第九話 思い出の外側で会う
八度目に会う約束は、榊の提案で決まった。
「少し遠出しませんか」
届いたメッセージを見たとき、紬はしばらく画面を見つめていた。
遠出、という言葉に、胸が少しだけざわつく。
食事でも、お茶でもなく、
少しだけ歩くでもない。
半日ほど一緒に過ごすことを前提にした誘い方だった。
それは今までより、少しだけ先の距離に思えた。
迷わなかったわけではない。
でも、断りたいとは思わなかった。
「どこに行くんですか」
そう返すと、榊からすぐに返事が来た。
「まだ決めていません。朝倉さんが嫌でなければ、静かな場所がいいかなと」
その曖昧さが、かえって榊らしかった。
自分の行きたい場所に連れていくのではなく、
相手が落ち着けるかどうかを先に考える。
紬は少し考えてから、
海の見える小さな町の名前を送った。
都心から電車で一時間ほど。
観光地として有名すぎず、
でも散歩するにはちょうどいい場所だった。
「いいですね」
「本当に?」
「はい。朝倉さんが選ぶ場所なら、たぶん間違いないので」
「それ、まだ少し危ない言い方です」
「全部わかったつもりにはなっていません」
「なら大丈夫です」
「成長を認めてもらえて安心しました」
そんなやり取りをして、
週末に会うことが決まった。
当日、待ち合わせた駅は休日らしく少し混んでいた。
紬は改札の前で榊を見つけて、
一瞬だけ足を止める。
私服の彼を見ることには、少しずつ慣れてきたはずなのに、
今日はなぜかいつもより落ち着かなかった。
たぶん、これから長い時間を一緒に過ごすとわかっているからだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今日はありがとうございます」
「こちらこそ」
並んで電車に乗る。
向かい合う席が空いていたが、
2人はなんとなく隣同士に座った。
窓の外の景色が少しずつ変わっていく。
ビルが減って、空が広くなる。
その変化を眺めながら、
紬は不思議な気持ちになっていた。
こうして電車で出かけることも、
昔はきっとあった。
でも今は、その記憶に触れないようにしながら、
まったく別の一日として隣に座っている。
思い出の外側で会おうとしているのに、
ふとした瞬間に、過去の輪郭が近づいてくる。
「眠くないですか」
榊が小さな声で言う。
「大丈夫です」
「朝、早かったので」
「榊さんこそ」
「僕も大丈夫です」
「そういうときは少し怪しいです」
「信用がないですね」
「前科がありそうなので」
「ないとは言い切れません」
そんなやり取りに、紬は少し笑う。
電車を降りると、潮の匂いがかすかにした。
駅前はこぢんまりとしていて、
観光客も地元の人も、どこかゆっくり歩いている。
海までは徒歩十分ほどだった。
商店街を抜けて、坂を下る。
視界が開けた先に、光を反射する水面が見えた。
「きれいですね」
榊が言う。
「はい」
「朝倉さん、こういう場所が好きなんですね」
「たぶん、広いからだと思います」
「広いから?」
「考えごとをしていても、少しだけ小さくなる気がするので」
「……なるほど」
榊は海を見たまま、静かにうなずいた。
「それも、朝倉さんらしいです」
「また便利な言葉を」
「今回は、ちゃんと理由も聞いた上でです」
「それなら許します」
海沿いの道をゆっくり歩く。
風は強すぎず、日差しもやわらかい。
ときどき立ち止まって景色を見たり、
気になった店先をのぞいたりしながら進む。
途中、小さな焼き菓子の店を見つけて入った。
テイクアウトしたスコーンを持って、
近くのベンチに座る。
「こういうの、好きそうです」
榊が紙袋を見ながら言う。
「またですか」
「今度は当たってますか」
「当たってます」
「よかった」
「でも、どうしてわかるんですか」
「派手すぎなくて、ちゃんとおいしいものが好きそうなので」
「……それは少し恥ずかしいです」
「外れていましたか」
「いえ、たぶん合ってます」
榊は少しだけ笑った。
その笑い方を見て、紬はふと思う。
今の彼は、前よりも人の好みを丁寧に見ている。
何を選ぶかだけでなく、
どうしてそれを選ぶのかまで知ろうとしている。
それはたぶん、
今の2人が「言わなくても」に甘えないようにしているからだ。
「榊さんは」
紬はスコーンを持ったまま言う。
「どうして今日、遠出しようと思ったんですか」
榊は少しだけ考えてから答えた。
「いつもと違う場所で会ってみたかったんです」
「違う場所」
「はい。食事とかお茶の時間も好きなんですが、
それだと話すことに意識が向きやすいので」
「それは悪いことではないですよね」
「もちろんです。でも」
そこで榊は海のほうを見る。
「同じ景色を見ている時間も、ほしいなと思って」
紬はその言葉を、静かに受け止めた。
同じ景色を見ている時間。
それはとても穏やかな言い方だった。
でも、ただ会話を重ねるだけではなく、
一緒にいることそのものを大事にしたい、という意味にも聞こえた。
「……いいですね」
「よかった」
「少し意外でした」
「どうしてですか」
「榊さん、もっと目的がはっきりしているほうが好きかと思っていました」
「昔はそうだったかもしれません」
言ってから、榊は少しだけ目を伏せる。
「……すみません」
「いえ」
また、境界線の近くに触れる。
でも今は、そのたびに前ほど息苦しくはならなかった。
昔はそうだったかもしれない。
その言葉に、紬は不思議と責める気持ちにならなかった。
