112.チョコレート騒動
「どうしたんだい、フェリシア。やっぱり気分が」
「〜〜っ、そ、そうかもしれませんっ、あの、その、退席させていただきたく……っ」
チョコレートが媚薬と言われて動揺が隠せない。大丈夫? 私、大丈夫? そういえばチョコレートが媚薬だったという話を聞いたことがあるわ。現代日本人としては日常的に食べられるお菓子だったから媚薬と言われてもピンと来なかったけれど……あぁっ、知っていたのに! チョコレートを前に私の理性は吹っ飛んでしまったわ……!
ハルウェスタ王国側の一行は何がなんだか分からないと思う。玄蒼国側はそれを知っていて、だからミギワ様も微妙な反応をしていたんだわ。皇太子殿下が堂々と媚薬を盛ってくるなんて! 妃たち御用達の甘味って言い方も紛らわしすぎませんか! 恥ずかしすぎて顔が上げられないぃ……!
『くくっ、良い反応だな。よく聞き取れなかったが、女神の化身にソレが何か聞いたか? ちょうど良い、そのまま女神の化身に慰めてもらうのはどうだ。彼奴にはまだ妃がおらんからな』
『下衆が』
『兄上、お客人になんてことを仰るのです。クーヤも言葉が悪い』
皇太子の嫌な声とクーヤくんのドスの効いた声、それからミギワ様の厳しい声が聞こえる。それからすぐにミギワ様の謝罪の声が聞こえてきた。
『ヴィクトル殿、申し訳ありません。今夜はもうお開きにいたしましょう。すぐに部屋へと案内させます』
『なんだ、女神の化身の寝所に連れて行けば良いものを。神湖の一族もそれはそれは喜ぶのではないか?』
『兄上。神子様は大使殿の奥方であらせられます。皇太子とて、他国に対しての礼儀と敬意をおはらいください』
鼻で笑うような声は皇太子のものかしら。ああもう、何でもいいので、恥ずかしいから早く退室させてください……!
ぎゅうっとヴィクトルにしがみつくと、ヴィクトルも私が早くこの場を離れたいのを理解してくれたのか、すっと立ち上がった。私もそれにつられて立ち上がるけれど。
「ひゃん……っ」
「フェリシア!」
あ、足がちょっと痺れてしまった……! さっきまで平気だったのに! ヴィクトルの肩に顔を押し付けるために正座を崩してしまったのが悪かったのかしら。よろけた私をヴィクトルが抱きとめる。ばたばたと誰かが駆け寄ってくる気配もした。
「フェリシアさん、大丈夫か。媚薬の効果、きついか?」
「ち、ちが……足、しびれただけです……媚薬の効果は分かりません……」
日本語で聞こえてきたクーヤくんの声に、私は消え入りそうな声で言葉を返す。私の情けない悲鳴を勘違いしたらしくて、それすらも恥ずかしい。
「ヴィクトルの兄ちゃん、今までの会話ってどれくらい分かった?」
「少し。しかし〝biyaku〟分からない」
『玄蒼語で媚薬は分かる?』
『……いや、分かりません』
さすがの言語の魔術師でも媚薬なんて単語まで網羅はしてないんですね。ヴィクトルが健全であることを喜ぶべきでしょうか。それともすんなりと伝わらないことを嘆くべきでしょうか。
クーヤくんがどう説明しようか困っている様子をひしひしと感じる。私は恥をかきすてて、ヴィクトルの胸に顔を埋めながらぼそぼそと囁いた。
「ヴィクトル様、ヴィクトル様。〝biyaku〟は媚薬です……ごめんなさい、おいしくて、つい半分ほど飲んでしまいました……」
「びや……!? なっ」
ようやく理解したヴィクトルが絶句した。それからたちまちのうちに私の身体が持ち上がる。まだ足のしびれが残っている私はまたもや情けない悲鳴を上げてしまうけれど、ヴィクトルはそんな私を無視して横抱きにしてしまった。
『クーヤ殿下、部屋への案内を頼めますか』
『おうとも。ミギワ兄上、あとはよろしく』
『え、ええ』
皇太子殿下には色々と物申したいものの、これ以上この場にいるのも私の羞恥心が耐えられない。ヴィクトル様に横抱きにされた私は、クーヤくんの先導でようやく退席することができた。
私たちにあてがわれた部屋へと戻ると、クーヤくんは医師を連れてくると言って来た道を戻っていく。私はといえば、ヴィクトルにゆっくりと寝台へと降ろされた。宴席の部屋はお座敷で和風だったけれど、客室のような個室は中華風。玄蒼国の建築様式は和と中華が混ざっていて面白いなぁと思う。
そんなことをぼんやりと思っていれば、ヴィクトルが心配そうに私の顔をのぞき込んできた。
「フェリシア、大丈夫かい」
「あ、はい。たぶん……」
「本当に?」
ヴィクトルのアッシュグレーの髪がさらりと私の顔へ落ちてくる。菫色の瞳に私の姿が映る。シーツに沈む私の姿。心なしか頬が上気している気がする。頬が赤いのは恥ずかしいから? それとも媚薬のせい?
