしてしまったわね」
「いえ。私、研究ばかりで、研究とは違うところの影響を考えたことがありませんでした。だから今日は、良い勉強になりました」
ノエルも良い子〜! そう言えるなら、今日の出来事も実りのあるものだったのかもしれないわ。
私はノエルの言葉に満足して、ティーカップを傾ける。はぁ、疲れた身体に染み渡るぅ〜。
「そういえばノエル、テネッコンのレンズは完成しそう? 明日、観測するのでしょう?」
同じようにティーカップに口をつけていたノエルの眉がぴょこんと跳ねる。ノエルはティーカップを持ったまま、こくりと頷いた。
「今、ドナートさんが新しいレンズを作ってくれています。明日の夕食が終わったら、ベプオークの丘に行く予定です」
「私も行こうかしら」
「ぜひ!」
ノエルの水色の瞳がきらきらと輝く。ドロのことがあったばかりだけど、テネッコンが完成に近づいていくのは喜ばしいこと。
そうだ。完成したら、エリツィン伯爵領内でのお披露目とかどうかしら。ドロのように誤った使い方をしないように、月観測ツアーみたいなのを領民向けにするの。それでうまくいったら、貴族向けにツアーを組んで、テネッコン観光地化事業をスタートさせる。領民へのお披露目はそれのお試し版みたいな。うん、テネッコンが完成したら、お父様に相談してみよう。
(テネッコンが完成したら、ノエルから借りていた天体観測儀も返さないとね)
以前、リストテレスでノエルからテネッコンの設計図を買い取った時に、一緒に預かった天体観測儀。ノエルのお父様の形見だけど、ノエルが私との約束のために預けてくれた。大切なものなので私の転生者リストの清書分と一緒にしまってある。
テネッコンが完成したら返そうと思っていたので、その日も近そう。
「明日が楽しみね」
「はい!」
ノエルが嬉しそうに笑う。
いよいよ完成の近いテネッコン。
ハルウェスタ王国から見える月は、どんな月かしら。
翌日、黄昏時に空を見上げると、望月がひょっこりと顔を出していた。
雲はなく、茜色の空が綺麗に見える。一日晴れていて風も強くないから、今日は天体観測にもってこいの日。
ノエルと一緒にベプオークの丘へ来た私は、さっそく塔を登る。今日はヒールのない歩きやすい靴で来ましたとも。前回、裸足で塔を上り下りしたことがカミラに知られて大目玉を食ったので……。
なんとか塔を登りきると、先に来ていたドナートさんとヴェルナーさんが待っていた。
「待っていましたよ。調整は済んでいます」
「…………」
「ドナートも完璧だって言ってます」
あれだけこだわっていたドナートさんが完璧だって言うんだもの。これはもう、期待大ね。
私は振り返ると、ノエルを見た。
「さぁ、ノエル。お先にどうぞ」
「えっ? フェリシア様じゃないんですか?」
「私は正しく月が見えているか、ノエルが確認してからでいいわ」
ここにあるテネッコンはノエルの集大成。基礎はノエルがお父様から引き継いだものだけれど、ハルウェスタ王国で使えるように改良を加えたのはノエルだ。それなら最初にテネッコンを覗くのは、当然功労者のノエルよね。
ノエルはぎこちない動作で台に登る。そっとテネッコンを覗きこんだ。
「わ、ぁ……!」
ノエルの声が塔の中に響く。それからしばらく、ノエルはテネッコンを覗いたままじっと静止して。
満足したのか、ゆっくりとテネッコンから離れると台から降りた。
「どうだった? リストテレスの月と違ったかしら」
『全然違いました! 月って岩肌になっているんですけど、そこに山のような隆起とか谷のような窪地とかがあるんですけど、その形や位地が全然違うんです!』
早口なサピエンス語に、さすがの私も所々聞き取れなかった。だけどまぁ、なんとなく、月のクレーターについて新しい発見があったことは理解できた。
前世でも、日本には月に兎がいると言われたし、海外では蟹や本を読む女性がいると言われていた。きっとこの世界の月も、そういった見え方の違いがあるんだと思う。
「フェリシア様もぜひ! ぜひ!」
「えぇ。見せてもらうわ」
リストテレスへ始めて出張へ行った時も、ノエルにお願いして月をテネッコンで覗かせてもらった。綺麗に見えた月に、兎はいなかったことだけ覚えている。
その記憶をたぐり寄せながら台へと登り、テネッコンを覗いた。
月に兎は、やっぱりいない。
でも、その代わりに。
「……ひょっとこ?」
上のクレーターが鉢巻で、下のほう隆起がおちょぼ口に見える。思わず肩が震えてしまった。月に兎じゃなくて、ひょっとこって!