変わったのだと思う。
彼も、自分も。
そして変わったからこそ、
今こうして思い出の外側で会えているのかもしれない。
昼は海の見える食堂に入った。
窓際の席で定食を食べながら、
2人はとりとめのない話をした。
最近読んだ本。
仕事で印象に残った言葉。
子どもの頃、海に来たときの記憶。
好きな季節。
苦手な天気。
「朝倉さんは、雨の日は嫌いですか」
榊が聞く。
「嫌いではないです」
「意外です」
「どうしてですか」
「晴れた日のほうが似合う気がして」
「それは褒めてますか」
「たぶん」
「曖昧ですね」
「でも、雨の日の静かさも好きそうです」
「……それは好きです」
「やっぱり」
「少し悔しいです」
「どうしてですか」
「当てられると、見透かされたみたいなので」
「見透かしたいわけではないです」
榊は少しだけ笑う。
「ちゃんと知りたいだけです」
その言葉に、紬は箸を持つ手を止めた。
ちゃんと知りたい。
最近、何度も似たようなことを言われている。
でも今日は、いつもより深く胸に残った。
海辺の町という、
思い出とは直接つながらない場所にいるからかもしれない。
過去の延長ではなく、
今の2人だけの時間だと思えるからかもしれない。
食後、少し離れた岬まで歩いた。
坂道は緩やかだったが、
上りきるころには少し息が上がる。
「大丈夫ですか」
榊が振り返る。
「大丈夫です」
「無理してませんか」
「してないです」
「本当ですか」
「本当です」
「ならよかったです」
そのやり取りが、紬には少しおかしかった。
心配の仕方が、前よりずっと丁寧だと思う。
岬の先には小さな展望台があった。
手すりにもたれて海を見る。
遠くに白い船がゆっくり進んでいく。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
沈黙なのに、満ちている。
そんな時間だった。
「朝倉さん」
榊が静かに言う。
「はい」
「今日、来てよかったです」
「……私もです」
「こういう時間が、思っていたより好きだなと思いました」
「こういう時間?」
「何かを急いで決めなくていい時間です」
紬はその言葉に、そっと息をつく。
急いで決めなくていい。
それは今の2人にとって、とても大事なことだった。
関係の名前も、
気持ちの結論も、
まだ急いで決めなくていい。
でも、ただ曖昧なままでいたいわけではない。
ちゃんと知って、
ちゃんと確かめて、
その先で選びたい。
「私も、そういうの好きです」
「よかった」
「でも」
紬は少し迷ってから言う。
「好きだからこそ、少し怖いです」
「怖い?」
「心地よくなりすぎると、また省略したくなるかもしれないので」
榊は黙って聞いていた。
「言わなくてもいいか、とか。
今さら聞かなくてもいいか、とか。
そういうふうに、またなってしまったら嫌だなって」
言い終えたあと、
風が少しだけ強く吹いた。
榊は海を見たまま、静かに言う。
「僕もです」
「……」
「心地いいと、油断するので」
「はい」
「でも、今日は逆に思いました」
「何をですか」
「心地いいからこそ、ちゃんとしたいなと」
紬は彼を見る。
榊は少しだけ照れたように笑った。
「うまく言えませんが」
「いえ」
「雑にしたくないです」
「……はい」
「朝倉さんとのことを」
その一言に、
紬の胸の奥が大きく鳴った。
朝倉さんとのこと。
それはまだ、恋だとも、やり直したいとも言っていない。
でも、ただの再会相手に向ける言葉ではなかった。
紬はすぐには返事ができなかった。
代わりに、手すりに置いた指先に少しだけ力を入れる。
「私も」
やっとのことで、それだけ言う。
榊がこちらを見る。
「雑にしたくないです」
紬は続ける。
「今の時間も、これからのことも」
榊は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
帰りの電車は、行きより静かだった。
疲れているわけではない。
むしろ、満たされていた。
たくさん話した。
たくさん歩いた。
そして、思っていたよりずっと自然に一日を一緒に過ごせた。
思い出の場所ではない。
過去をなぞるための時間でもない。
それなのに、こんなにも大事に思える。
それが紬には、少しだけ救いだった。
駅に着いて別れるとき、
榊はいつもより少しだけゆっくり言った。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、こういうふうに出かけたいです」
「……はい」
「もしよければ」
「私も、また行きたいです」
その返事に、榊は静かに笑った。
電車を降りて家に向かう途中、
スマートフォンが震える。
「今日はありがとうございました。思い出のない場所で、こんなに大事な時間になるんだと思いました」
紬は立ち止まって、その文面を見つめた。
思い出のない場所。
こんなに大事な時間。
それはたぶん、
過去に頼らなくても、
今の2人だけで積み重ねられるものがある、ということだった。
紬はゆっくり返信を打つ。
「こちらこそありがとうございました。今日の景色、ちゃんと覚えていたいです」
送信してから、
少しだけ胸が熱くなる。
覚えていたい。
それは思い出を作ることを、
自分がもう恐れていないということかもしれなかった。
過去の外側で会う。
そのはずだった。
でも今日、2人はたしかに、
新しい記憶の内側に立ち始めていた。