「あ、あの、ヴィクトルさま……その……」
「なんだい」
「や、わ、私がもし、び、媚薬で乱れてしまっても……その、幻滅しないで、くださいね……」
最後のほうは消え入りそうな声になってしまった。恥ずかしい。ほんっとうに恥ずかしい。ヴィクトルの顔が直視できなくて、顔を背けてしまう。
でもヴィクトルは、そんな私に。
「……君が、恥ずかしがることはないさ。もしそうなってしまっても、媚薬なんて忘れてしまうくらい僕が君を乱してあげるから」
きしりと軋む寝台と、耳元で囁かれた言葉につま先から頭のてっぺんまでかぁっと身体が熱くなった。まるで全身の血が沸騰してしまったかのような。
わ、私たち夫婦なのでぇ、そ、そういうことになってしまってもやぶさかではないといいますか、当然の流れともいいますかぁっ! で、でもでも、ここはその、よそ様のお家ですのでそういうことは自重すべきと申しますかぁ……!
ぐるぐると頭の中にいろんなことが駆け巡る。どうしよう、どうしよう、恥ずかしい、でも嬉しい、その、私だって夫婦になりましたので、出張の間中、その、ヴィクトルとの触れ合いが少ないのは寂しいという気持ちが少しばかりあるのも事実でして——
『フェリシアさん! カズミヤ連れてきた!』
『はい、お医者の代わりもできます万能カズミヤでございます』
バァンと開かれた戸に、私とヴィクトルの視線が向く。戸の向こうにはクーヤくんとカズミヤさんがいた。なお、寝台の上には私へと覆いかぶさっているヴィクトル。
数拍の間。
クーヤくんはそっと戸を閉めた。
『カズミヤ! 人払いしろ! 今夜はこの部屋に誰も近づけるな!』
『承知!』
「わー! 待って待って待って大丈夫だから入ってクーヤくん!」
やだもう恥ずかしさがキャパオーバーして涙が出てきそう。ヴィクトルが苦笑して、よしよししながら私の身体を起こしてくれた。
『クーヤ殿、入って大丈夫です。フェリシアを診てもらえますか』
ヴィクトルが戸まで移動して、廊下にいるクーヤくんへと声をかける。クーヤくんは気まずそうな顔で部屋に入ってきた。その後ろからカズミヤさんも入ってくる。
『いや……まぁ、夫婦なんだし、そういうのは全然構わないと思うから、遠慮しなくていいんだぜ……?』
「本当にお願いなのでそういう気遣い一切不要でお願いしますぅ……!」
恥ずかしさのあまりに玄蒼国語がとんでしまったので、日本語で必死に主張する。クーヤくんはコクコクと頷きながらカズミヤさんを前に押し出した。
『さてフェリシア様。カカワトルをお召しになったとお伺いしました。今はどのような感じでしょうか』
『あ、えっと……そんな、普通と変わりません……あっ、でも少し、身体が温かい……? 胸が、ドキドキ、する……?』
カズミヤさんが私の手をとり、脈を測る。私も自分の身体の声をよく聞く。媚薬効果があると聞いていたけれど、特別身体の異変は感じ取れない。これから媚薬効果が出るのかしら。
脈を測り終えたカズミヤさんは顔を上げると、私の体温を測り出す。その後も簡単な診察をしてくれた結果。
『問題ございません。今夜は目が冴えて眠れないかと思いますが、それ以外は問題ないでしょう』
『えっ』
『はっ?』
『なんで?』
カズミヤさんの診察結果に、私、ヴィクトル、クーヤくんが三者三様の驚き方をした。待って、クーヤくんまで驚いている。
『待ってくれカズミヤ。フェリシアさんが飲んだのってカカワトルじゃなかったのか?』
