第5話 ユーリ。これを
最初はぽつぽつと降っていた雨は、いつしかバケツをひっくり返したような大雨へと変わり、馬車の窓を乱暴に叩いている。
窓の外にひとけはない。それは夜となって暗いからなのか、雨だからなのか、ユーリにはわからなかった。
なんとはなしに嫌な予感を感じていたユーリに、ハリーは真剣な面持ちで呟く。
「ユーリ。これを」
言いながらハリーは、馬車に積んでいた外套を取り出していた。サイズは小さい。恐らくエマの分だろう。
この世界に雨傘というものは存在しないらしい。だから基本的に雨の日は外出を控えるし、それでも外出が必要な場合、多くは濡れてもいい服で出かける。
しかし濡れそぼって外出するわけにもいかない場合、特に貴族などは傘の代わりに外套を羽織る事になる。
つまりハリーは、エマを連れて外に出ると言っているのだ。
何故だという問いを顔に出したユーリに、ハリーは囁くように声を潜めた。
「雨だから見えづらくて確証はないけど、ここは屋敷に向かう場合に通る道じゃない。町の中でも倉庫ばかりの場所だ。それも、治安が良くない場所なんだ。何かの思惑を感じる」
ユーリは眠そうなエマを起こして外套を着せてやりながら、ハリーの説明に驚く。
「ロドリゲスさんが?」
「わからない。ただ、このままで居るのは危険かもしれない」
そしてハリーは、エマに真剣な顔を向ける。
「エマ。これから馬車を飛び出す。もしかしたら怖い人たちが追いかけてくるかもしれないけど、ユーリと一緒に走ってくれるかい?」
「ハリーお兄様は?」
「大丈夫、僕も後から追いかけるよ」
そう言って笑顔になり、エマの頭を撫でてから、ユーリに真剣な目を向ける。
「ユーリ。馬車の進行方向とは逆に走れば、きっと住宅の方に行けるはずだ。頼めるかい?」
「わかったけど、別々じゃなくて一緒に行く。それが条件だよ、兄さん」
ユーリは目に力を入れてそう言っていた。ハリーの話を聞いていると、ハリーが囮となってユーリ達を逃がすというように聞こえたからだ。
そんな事はとても許容できなかった。絶対に全員無事で帰る。それだけはユーリにとって譲る事ができない点だった。
しばし睨み合うような形となったユーリとハリー。
そこに、エマが小さな声で「お兄様……」と呟くのが聞こえた。
エマはただ事ではない雰囲気を察して静かにしている。いや、怯えているのだろう。少し震えているのが分かる。
折れたのは、ハリーだった。
「わかってるよ。みんなで一緒に帰ろう。ただ、僕は戦闘訓練を受けているし、少しなら魔法も使える。いざという時は僕が戦うから、ユーリとエマは素直に逃げてくれるかな?」
それはつまり、戦力外通告である。
優しい言葉で足手まといだと言っているに等しい。
(こんな事なら、もっとまじめに戦闘訓練を受けておけばよかったな……)
ユーリは胸中でそんな後悔をしたが、だからといって何かが変わるわけでもない。
忸怩たる思いを飲み込んで頷くと、ハリーはニコリと笑ってユーリの頭を撫でた。
「ありがとう。大丈夫、僕の心配し過ぎかもしれないしね」
ハリーの手は、震えていた。きっと今、ユーリとエマの二人の命を背負っている気持ちになっているのかもしれない。
なんとか力になろうと、気持ちだけは前を向くユーリ。そして、全員が外套を着て準備が完了した頃、その時は訪れた。
「今だ! 行くよ! ユーリ!」
「わかった!」
ハリーが勢いよく馬車の扉を開けると、ユーリはエマを抱いて路面に飛び込むように飛び出した。
町の中を走っている馬車の速度はそこまで出ていなかったものの、傍から見るとそれなりに後方に放り出されたかのように映った事だろう。
「がふっ!」
エマの体重と自分の体重を受け止めた背中は信じられないほどの衝撃を肺に伝え、体内にあった全ての空気を吐き出した。
続いてハリーも馬車からふわりと飛び降りてくる。情けなく転がり落ちたユーリに比べ、美しい受け身をとって降りたハリーの身体能力は、確かなものなのだろう。
「大丈夫? 走れるかユーリ」
「ああ、大丈夫、全然余裕!」
気合で立ち上がったユーリは、エマの手を引き、駆け出そうとした。
しかし。
「困るなお坊ちゃん。予定にない行動されると面倒になる」
ユーリ達の前に立ち塞がったのは、3人ほどの黒ずくめの男達だった。
彼らは斧やナイフを構え、とても友好的とは思えなかった。
思わず立ち止まってしまったユーリだが、ハリーの声が現実に引き戻す。
「走れ! ユーリ!」
はっとしたユーリは、エマの手を強く握って走り出す。
「わかった!」
しかし、それを黙って見ている男達ではなかった。
「おっとぉ! 逃がすかよ!」
斧を右手に持った男が、反対の手でユーリを捕まえようとする。
元々体の弱いユーリにそれを躱す事などできないように見えた。
「させない!」
ハリーの声と同時に衝撃波が男を襲い、悲鳴を上げながら男が吹き飛ぶ。
「おい! こいつウィザードか!?」
「魔法陣も魔法の言葉もなかった! こいつはソーサラーだ! 気を付けろ!」
残り二人となった男達は、衝撃波を放ったハリーを警戒するようにジリジリと間合いを測る。
ソーサラーやウィザードというのは、この世界で魔法使いという事だった。
ソーサラーは先天的に魔法が使える人間の事を指す。何故先天的に使えるのかというと、血筋だと言われていた。
曰く、神の血筋だとか、曰くドラゴンの血筋なのだとか。
そしてウィザードは元々魔法の才能は無いが、魔法陣、儀式、魔道具、巻物などを使用して、つまり自分の才能ではなく後天的に得た技術によって魔法を行使する者達の事である。
まるで洋ゲーのRPGのような設定だとユーリは馬鹿にしていたのだが、ここにきてそれがこんなにも頼もしいと思った事はなかった。
ハーシェル家は、帝国との戦争の頃も優れたソーサラーを輩出する家として、有名だったのである。
といってユーリは魔法を使えないが、ハリーは天才だと称される程の人物だ。
そして、ハリーが天才だと称されるのは、魔法だけではない。
「クソガキがあ!」
黒ずくめの男が力任せに斧を振り下ろすのを、まるで宙に舞う紙が風に押されるかのような滑らかな動きでハリーは躱す。
そして目にも止まらぬスピードでその男の鳩尾に拳を入れた。
堪らず蹲る男の頭に、ハリーは踵を落として気絶させ、そのままその場を軽いステップで移動する。
先程までハリーの顔のあった場所には、最後の黒ずくめが手にしたナイフの軌跡が通っていた。
(すごい! さすが兄さんだ!)