「フェリシア様? どうしましたか?」
「いや……あの……ううん……ふふっ」
駄目だ、ひょっとこが笑いのツボに入ってしまった。必死に笑いを堪らえようとするのに、全然堪えられない!
「どうしたお嬢。そんなに面白いものが見えたんですかね」
「そういうわけでは、ないのだけれど……ふふっ。ねぇ、あなたたちは月の模様が何に見えるかしら」
「月の模様ですか」
ノエルとヴェルナーさんが交互にテネッコンを覗く。覗いたあと、二人は首をひねった。
「丸が多いと思います」
「まだら模様っぽいな」
「私、ひょうきんな顔をした男性に見えるのだけれど」
「えー……?」
ノエルとヴェルナーさんがもう一度テネッコンを覗きはじめる。二人とも交互にテネッコンを覗いて、またもや首をひねった。
「見えなくもない……か……? 目は分かるけど、口どこだ?」
『あー……人間の顔を記号化したら丸や三角だけで構成できるけど、それに近い感じ……? フェリシア様の発想力ってすごいな……これが芸術?』
二人に好き放題言われているけど、月の形がひょっとこに見えるのは私だけ。ひょっとこのお面を知っているからこそ、見えるだけなのかも。目の錯覚ってすごい。この面白さを誰かに共有したいのにできないもどかしさ。クーヤくーん! 今どこですかー!
わいわいしながら月を鑑賞する私たち。ドナートさんも混ざってテネッコンで月を見た。そうしたらあの無口なドナートさんが肩を震わせて笑う。全員がドナートさんを凝視した。
代表してヴェルナーさんがこしょこしょと笑った理由を聞けば、月の模様が私と同じで人の顔に見えたらしい。しかもだいぶ間抜けな顔に見えたから、つい笑ってしまったのだとか。やった、ここに共有できる人がいた! 大穴すぎる!
夜も更ければ月の形が少しずつ変わっていく。ノエルと出会わなければ知らなかったこの世界の不思議を、じっくりと目に焼き付ける。
交代で月を眺める中、私はそっとノエルを手招いた。
「ノエル。想像以上に早くテネッコンができてしまったわね。ノエルが頑張って勉強して、ハルウェスタに来てくれたからよ」
「ううん、フェリシア様が約束を守ってくれたから」
ノエルがふるふると首を振った。彼女の癖っ毛が闇の中でふわふわ揺れる。伸びたその髪にノエルの成長を感じながら、いつも持ち歩いている鞄に手を差し入れた。約束の証を、そっと取り出す。
「これ、返すわね。あなたの大切な、天体観測儀」
ノエルの目がまん丸になる。
天体観測儀を手に取ると、はにかんだ。
『父さんの天体観測儀……覚えててくれたんだ』
『もちろんです』
思わずこぼれ出たサピエンス語。私もサピエンス語で答えながら胸を張れば、ノエルはくすくす笑う。
『フェリシア様。月ほど綺麗には見えないけど、せっかくだし星の河を見てみる?』
『もちろんです!』
ノエルがさっそく天体観測儀を使って、星の位置を確認する。日にちと、時間と、月の位置。それだけで壁に囲まれた部屋でも星の河の位置をぴたりと当てる。ヴェルナーさんとドナートさんが、テネッコンの位置や台の高さを調整して、ノエルが示す星の河の方角へレンズを向けた。
テネッコンを覗くと、ノエルはレンズの入れ替えをドナートさんにお願いする。ドナートさんは言われるまま、レンズを何度か入れた。
「うん、よく見えます」
そう言って、何度目かのレンズ交換と調整で、ノエルは私へと場所を変わってくれた。日々、夜空に流れている星の河を、レンズ越しに覗いてみる。
宇宙の果てで輝く星の光が、雲のような輪郭を持ってぼんやりと輝いていた。テネッコンを通してみても、光源まで見通すことまでは叶わない。でも雲のようなぼんやりとした輝きは帯状に広がって、地平の彼方にまで消えていく。
前世でも、天の河をきちんと見たことがなかった。七夕の日、天の河を見ようと空を見上げても、曇りばかりで織姫様と彦星様はほとんど会えずじまい。
でもこの世界では、星の河が毎日のように見れる。そして今、前世よりもさらに近くに星の河を見ている。
「綺麗ね。こんなに綺麗だと、カメラで撮って残しておきたくなるわね」
「かめら、ですか?」
ノエルがきょとんと瞬く。私は小さなひとり言が拾われてしまって苦笑した。ようやく天体望遠鏡ができたばっかりなのに、カメラは無理無理! 高望みです。
「なんでもないわ。ただのひとり言よ」
「いいえ。フェリシア様のひとり言だからこそ、気になります」
ノエル、何か勘違いをしてる? 私のひとり言は本当にただのひとり言なんですが!?