『はい、カカワトルで間違いないかと。ですがカカワトルの媚薬成分は主に男性への作用が強く働く類のものでございます。具体的に言いますと、血流の促進が良くなることで男性器が——』
『カズミヤストップそれ以上は良くない気がする!』
『はい。そういうことですので、カカワトルの媚薬成分は女性に対してそれほど強い作用はございません』
カズミヤさんの断言に、一気に空気が緩んだ。私も気が抜けてぱふりと寝台に倒れてしまう。
「よ、よかったぁ……」
「フェリシア、本当に、本当に、お願いだから。今後は知らないものを簡単に口にしないで」
「肝に銘じておきます……」
場所を譲ったカズミヤさんの代わりに、ヴィクトルが真剣な表情で私を見下ろしてきた。本当に私はヴィクトルに迷惑をかけっぱなしですゆえ……。
『さて、カカワトルですが。男性が召し上がるときほどの効果はございませんが、就寝前にお召しになると気分が高揚して眠れなくなります。妃様方に好まれるのはそういった理由からでしょう』
クーヤくんの隣に戻ったカズミヤさんがさらにカカワトルについて教えてくれる。明確に言わないものの、なんとなく媚薬と言われている理由が分かって何とも言えない気持ちになってしまう。
そんな私とヴィクトルとは対照的に、クーヤくんはすっごくガラの悪い顔で舌打ちしていた。
『あのクソ野郎、そこまで知ってて仕込みやがったな……嫌がらせにもほどがある!』
『クーヤ殿。その、嫌がらせとは』
『クーヤ様は皇太子殿下にそれはそれは嫌われているのです。まぁ、クーヤ様も奴めのことは蛇蝎のごとく嫌っておりますが』
ヴィクトルが尋ねれば、クーヤくんの代わりにカズミヤさんが答えてくれた。とりあえず、皇太子殿下とクーヤくんがとてつもなく仲が悪いことは理解しました。
クーヤくんはそれまでのガラの悪い顔を引っこめると、自分の頭をがしがしと乱暴にかき混ぜた。それからいつものクーヤくんの表情に戻ると、ぺこっと頭を下げる。
「ごめん、フェリシアさん! 俺の事情に巻きこんで! さすがの俺も、国同士の交流の場であいつが嫌がらせしてくると思わなかったんだ」
「良いのよ、クーヤくん」
私は身体を起こす。
クーヤくんのせいじゃない。それにミギワ様も、本気で止めようと思ったら止めてくれたはず。たぶんミギワ様はカカワトルが女性にとってさほど強い効果がないこと分かっていたかもしれないし。媚薬云々のことがなければ美味しかったのも事実だし。
「結果として、皇太子殿下が乱入してきたあの場から逃げ出せたんだもの。良しとしましょう」
「フェリシアさん……」
情けない表情になるクーヤくんはまだまだ子どもらしい表情もできるんだと思った。でもそれも一瞬のことで、次の瞬間にはキリッとした表情になる。
『フェリシアさんもヴィクトルの兄ちゃんも、今日はゆっくり休んでくれ。寝不足になりそうだったら明日も一日休んでいてもらっていいし』
『ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます』
それだけ言って、クーヤくんはカズミヤさんを連れて部屋を出て行った。私とヴィクトルは顔を見合わせる。……媚薬の効果がほとんど影響ないと分かったものの、ちょっと気まずい。
ドキドキしながらも、私は寝支度をしようと寝台から出た。衝立の向こうで寝衣に着替えようとして。
『あ、そうだ。人払い一応しとく? さっきの続きしてもらっても良いし』
『「しなくていいです!」』
戸の向こうから聞こえたクーヤくんのお節介に、私とヴィクトルは日本語と玄蒼国語それぞれの言葉で叫び返した。





