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第十三話 過去の輪郭

その日は、会う約束をしていたわけではなかった。


午後、仕事の合間に外へ出た紬は、

駅前の通りを歩きながら、

昼食をどこで済ませようかとぼんやり考えていた。

空は薄く曇っていて、

日差しは弱いのに、空気だけが少しぬるい。


スマートフォンが震えたのは、

ちょうど信号待ちをしているときだった。


「近くまで来ています。もしご都合が合えば、少しだけお茶でもどうですか」


榊からだった。


紬は画面を見つめる。

少しだけ、という言い方が榊らしいと思う。

忙しい平日の昼間に、

相手の予定を大きく動かさない誘い方をする。


「今、駅前です」

と返すと、

「僕もです」

とすぐに返ってきた。


その短いやり取りだけで、

なぜか少しだけ笑ってしまう。


結局、駅ビルの一階にあるカフェで落ち合うことになった。

昼時で混んではいたが、

奥のほうに二人分の席が空いていた。


「すみません、急に」

榊がトレーを置きながら言う。

「いえ。私も外に出ていたので」

「よかったです」

「榊さんこそ、こちらのほうに用事があったんですか」

「はい。打ち合わせが一件」

「お疲れさまです」

「朝倉さんも」


ほんの三十分ほどのつもりだった。

コーヒーを飲んで、

少し話して、

それぞれ仕事に戻る。

それだけの時間のはずだった。


なのに、紬は席に着いた瞬間から、

どこか落ち着かないものを感じていた。


理由はすぐにわかった。


このカフェは、

昔、榊と来たことがある場所だった。


まったく同じ店ではない。

内装も少し変わっているし、

当時とはメニューも違う。

けれど、窓際の席の並びや、

入口近くの柱の位置、

コーヒーの匂いの混ざり方が、

不意に記憶を引き寄せた。


紬はカップに手を伸ばしながら、

指先に少しだけ力を入れる。


榊も、たぶん気づいている。


そう思ったのは、

彼が一度だけ店内を見回して、

ほんのわずかに視線を止めたからだった。


でも、どちらも何も言わなかった。


「最近、少し忙しそうですね」


紬はなるべく自然な声で言う。


「そうですね。今月は少し」

「この前もそんなことを言ってました」

「言ってましたか」

「言ってました」

「では、たぶん本当に忙しいんだと思います」

「自覚が薄いですね」

「忙しいときほど、そういうものかもしれません」


そんな会話をしながらも、

紬の意識の一部はずっと別の場所にあった。


昔、ここで何を話しただろう。

どんな顔で向かい合っていただろう。

あの頃の自分は、

今よりもっと自然に笑っていただろうか。

それとも、もうその時点で何かを飲み込んでいたのだろうか。


思い出そうとすると、

輪郭だけが浮かんで、

肝心の中身はうまくつかめない。


ただ、

ここに来たことがある、という感覚だけが、

妙に生々しく残っている。


「朝倉さん」


榊の声で、紬ははっとした。


「はい」

「大丈夫ですか」

「……何がですか」

「少し、顔色が違う気がして」


紬は一瞬だけ言葉に詰まる。


大丈夫です、と言うことはできる。

でも、それではたぶん足りない。

この前、自分たちは

言わなかったことの痛みについて話したばかりだ。


それなのに、またここで

何でもないふりをするのかと思う。


「……このお店」

紬はゆっくり言った。

「前に来たことがありますよね」


榊はすぐには答えなかった。

けれど、驚いた顔はしなかった。


「はい」

と、静かに言う。

「あります」


その一言で、

店の空気が少しだけ変わった気がした。


大きな変化ではない。

でも、今まで避けていたものの輪郭が、

ようやく目の前に置かれたような感覚だった。


「入ってから、気づきました」

紬が言う。

「私もです」

「……なら、よかったです」

「よかった、ですか」

「私だけじゃなかったんだなと思って」


榊は少しだけ目を伏せて、

それから小さくうなずいた。


「僕も、同じことを思っていました」


紬はカップを持ち直す。

温度はあるのに、

指先だけが少し冷えていた。


「こういうこと、これからもあるんでしょうね」

気づけば、そんな言葉がこぼれていた。

「偶然、前に行った場所に入ったり」