「どうした。何かあったのか?」
「フェリシア様が何か思いついたみたいです。でも、教えてくれません」
「ほー。なんだお嬢。何を思いついたんですかね。俺にこっそり教えてくださいよ。お嬢の発想はめちゃくちゃ良いものがありますからね」
ヴェルナーさんも乗っかってきた!? 本当にちょっとうっかりぽろっと出てしまったものだから、本当に気にしないでもらえると……!
「……」
「ひゃっ!? ドナートさん、いつの間にそこに……!?」
背後をドナートさんに取られ、ひっくり返りそうになる。興味津々の三人に囲まれてしまっては逃げ場もなく。私は観念して両手を挙げた。
「ちょっとした思いつきなので、再現できるかは知りません!」
「再現、ということは、前に誰かが作ってるってことですな。再現するならうちの工房が得意です」
「難しい理論なら、私に任せて」
「…………」
「ドナートもガラス使うなら仕事くれって言ってますぜ」
三者三様の意気込み。そんなにも前のめりで言われると思っていなかったから、つい笑ってしまう。
「ふふっ。そこまで言ってもらえるなら、そうね。試しにちょっと頼んでみようかしら」
テネッコンが完成したし、次の新しい事業に着手しても良いかもしれない。せっかくノエルが留学しているのだし……きっと学者の彼女がいれば、カメラの仕組みを私以上に理解してヴェルナーさんたちにどういう物を作るべきか落とし込みをしてくれるかもしれない。
私はテネッコンを覗き穴に触れると、三人に思いついたことを話しだす。
「カメラはね、レンズを通して――」
夜はまだ長いので。
三人にはぜひ、カメラ構想を練っていただきましょう!
【ヴィクトルの出張日誌9】
玄蒼国の港に入港した。これまではまだガムラン連合王国に連なる島国や小大陸オストロリーチの文化など、開放的な風土を感じながらも親しみやすい雰囲気の国々を通ってきた。しかし、玄蒼国はこれまでの国々の雰囲気とは一変し、どこか余所者を歓迎しない雰囲気を感じる。港町で、僕たちの格好が見慣れないものだからだろうか。それとも黒髪の多い玄蒼国で銀髪や金髪などの明るい髪色は目立っているからだろうか。とりあえず宿を取ることはできたので、船酔いで寝込んでいる官吏の体調が整ったら、視察を始めようと思う。
本日夕食:カイセンドンと海藻の味噌スープ。玄蒼国では一部地域で魚を生で食べると聞いたが……本当に食べるらしい。肉は焼いて食べるものなので魚も当然そうだと思っていた。でも食事のために入店した店のほとんどの客が同じカイセンドンとやらを注文していたので、僕も食べてみることに。色んな魚のサシミというものが乗っていた。赤身の魚は生臭く感じるものもあったが、白身の魚は歯ごたえもあっておいしく感じた。フェリシアと通ったおかげで飲み慣れた味噌スープ。これが口の生臭さを中和してくれるのが高い評価のポイントだ。




