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第十二話 言わなかったほうの痛み

その日は、仕事帰りに少しだけ会う約束をしていた。


長く一緒に過ごすわけではない。

駅の近くで食事をして、

時間があれば少し歩く。

それだけの、平日の約束だった。


けれど紬は、そういう短い時間のほうが、

かえって相手の生活の中に自分が入っているようで落ち着かなくなることがある。


休日にわざわざ時間を取って会うのとは違う。

仕事のあと、疲れたままの時間に会うということは、

少なくとも「会いたい」と思われていなければ成立しない。


そう考えてしまう自分に、

紬は少しだけ困る。


待ち合わせた駅前で榊を見つけたとき、

彼はいつもより少しだけ疲れて見えた。

ネクタイを緩めたまま、

人の流れの中で紬を見つけると、

それでもやわらかく表情をほどく。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

「お待たせしました」

「いえ、私も今来たところです」

「それ、この前も聞きました」

「便利なので」

「認めるんですね」

「榊さんも使ってください」

「では今度から遠慮なく」


そんな軽いやり取りをしながら、

二人は駅近くの小さな定食屋に入った。


派手さのない店だった。

木のテーブルと、少し年季の入った椅子。

仕事帰りらしい客が静かに食事をしている。

こういう店を榊が選ぶのは、少し意外で、

でもどこか納得もできた。


「こういうお店、来るんですね」


紬が言うと、

榊はメニューを見ながら少し笑った。


「意外ですか」

「少し」

「もっと気取ったところに行きそうだと思われてました?」

「そこまでは」

「でも、少しは思ってましたよね」

「……少しだけ」

「正直で助かります」


注文を済ませて、

料理が来るまでのあいだ、

二人は仕事のことや最近の気温のことを話した。


榊は忙しい時期に入っているらしく、

ここ数日は帰りも遅かったらしい。

それでも、声に強い疲れはにじませない。

そういうところが、昔から変わらないのかもしれないと紬は思う。


変わらない。

そう思った瞬間、

それが少しだけ引っかかった。


昔から、榊はあまり弱音を見せない人だった。

大丈夫そうに見える人だった。

だからこちらも、

大丈夫なのだろうと思ってしまう。


それは、今の自分が気をつけたいと思っていることでもある。


「忙しそうですね」


紬が言うと、

榊は「少しだけ」と答えた。


「でも、こういう時期は毎年あるので」

「慣れてるんですね」

「慣れてはいます」

「慣れてると、余計に無理しそうです」

「そう見えますか」

「少し」

「朝倉さんに言われると、説得力がありますね」

「どういう意味ですか」

「ご自身も、たぶん同じなので」

「……否定しにくいです」


料理が運ばれてきて、

会話はいったん途切れた。


湯気の立つ味噌汁。

焼き魚の匂い。

白いごはん。

どれも落ち着くものばかりで、

紬は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


食べ始めてしばらくしてから、

榊がふと口を開いた。


「朝倉さんは」

「はい」

「疲れているとき、ちゃんと人に言えますか」


紬は箸を止めた。


不意打ちのような問いだった。

けれど、責める響きはない。

ただ、知りたいから聞いている声だった。


「……あまり得意ではないです」

「やっぱり」

「やっぱり、ですか」

「少しそう思っていました」

「どうしてですか」

「大丈夫そうに見せるのが上手いので」

「それは、褒められてないですね」

「はい。あまりよくない意味で言っています」


紬は少しだけ笑った。

でも、その笑いは長く続かなかった。


大丈夫そうに見せるのが上手い。

その言葉が、思ったより深く刺さったからだ。


「榊さんも、そうじゃないですか」


気づけば、そう返していた。


榊は少しだけ目を上げる。


「僕も、ですか」

「はい」

「そう見えますか」

「見えます」

「……そうかもしれません」


その認め方が、少し意外だった。

もっと軽く流されるかと思っていた。


「でも」

榊は箸を置いて、少し考えるように言う。

「昔は、今よりもっとそうだった気がします」

「昔」

「はい。言わなくても大丈夫だと思っていました」

「自分のことを、ですか」

「自分のことも、相手のことも」


その言葉に、

紬の胸の奥が静かに揺れる。


相手のことも。


それが何を指しているのか、

わからないふりはできなかった。


店の中は相変わらず静かで、

隣の席から食器の触れ合う小さな音が聞こえる。

その静けさの中で、

二人のあいだだけが少し違う温度になっていた。


「言わなくても大丈夫って」

紬はゆっくり言う。

「どういう意味ですか」


榊はすぐには答えなかった。

言葉を選んでいるのがわかる。


「……信じていた、という言い方もできると思います」

「はい」

「でも、たぶんそれだけじゃなくて」

「……」

「聞かなくてもわかるつもりでいたんだと思います」


紬は視線を落とした。


聞かなくてもわかるつもりでいた。


その言葉は、

責めるためのものではないのに、

胸の奥の古い場所に触れてくる。


昔の二人は、たしかにそうだったのかもしれない。

長く一緒にいたぶん、

言葉にしなくても伝わることが増えていった。

それ自体は、悪いことではなかったはずだ。


でも、その便利さに甘えた。

確認することをやめた。

聞くことを省いた。

言うことも減った。


その積み重ねが、

いつのまにか見えないずれになっていたのかもしれない。


「……私も」

紬は小さく言った。


