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第十一話 名前のない関係

その日、紬は榊と駅前の複合施設で待ち合わせをしていた。


大きな目的があるわけではない。

新しく入った書店を見て、少し遅めの昼を食べて、

時間があれば上の階の生活雑貨の店ものぞこうか、

という程度の約束だった。


以前なら、こういう曖昧な予定は少し落ち着かなかったかもしれない。

何をするのか、どこへ行くのか、

ある程度決まっていたほうが安心できた。


でも今は、

決めすぎていない時間のほうが、

かえって自然に感じられることもある。


それはたぶん、

相手が榊だからだ。


そう思ってしまったあとで、

紬は小さく息をついた。


待ち合わせ場所に現れた榊は、

紬の姿を見つけるといつものように少しだけ表情をやわらげた。


「お待たせしました」

「いえ、私も今来たところです」

「その言い方、だいたい先に来てる人が使いますよね」

「榊さんもよく使いそうです」

「否定はしません」


そんなやり取りをしながら並んで歩く。

休日の施設内は人が多く、

二人は自然と少し近い距離になる。


書店では新刊台を見て、

気になった本を手に取って、

短く感想を言い合った。

昼は窓際の席で軽いランチを食べた。

どれも特別なことではない。

でも、特別ではない時間が、

少しずつ大切になっていくのを紬は感じていた。


食後、店を出てエスカレーターのほうへ向かっていたときだった。


「朝倉?」


不意に名前を呼ばれて、紬は足を止めた。


振り向くと、少し離れたところに大学時代の知人が立っていた。

同じゼミだった真帆だ。

卒業してから何度か連絡を取ったことはあるが、

こうして偶然会うのはかなり久しぶりだった。


「真帆」

「やっぱり朝倉だ。久しぶり」

「久しぶり。びっくりした」

「ほんとに。全然変わってないね」


真帆はそう言って笑い、

それから自然な流れで紬の隣に立つ榊へ視線を向けた。


その一瞬で、紬の胸の奥が小さく強張る。


「え、もしかして」


真帆が少し声をひそめるようにして笑う。


「彼氏?」


あまりにも軽く、あまりにもよくある調子で投げられた言葉だった。

悪気などまったくない。

ただの世間話の延長だ。


それなのに、紬はすぐに答えられなかった。


「……」


否定すればいいはずだった。

違います、と。

知り合いです、と。

そう言えば済む。


でも、その言葉が喉のところで止まる。


知り合い。

それは間違いではない。

けれど、あまりにも足りない気がした。


友人。

それも違う気がする。

少なくとも、普通の意味では。


では何なのかと問われると、

うまく言える言葉がない。


その沈黙を、真帆は別の意味に受け取ったらしい。

「あ、ごめん、聞き方が雑だった」と少し慌てたように笑う。


そのとき榊が、穏やかな声で言った。


「はじめまして。榊です」


それだけだった。

余計な説明も、関係を定義するような言葉もない。

ただ、紬が困っていることだけはきちんと汲み取った声だった。


真帆は「あ、どうも、真帆です」と軽く頭を下げ、

それから紬に向かって

「じゃあ、また今度ゆっくり」と言って去っていった。


人混みの中にその姿が消えてからも、

紬はしばらく動けなかった。


「大丈夫ですか」


榊が静かに聞く。


「……はい」

「少し驚きましたね」

「そうですね」


それ以上、榊は何も言わなかった。

その沈黙がありがたくて、

同時に少しだけ苦しかった。


エスカレーターに乗って上の階へ向かうあいだ、

紬は手すりに置いた自分の指先を見つめていた。


彼氏。

たったそれだけの言葉に、

どうしてあんなに動揺したのだろう。


違う、と言い切れなかったから。

でも、そうだとも言えなかったから。


名前がない。

今の二人の関係には、まだ名前がない。


それは今まで、

どこか心地よいことでもあった。

急いで決めなくていい。

無理に形にしなくていい。

そう思えていた。


けれど、誰かに問われた瞬間、

名前がないことは、輪郭がないことでもあるのだとわかる。


生活雑貨の店に入ってからも、

紬は少しだけ上の空だった。


榊はそんな紬の様子に気づいているはずなのに、

あえて普段通りにしてくれていた。


「これ、朝倉さん好きそうです」


シンプルなガラスの一輪挿しを手に取って言う。


「……どうしてですか」

「派手じゃないけど、ちゃんときれいなので」

「それ、前にも似たようなこと言ってました」

「言いましたか」

「言いました」

「では、僕の中でかなり一貫した印象なんだと思います」

「少し複雑です」

「外れていましたか」

「いえ、たぶん合ってます」


紬はそう答えて、少しだけ笑った。

榊も小さく笑う。


そのやり取りに救われる。

でも、完全には戻れない。


店を出て、施設の外に出るころには、

空が少しだけ曇り始めていた。

風も昼より冷たくなっている。


「少し歩きますか」

と榊が言う。


紬はうなずいた。


駅前の通りを並んで歩く。

人通りは多いのに、

二人のあいだには静かな空気が流れていた。


しばらくして、榊が口を開く。


「さっきのことですが」


紬は少しだけ肩に力が入る。


「はい」

「困らせてしまったなら、すみません」

「え」

「僕が一緒にいたことで、答えにくくなったのかと思って」


その言い方に、紬は思わず顔を上げた。


自分が困ったことを、

榊は自分のせいかもしれないと思っている。

そういうところが、今の彼らしいと思う。


「違います」

紬は少し強く言った。

「榊さんのせいじゃないです」

「……ならよかったです」

「ただ」

そこで言葉が止まる。


