第十話 近づくほど、失うのが怖い
海辺の町へ出かけた日から、二人のやり取りは少しだけ変わった。
劇的に何かが変わったわけではない。
毎日長文のメッセージを送り合うようになったわけでも、
急に距離が縮まったような言葉を交わすようになったわけでもない。
それでも、確かに変わったと思う。
「お疲れさまです」
「今日は少し涼しいですね」
「この前話していた本、見つけました」
「帰り道、雨に降られませんでしたか」
そんな短いやり取りが、
前より少しだけ自然に続くようになった。
用事があるから連絡する、ではなく、
ふと思い出したから言葉を送る。
そのことが、紬にはまだ少し不思議だった。
以前なら、こんなふうに相手の一日を思い浮かべること自体が、
もっと重たく感じられたかもしれない。
でも今は違う。
榊から届く簡潔な文面を見ていると、
その向こうにある生活の温度が、少しだけ想像できる。
朝、仕事へ向かう時間。
昼の忙しさ。
夜、ようやく息をつく瞬間。
それがうれしいと思う。
うれしい。
そう思うたびに、紬は少しだけ怖くなる。
近づいているのだ、とわかるからだ。
週の半ば、榊から
「もし今週末、お時間があれば」
とメッセージが届いた。
紬は画面を見つめたまま、すぐには返事ができなかった。
会いたくないわけではない。
むしろ、会いたいと思っている。
そのことはもう、認めるしかなかった。
けれど、会うことが自然になっていくほど、
胸の奥に小さな不安が積もっていく。
このまままた、
会うのが当たり前になったらどうなるのだろう。
連絡を待つことが当たり前になって、
隣にいることが当たり前になって、
相手のやさしさに慣れてしまったら。
今みたいに、ひとつひとつの言葉をちゃんと受け取れるだろうか。
今みたいに、聞くことや伝えることを省略せずにいられるだろうか。
それともまた、
わかっているつもりになって、
大丈夫なふりをして、
気づいたときには何かがこぼれているのだろうか。
紬は一度スマートフォンを伏せて、
深く息をついた。
少ししてから、
「大丈夫です」
とだけ返す。
すぐに、
「ありがとうございます。無理のない場所にしましょう」
と返ってきた。
無理のない場所にしましょう。
その一文に、紬は少しだけ目を閉じる。
こういうところだ、と思う。
今の榊は、前よりずっと丁寧だ。
自分の会いたい気持ちより先に、
相手が無理をしていないかを確かめる。
それがうれしい。
でも、そのうれしさが積み重なるほど、
失うことが怖くなる。
週末、二人は駅近くの小さなギャラリーに併設されたカフェで会った。
写真展を見たあと、そのまま喫茶スペースに入る。
白い壁と木の椅子だけの静かな店で、
窓からやわらかい午後の光が差し込んでいた。
「今日はありがとうございます」
榊がコーヒーを前に言う。
「こちらこそ」
「写真展、どうでしたか」
「思っていたより静かでよかったです」
「静かで、ですか」
「派手にきれいな写真より、少し余白があるほうが好きなので」
「朝倉さんらしいですね」
「また便利な言葉を使ってます」
「今回はかなり慎重に使っています」
「本当ですか」
「本当です。乱用しないように気をつけています」
紬は少し笑った。
こういう軽いやり取りが、前よりずっと自然になっている。
自然になっているからこそ、
ふとした瞬間に怖くなる。
榊がカップに口をつける仕草。
何かを考えるときに少し視線を落とす癖。
会話の合間に生まれる沈黙の温度。
そういうものが、
少しずつ自分の中で“馴染んで”いくのがわかる。
馴染むことは、本来なら安心のはずだ。
でも紬にとっては、
それがそのまま警戒にもつながっていた。
「朝倉さん?」
呼ばれて、紬ははっとする。
「すみません」
「いえ。少し疲れてますか」
「大丈夫です」
「本当ですか」
「……本当です」
榊はすぐには何も言わなかった。
ただ、紬の顔を静かに見ている。
その視線に、紬は落ち着かなくなる。
見抜かれたくないわけではない。
でも、見抜かれたら困る気持ちがある。
「何か、ありましたか」
榊の声は低く、やわらかかった。
問い詰める響きではない。
答えたくなければ、答えなくてもいいとわかる聞き方だった。
それでも紬は、すぐには言葉を出せなかった。
何をどう言えばいいのかわからない。
会うのがうれしいほど怖い、なんて。
やさしくされるほど不安になる、なんて。
そんなのは、あまりにも勝手で、面倒な感情に思えた。
「……何でもないです」
結局、そう言ってしまう。
言った瞬間、自分で少しだけ苦くなる。
何でもないわけがない。