「はい」

「何かを見て思い出したり」

「あると思います」

「……なかったことみたいには、できないですね」


榊はその言葉を、

すぐには受け取らなかった。

軽く肯定するのではなく、

ちゃんと重さを測るような沈黙があった。


「できないと思います」

やがて彼は言う。

「無理にそうする必要も、たぶんないです」


紬は顔を上げる。


無理にそうする必要もない。


その言葉は、思っていたよりやさしかった。

過去を忘れなくていいと言われたような気がした。


「でも」

紬は小さく笑う。

「少し困ります」

「何がですか」

「思っていたより、ちゃんと残ってるんだなってわかるので」

「……そうですね」

「もう少し、ぼんやりしてると思ってました」

「僕もです」


その“僕も”が、

今日は何度も紬を救っていた。


自分だけが引き戻されているわけではない。

自分だけが、まだ過去の輪郭に触れてしまうわけではない。

そのことが、少しだけ心を軽くする。


昼休みの終わりが近づき、

店内の人の流れも少しずつ変わっていく。

二人とも、そろそろ戻らなければならない時間だった。


けれど、立ち上がる前に、

榊が静かに言った。


「朝倉さん」

「はい」

「こういうことを、ずっと避けたままにするのは」

彼は少しだけ言葉を探す。

「たぶん、難しいですね」


紬はうなずく。


「はい」

「前のことを」

「……」

「なかったことみたいにして、今だけで会うのは」

「無理ですね」

紬は自分でも驚くほどはっきり言った。

「もう、たぶん」


榊はその返事に、

少しだけ安堵したようにも見えた。


「いつか」

彼が言う。

「ちゃんと話したいです」

「……」

「前のことを」

「はい」

「今すぐじゃなくていいので」

「……はい」


その約束は、

次の予定を決めるような軽さではなかった。

もっと静かで、

もっと重いものだった。


でも、嫌ではなかった。


むしろ紬は、

ようやくそこに向かう言葉が出たことに、

少しだけほっとしていた。


店を出て、

駅前で別れる。

昼の街は相変わらず人が多く、

信号の音や車の音が絶えず流れている。


「午後も頑張ってください」

榊が言う。

「榊さんも」

「今日は、会えてよかったです」

「……私もです」


その一言だけで、

十分だった。


仕事に戻ってからも、

紬はしばらく集中できなかった。


パソコンの画面を見ながら、

さっきの店の窓際の光を思い出す。

昔の記憶は、相変わらずはっきりしない。

でも、はっきりしないままでも、

そこに何かがあったことだけはわかる。


過去は消えていない。

消えていないからこそ、

今の自分たちの足元にも薄く影を落とす。


それを見ないふりをして進むことは、

もうできないのだろう。


夜、帰宅してから、

榊から短いメッセージが届いた。


「今日はありがとうございました。少し驚きましたが、話せてよかったです」


紬はベッドの端に腰かけたまま、

その文面を見つめる。


少し驚きましたが、話せてよかったです。


たぶん本当に、その通りなのだと思う。

驚いた。

動揺もした。

でも、黙ったままやり過ごすよりは、

ずっとよかった。


紬はしばらく考えてから、

返信を打つ。


「こちらこそありがとうございました。避けたままにはできないんだと、今日よくわかりました」


送信してから、

少しだけ胸が重くなる。

けれど、その重さは嫌なものではなかった。


逃げ道がなくなった重さではなく、

ようやく向き合う場所が見えた重さだった。


しばらくして、

榊から返事が来る。


「はい。だからこそ、急がずに話せたらと思います」


急がずに話せたらと思います。


その言葉に、

紬は静かに目を閉じた。


急がなくていい。

でも、いつかは話す。


その距離感が、

今の二人にはちょうどよかった。


過去の輪郭は、

まだ触れると少し痛い。

けれど、輪郭が見えたからこそ、

もう完全に見失わずに済む気もした。


なかったことにはできない。

でも、なかったことにしないまま、

今の自分たちで見つめ直すことはできるのかもしれない。


そう思えたことが、

紬には小さな救いだった。


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