第2話 お湯はそこに置いときな!
「お湯はそこに置いときな! ハサミはちゃんと用意したかい!?」
産婆のコルザは、天蓋付きベッドの傍で喚く。
その喚きを受けて右往左往しているのは、ハーシェル家のメイドたちだった。
ハーシェル家とは、トラレイス帝国の貴族である。
貴族というと領地を持っており、それを治める領主という側面があるが、子爵であるハーシェル家は2つの小さな村と、小さな町1つを治める貧乏領主であった。
「奥様! 頑張りな! リズムだよリズム! リズムでイキみな!」
産婆のコルザに奥様と呼ばれた女は、オリビア・ハーシェル。彼女はハーシェル家の当主であり、今は出産の為に顔中に皺を作り、汗を流している。
「おい男ども! 入ってくるな! あんた達に出来る事なんて何一つとしてないよ!」
産婆が怒鳴った先には、少し開いた扉があった。その隙間から、二人の人物が覗いていたのである。
一人はダルケン・ハーシェル。元は隣の領地であるオブリ家の三男であった。長女だったオリビアは家督を継いだが、三男だったダルケンはハーシェル家に婿入りしたのである。
所謂、政略結婚というものだった。婚約したのもお互いがまだ物心がつく前だったくらいである。
といって夫婦仲は良く、今もダルケンは妻を心配して気が気でない様子だ。
もう一人、部屋の様子を伺っているのは、オリビアの主治医だった。
しかし、今この男が控えているのは、オリビアのためだけにというわけではない。
出産では大量の出血が伴い、難産となると体力も奪っていくため、母体にも負担をかけるが、生まれてくる子供への負担も大きいのである。
死産は珍しい事ではなく、無事生まれたとしても、生後1歳までの間に命を落とす事が多々あるのが現実だった。
だからこの国の貴族の出産は、産後1年の間は医者が頻繁に乳幼児と母親を診察するのが通例である。
しかし。
「おら! さっさと扉を閉めな! 気が散るだろうが!」
コルザは夫と医者のささやかな心配の眼差しを、決して許さなかった。
これはコルザの我儘や思想というよりは、出産を頑張っている人物への配慮なのである。
誰だって、苦しんで顔を歪めている姿や、あられもない場所を好んで見られたいとは思わないだろう。だから、それを最低限の人間にしか見せないという、コルザなりの気配りなのである。
そして、事態は動き出す。
「おいおい、頭出てきたよ! メイド共! タオルをお湯で濡らして待機! 冷めてちゃ駄目だからね! 温度確認しなよ! ああ、それとあんた! ハサミはどこだい! 私が取り出すからあんたはハサミを持ってな!」
腕まくりをして指示を飛ばしたコルザ。数人のメイドはその声に素直に従い、出産の激闘は、まだ続く様だった。
〇〇〇
彼、理人は、暗くて暖かい場所に居た。
いや、実際は暗いのか明るいのかわからない。単に目を閉じているだけかもしれないし、その辺りがわからない。
というのは、全身の感覚が無いのだ。今、自分が立っているのか座っているのか、はたまた寝ているのかすらわからなかった。
いや、と思い直す。確かゲームをやっていた筈だった。エナジードリンクを飲んだ事が原因かどうかはわからないが、体調が悪くなってしまってその後の事が思い出せない。もしかすると、寝ずにゲームをしていたので、堪らずに眠ってしまったのかもしれない。
(だとするとこれは夢? 真っ暗で動けない夢? 金縛り的な?)
胸中で独り言ちながら、心の中では顎に手を当てて首を傾げていた。
(けど、なんだか心地いい。ああ俺、睡眠不足だったんだなあ。ずっとこうして寝ていたい)
そんな事を思うのもつかの間、何やら圧迫感がして突然苦しくなる。
先程まではまるでぬるま湯につかっている様に心地よかったのだが、それが今や締め付けられるような息苦しさを感じるのである。
(な、なんだ? 目が覚める? いや、どこかに押し出される?)
締め付ける力は足元で強く発生し、頭が狭い出口を無理やり通ろうとしているとでもいうような感覚がした。
思わず顔を顰める理人だが、その力は抗う事が出来ず、そして。
暗い部屋のカーテンをいきなり開けたような眩しさに、更に顔を顰める事になる。目を開ける事も敵わない、瞼の裏を光が焼いて、目を閉じているのに痛みすら伴う暴力的な光に、思わず手で顔を庇おうとする。
だが、何者かがそれを許さない。熱い何かが体中を撫でまわし、顔をごしごしと拭くように擦ってくる。
理人はやめてくれ、と言おうと口を開いたが、「アア、アア」としか発音ができなかった。
まるで、喉が自分のものじゃないみたいだ。うまく声を出す事ができないし、そう言えば、体の感覚がおかしい。
そろそろ目が慣れてきて、恐る恐る目を開くと、そこには目付きの鋭い、しわしわの巨大な老婆の顔があった。
「ヒッ!」
思わず怖くて声が出た。
「奥様! 男の子だよ! まだ泣かないか! ほら! 早く泣きな! ぼうず!」
しかし老婆はそんな事はお構いなしに、頭蓋でわんわん響く大声を上げながら何かを言っている。
そして視界の中に、大きな女性の顔が目に入った。
その顔は優しそうな目をした美人で、理人よりも年上なのだろうなという印象だ。
しかし、そんな事よりも。
理人は、怖かった。
何が怖いのかはわからない。
けれど、突然の光、大きな声。それらひとつひとつ全てが怖かった。
やがてその恐怖は体の底から、一つの衝動となって体を震わせる。
「アアアアアアアアア!! アアアアアアアア!!」
「やっと泣いたよこの子は! 心配させるんじゃないよ!」
「アアアアアアアアアアアア!!」
「ああ、私の息子……」
優しそうな顔をした女が安堵の声を吐き出したと同時に、バタンという大きな音と、男の大音声が理人の頭蓋を揺する。
「オリビア! 大丈夫か!」
言いながら駆け寄ってくる男。しかし、もう一人の男がそれを止めた。
「ああ、旦那様、少しお待ちを。奥様、ご気分はどうですか?」
しかし、突然始まった診察を押しのけて、大音声で大丈夫かと叫んだ男が迫ってきた。
「ああ……! 良かった! 無事だ! 君に何かがあったら私はどうすればと……」
「ダルケン、大げさですよ」
「大袈裟なものか! しかし、男の子か、名前は決めているのかい?」
「ええ、この子の名前は」
そう言って、優しそうな女が微笑みかけてきた。
「あなたの名前は、ユーリ。生まれて来てくれて、ありがとう」
大声で泣き続ける子供。ユーリと名付けられた彼の脳裏では、「ああ、俺、転生したのか」と冷たく現実を受け止めていたのだった。