こういうところだ、とも思う。
榊は一瞬だけ目を伏せた。
けれど、無理に追わなかった。
「そうですか」
「はい」
「なら、よかったです」
よかったです、という言葉が、
今日は少しだけ遠く聞こえた。
会話はそのあとも続いた。
写真のこと。
最近読んだ本のこと。
仕事で少し忙しい時期に入ること。
季節が変わり始めていること。
どれも穏やかで、
どれも心地よかった。
なのに紬は、
自分の中に薄い膜が一枚あるような感覚を拭えなかった。
ちゃんと笑っている。
ちゃんと返事もしている。
でも、どこかで一歩引いている自分がいる。
帰り道、駅までの短い道を並んで歩く。
夕方の風は少し冷たくて、
人通りも昼より落ち着いていた。
「今日は、少し静かでしたね」
榊が言った。
責める言い方ではなかった。
ただ、事実をそのまま置くような声だった。
紬は少しだけ視線を落とす。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「でも」
「何か考えごとをしていたなら、それでもいいので」
「……」
「ただ、もし僕に関係あることなら」
そこで榊は少しだけ言葉を選ぶ。
「いつか聞かせてもらえたらうれしいです」
紬は足を止めそうになるのをこらえた。
いつか聞かせてもらえたらうれしい。
その言い方が、あまりにも今の榊らしかった。
急かさない。
でも、知りたい気持ちはちゃんと伝える。
相手の沈黙を放置するのではなく、
無理のない形で手を伸ばしてくる。
「……はい」
やっとそれだけ返す。
改札前で別れたあと、
紬は電車の窓に映る自分の顔をぼんやり見ていた。
今日の自分は、たぶん少しひどかった。
榊はきっと気づいていた。
それでも、困らせないように聞いてくれた。
そのやさしさに救われる。
同時に、そのやさしさに甘えてしまいそうで怖い。
家に着いてしばらくしてから、
スマートフォンが震えた。
「今日はありがとうございました。少し気になっています。無理にとは言いませんが、何かあればいつでも言ってください」
紬はその文面を何度も読み返した。
少し気になっています。
何かあればいつでも言ってください。
短いのに、ちゃんと届く言葉だった。
前なら、こんなふうに言ってもらえただろうか。
あるいは、自分はこんなふうに受け取れただろうか。
わからない。
でも今は、その言葉がまっすぐ胸に落ちてくる。
紬はすぐには返信できなかった。
画面を見つめたまま、
指先だけが少し迷う。
言うべきだろうか。
近づくのが怖いと。
うれしいのに、不安になると。
また大切になっていくのが、少し怖いのだと。
けれど、まだそこまでは書けなかった。
代わりに、
「今日はありがとうございました。少し考えすぎていただけです。気にかけてくださって、うれしかったです」
と送る。
送信したあと、
それが本当であり、同時に足りないこともわかっていた。
少し考えすぎていただけ。
そんな軽いものではない。
でも、嘘でもない。
しばらくして、
「ならよかったです。でも、考えすぎる日もありますよね」
と返ってくる。
その一文に、紬は小さく息をついた。
否定しない。
決めつけない。
軽く扱わない。
そういうところに、
今の榊の誠実さがある。
だからこそ、怖い。
こんなふうに少しずつ、
相手の言葉が自分の中に居場所を持っていく。
こんなふうに少しずつ、
会うことも、話すことも、気にかけられることも、
特別ではなく大切なものになっていく。
それがうれしい。
でも、うれしいだけでは済まない。
大切になればなるほど、
失ったときの痛みも大きくなると知っているからだ。
ベッドに入ってからも、
紬はしばらく眠れなかった。
暗い部屋の中で、
今日の榊の声を思い出す。
「もし僕に関係あることなら、いつか聞かせてもらえたらうれしいです」
その言葉は、やさしいのに逃げ場がなかった。
逃げ場がないというより、
逃げなくてもいい場所を作られてしまった、というほうが近い。
それがありがたくて、
少しだけ苦しい。
近づくほど、失うのが怖い。
そんな当たり前のことを、
今さら思い知るなんて少しおかしい。
でもたぶん、
今の紬にとって榊は、
もう「懐かしい人」だけではなくなっている。
だから怖い。
だから、言えない。
でも、たぶんこのままではいられない。
スマートフォンの画面には、
最後のやり取りがまだ残っていた。
紬はそれを見つめながら、
小さく目を閉じる。
次に会うときは、
もう少しだけちゃんと話せるだろうか。
そう思う自分がいること自体、
もう十分に答えなのかもしれなかった。