榊が顔を上げる。


「私も、言わなかったです」

「朝倉さん」

「言っても仕方ないって、思ってたことがありました」

「……」

「忙しそうだから、とか」

「今言っても困らせるだけかもしれない、とか」

「そのうち落ち着いたら話せばいい、とか」

「そういうふうに、後回しにして」

紬はそこで少し息をつく。

「結局、ちゃんと言わないままにしたことが、たぶんたくさんありました」


言いながら、

自分の声が思ったより静かなことに気づく。


もっと苦しくなるかと思っていた。

でも今は、

苦しいというより、

ようやく触れられたものを確かめている感覚に近かった。


榊はしばらく何も言わなかった。

その沈黙が、紬にはありがたかった。


すぐに慰められたり、

否定されたりしたら、

たぶん今の言葉は崩れてしまった。


「……すみません」


やがて榊が言う。


紬は首を振った。


「謝らないでください」

「でも」

「榊さんだけのことじゃないです」

「はい」

「私も、たぶん同じだったので」


榊は静かにうなずいた。


「悪意があったわけじゃないんですよね」

紬は自分でも驚くほど穏やかな声で言った。

「たぶん」

「はい」

「ただ、言わなくても大丈夫だと思って」

「……」

「聞かなくても平気だと思って」

「そうですね」

「それで、少しずつ、ずれていった」


榊はその言葉を否定しなかった。


「優しくなかったわけじゃないんだと思います」

榊が低い声で言う。

「でも、丁寧ではなかったのかもしれません」

「……はい」


優しくなかったわけじゃない。

でも、丁寧ではなかった。


その言葉は、

紬の中にまっすぐ落ちていった。


たしかにそうだったのだと思う。

思いやりがなかったわけではない。

大事に思っていなかったわけでもない。

ただ、その大事さに甘えて、

確かめることを怠った。


近いからこそ、

省略してしまった。


それが痛かったのだ。


食事を終えて店を出たあと、

二人は駅まで遠回りするように少し歩いた。


夜の空気はひんやりしていて、

昼間よりもずっと静かだった。

車の音が遠くを流れていく。


「今日みたいな話」

榊が言う。

「してよかったのか、少し自信がありません」

「どうしてですか」

「朝倉さんに、余計なことを思い出させたかもしれないので」

「……思い出しました」

「すみません」

「でも」

紬は少しだけ笑う。

「嫌ではなかったです」

「本当ですか」

「はい」

「それなら、よかったです」


その“よかった”は、

前より少しだけ慎重に聞こえた。


簡単に安心してはいけないと、

榊自身もわかっているような声だった。


「私」

紬は歩きながら言う。

「前は、言わないほうがやさしいこともあると思ってました」

「はい」

「でも、言わないことで勝手に終わってしまうこともあるんですね」

「……ありますね」

「それが、たぶん一番よくなかったんだと思います」


榊はしばらく黙っていた。

それから、静かに言う。


「今なら」

「……」

「今なら、ちゃんと聞けた気がします」


紬は足元を見たまま、

すぐには返事ができなかった。


今なら、ちゃんと聞けた。


その言葉はやさしい。

でも同時に、

どうしようもなく遅い言葉でもある。


もしあの頃、

本当にそうできていたら。

もし自分も、

ちゃんと言えていたら。


そんな考えが一瞬よぎる。

けれど、すぐに打ち消す。


今さら仮定を重ねても仕方がない。

大事なのは、

今こうして言葉にできていることだ。


「……私も」

紬はやっと言った。

「今なら、少しは言えたかもしれません」


榊は何も言わなかった。

ただ、その沈黙は遠くなかった。


駅の明かりが見えてくる。

もうすぐ別れる距離だ。


「言わなかったことって」

紬は小さく言う。

「言ったほうの痛みより、あとから残ることがあるんですね」

「はい」

「今日、少しわかりました」


榊はゆっくりとうなずいた。


「僕もです」


改札前で別れるとき、

二人はいつもより少し静かだった。

気まずいわけではない。

ただ、今日交わした言葉が、

まだそれぞれの中で沈んでいるのだとわかる静けさだった。


「今日はありがとうございました」

榊が言う。

「こちらこそ」

「……また、会えますか」

「はい」


その短いやり取りが、

紬には少しだけ救いだった。


重い話をしたあとでも、

次に会う約束が消えない。

それだけで、

今日の会話は壊すためのものではなかったのだと思える。


帰りの電車の中で、

紬は窓に映る自分の顔を見つめていた。


言わなかったこと。

聞かなかったこと。

やさしさのつもりで省いたこと。


そのどれもが、

思っていたより深く残っていた。


でも今日、

その痛みの輪郭を少しだけ言葉にできた。


それは傷を開くことではなく、

ようやく傷の場所を確かめることに近かった。


家に着いてから届いた榊のメッセージは、

いつもより短かった。


「今日はありがとうございました。話してもらえて、うれしかったです」


紬はその一文を見て、

しばらく画面を閉じられなかった。


話してもらえて、うれしかったです。


答えが出たわけではない。

何かが解決したわけでもない。

それでも、

言葉にしたこと自体を受け取ってもらえたのだと思う。


紬はゆっくりと返信を打つ。


「こちらこそありがとうございました。今日のこと、ちゃんと考えたいです」


送信してから、

胸の奥に小さな疲れと、

それに似た静かな安堵が残った。


言わなかったほうの痛みは、

たぶん簡単には消えない。


でも今はもう、

それをなかったことにはしたくなかった。


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