まさに格闘ゲームさながらの攻防だが、実力に差があり過ぎた。プロゲーマーと素人くらいの差があるように見える。
見やれば、馬車の方ではロドリゲスが信じられないという顔をしているのが見えた。
そして、最後の黒ずくめの男は。
「ぐはあ!」
ハリーの手から放たれた衝撃波をまともに受け、錐揉みながら路上にあった樽に突っ込んでいた。
余程の衝撃だったのだろう。樽は半壊し、木くずが周りに飛び散っている。
「どういう事なのかな、ロドリゲス」
「ひっ!」
ハリーの声は、普段の優しいものではなかった。血中を巡る魔力の反応で目をギラギラと輝かせ、その顔も普段の穏やかなものではない。
その目を向けられたわけでもないユーリですら怖いと感じるのだ。睨まれたロドリゲスはその非ではないだろう。
「ハ、ハリー様! 少し落ち着きましょう! 私は騙されて……いや、脅されていただけなのです!」
「そうか。わかった。でも」
一歩、一歩、ハリーはロドリゲスに近づいていく。
「君の事を信用できない。ぶちのめして連れて行くから、我慢して欲しい」
「ひぃぃ!」
ハリーのあまりの迫力に、後退ろうとしたロドリゲスは滑ってしりもちをつく。
ゲームでよく見かけた展開だ。ユーリは人知れず興奮していた。
悪者がヒーローに成敗されるシーンは大好きだった。ロドリゲスの典型的な子悪党然とした姿を見ていると、本当にイライラする。
そして、それを爽快に倒すヒーロー。兄は、本当に誇らしいと思えたのだ。
だからだろう、ユーリは人知れず胸中で声援を送っていた。
(いけ! やっちまえ兄さん!)
「それは困るな、お貴族様」
「え?」
突然背後から現れた声に、思わず漏れた疑問符は、ユーリのものだった。
何故なら、その声が近すぎたからだ。寧ろ、耳元から聞こえたのである。
そして、喉元には鉄の何かが触れるか触れないかくらいの距離で存在している。
「遅いぞ! 何をしていた!」
「無茶言うなよ。こっちは拠点で待っていたんだ。おかしいと思って3人ほど向かわせた機転を褒めて欲しいくらいなんだがな」
野太い声は相変わらず耳元から聞こえているが、振り返ってその顔を見る事は敵わなかった。
何故なら、首に当てられているのが、その男が手にしたナイフだという事がわかったからだ。
見やると、ハリーが雨に濡れながら狂おしい顔をしている。
(まずい……俺が人質になっているから動けないのか……! なら!)
「兄さん! 俺の事はかまわ……」
構わないから、こいつらを倒してくれ。その言葉は最後まで言えなかった。
何故なら、隣でエマの首筋にもナイフを翳されているのが見えてしまったからだ。
どうして、ハリーを置いてエマと二人で逃げなかったのだろう。
自分に出来る事なんて何一つとしてないのに、どうして。
その結果、こうして兄の足を引っ張る事しかできないなんて。
いや、逃げたとしても結局捕まっていたかもしれない。
弱い自分には、何も守る事なんてできないのかもしれない。
そんな思いが、心の中でぐるぐると回る。
もし、自分がもっと強ければ。もし、馬車の中で、もっと早く異変に気付いていれば。もし、この町に来なければ。
もしあの時。そんな事を思っても、全てがもう遅い。
先程までの興奮に、後悔や悲観、そんな思いがゆっくりとのしかかってユーリの心を冷たいものに変えていくのがわかった。
降り続く雨が初めて冷たいものだと知ったかのように、ブルリと身を震わせる。
「そこのソーサラー! 抵抗するな! おいお前ら! あいつを縛って連れていけ!」
ハリーは腕を縛られ、これから何をされるのか、自分たちはどうなってしまうのか。そんな事を考えるユーリの心を折るかのように、雨は一層強くなった。