ただ、何なのか。

何をどう言えばいいのか。


榊は急かさず待っていた。


紬はゆっくり息を吸う。


「うまく言えないんですけど」

「はい」

「違う、とは言いにくかったです」

「……」

「でも、そうですとも言えなくて」

「はい」

「それで、自分でも少し驚きました」


言い終えたあと、

胸の奥が少しだけ熱くなる。

こんなことを口にするつもりではなかった。

でも、言ってしまった。


榊はしばらく黙っていた。

その沈黙が長すぎないことに、紬は少し救われる。


「僕も」


やがて榊が言う。


「たぶん、同じです」


紬は足を止めそうになる。


「同じ、ですか」

「はい。違うと言い切るのも、少し違う気がしました」

「……」

「でも、何だと聞かれると、まだうまく言えません」


その言葉は、紬の中に静かに落ちてきた。


同じなのだと思う。

自分だけが困っていたわけではない。

自分だけが、名前のなさに揺れていたわけではない。


それが少しうれしくて、

少しだけ切なかった。


「名前がないですね」


気づけば、紬はそう言っていた。


榊がこちらを見る。


「そうですね」

「今の私たち」

「はい」

「それって、いいことなんでしょうか」

「どうでしょう」


榊は少し考えるように視線を落とした。


「急いで決めなくていい、という意味では、悪くない気もします」

「はい」

「でも、朝倉さんが今日みたいに困るなら、考えたほうがいいのかもしれません」

「……」

「ただ」

榊はそこで少しだけ笑った。

「名前をつけたら、急に何かがわかりやすくなるわけでもない気はします」


紬も、つられるように少し笑う。


「それはそうですね」

「はい」

「名前があっても、わからないことはありますし」

「むしろ、名前があることで、わかったつもりになることもあります」

「……それは、ありそうです」


その会話のあと、

二人のあいだに短い沈黙が落ちた。


でも、その沈黙は重くなかった。

答えが出ないことを、

今すぐ結論にしなくてもいいと、

どこかで二人とも思えていたからかもしれない。


駅の近くまで戻ってきたころ、

ぽつりと雨が落ちてきた。


「あ」


紬が空を見上げると、

榊がすぐに鞄から折りたたみ傘を取り出した。


「持ってたんですか」

「朝、少し怪しかったので」

「用意がいいですね」

「心配性なだけです」

「助かります」


傘は一本しかない。

自然と二人の距離が近くなる。


肩が触れそうで触れないくらいの近さ。

その距離に、紬はまた少しだけ息を詰める。


近い。

でも、名前はない。


そのことが不安なのか、

安心なのか、

まだ自分でもよくわからなかった。


改札前で別れるとき、

榊は傘を閉じながら言った。


「今日は、少し驚かせてしまいましたね」

「いえ」

「でも」

榊は少しだけ言いよどむ。

「僕は、朝倉さんが言ってくれたこと、うれしかったです」

「……何をですか」

「違うとは言いにくかった、と」


紬は一瞬、言葉を失う。


そんなふうに受け取られるとは思っていなかった。

恥ずかしさで、胸の奥が熱くなる。


「それは」

「もちろん、困らせたこと自体は申し訳なかったですが」

榊は静かに続ける。

「でも、朝倉さんがどう感じたかを聞けたのは、うれしかったです」


紬は視線を落とした。


聞けたのがうれしい。

最近、榊はそういう言い方をする。

答えそのものより、

相手が言葉にしてくれたことを大事にする。


それが、今の彼なのだと思う。


「……私も」

紬は小さく言う。

「同じだって聞けて、少し安心しました」

「はい」

「自分だけじゃなかったんだなって」

「僕もです」


短い会話だった。

でも、その短さの中に、

今の二人に必要なものがちゃんと入っている気がした。


電車に乗ってから、

紬は窓の外を流れる雨の筋を見ていた。


名前のない関係。


それは不安定で、

曖昧で、

少し頼りない。


でも同時に、

まだ決めつけなくていい余白でもある。


恋人でもない。

ただの知人でもない。

友人と呼ぶには、少しだけ近すぎる。


そのどれでもなく、

そのどれかに似ている。


そんな関係を、

以前の自分なら落ち着かないと思ったかもしれない。

けれど今は、

名前がないからこそ、

急がずに相手を知ろうとできている気もした。


家に着くころ、

榊からメッセージが届く。


「今日はありがとうございました。少し難しい話もできて、よかったです」


紬はその文面を見て、

静かに息をついた。


難しい話。

たしかにそうだった。

でも、嫌ではなかった。


むしろ、

こういう曖昧で答えのないことを、

曖昧なまま一緒に持てることが、

今の二人には大事なのかもしれない。


紬は少し考えてから返信する。


「こちらこそありがとうございました。名前がなくても、ちゃんと話せるのは安心します」


送信してから、

少し言いすぎたかもしれないと思った。

けれど、すぐに返事が来る。


「はい。名前より先に、大事にしたいことがある気がします」


その一文を見たとき、

紬はしばらく画面から目を離せなかった。


名前より先に、大事にしたいこと。


それが何なのか、

まだはっきりとは言えない。

でも少なくとも、

今の二人にとって大切なのは、

関係を急いで定義することではなく、

その中でどう向き合うかを確かめることなのだろう。


雨音は、夜になっても静かに続いていた。


名前のない関係は、

不安定なものではなく、

まだ形を急がなくていい関係なのかもしれない。


そう思えたことが、

紬には少しだけ救いだった。


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