第八話 言わなくても、ではなく
次に会う場所は、紬が決めることになった。
榊にそう言われてから数日、
紬は思っていた以上に真剣に考えていた。
どこでもいいはずなのに、
どこでもいいとは思えなかった。
自分の好きな場所。
そう言われると、少しだけためらう。
好きな場所を教えることは、
自分の輪郭を少し渡すことに似ている。
何を心地よいと思って、
どんな空気に落ち着いて、
何に惹かれるのか。
そういうものが、場所には滲むからだ。
結局、紬が選んだのは小さな書店だった。
駅から少し離れた路地にある、古いビルの二階。
新刊も置いてあるが、選書に癖があって、
詩集やエッセイ、写真集、海外文学の翻訳本が静かに並んでいる。
奥には数席だけ喫茶スペースもある。
「ここです」
店の前でそう言うと、榊は看板を見上げて、
少しだけ目を細めた。
「いいですね」
「まだ入ってないのにですか」
「朝倉さんが選んだ場所なので」
「それは少しずるいです」
「そうでしょうか」
「感想を先に決めてるみたいで」
「では、入りましょう。ちゃんと見てから言います」
その返しがおかしくて、紬は少し笑った。
店内は静かだった。
木の棚に本がぎっしり詰まっていて、
紙とインクの匂いがかすかに混ざっている。
休日の午後らしく客は何人かいたが、
みな声を潜めて本を見ていた。
榊は店に入ってすぐ、
空気を確かめるみたいにゆっくり視線を巡らせた。
「……好きそうです」
「今度は本当に?」
「はい。今度はちゃんと見た上で」
「ならよかったです」
並んで棚を見る。
気になる本を手に取って、
少しだけページをめくって、
また戻す。
その繰り返しが不思議と心地よかった。
会話は多くない。
でも、沈黙が重くない。
同じ場所にいて、
同じものを見て、
ときどき短く言葉を交わす。
それだけなのに、
今までのどの時間よりも、
相手の呼吸に近い気がした。
「朝倉さん、こういう詩集も読まれるんですね」
榊が一冊の薄い本を手に取る。
「たまにです」
「意外でした」
「どうしてですか」
「もっと、実用的なものを読む印象があったので」
「それは仕事のイメージですか」
「たぶん」
「詩は、仕事とは別です」
「どう違うんですか」
「うまく言えないですけど……」
紬は少し考える。
「意味を取りにいくというより、残る感じが好きなんです」
「残る感じ」
「はい。全部わからなくても、言葉だけが残ることがあるので」
「……なるほど」
榊は本を閉じて、静かにうなずいた。
「朝倉さんらしいですね」
「それ、便利な言葉ですね」
「そうですか」
「説明できないけど、わかった気になるときに使えます」
「では、気をつけます」
「お願いします」
そんなやり取りをしながら、
紬はふと思う。
昔の2人なら、
こういう会話はしていただろうか。
たぶん、しなかった。
本屋には来たかもしれない。
同じ棚を見たかもしれない。
でも、何が好きで、どうして好きなのかを、
こんなふうに立ち止まって聞き合うことは少なかった気がする。
言わなくてもわかる。
わざわざ聞かなくてもいい。
そういう省略が、あの頃の2人にはたくさんあった。
近いからこそできる省略。
でも、その省略の中で、
こぼれていったものもきっとあった。
喫茶スペースに移ると、
窓際の席がひとつだけ空いていた。
向かい合って座り、
榊はブレンドを、紬はカフェオレを頼む。
「少し意外です」
注文のあと、榊が言った。
「何がですか」
「朝倉さん、紅茶のイメージがあったので」
「今日はなんとなくです」
「そういう日もあるんですね」
「あります」
「少し安心しました」
「安心?」
「いつも同じものを選ぶ人だと、勝手に思っていたので」
「それは、わかったつもりですか」
「……そうかもしれません」
榊が素直に認めるので、紬は少し笑う。
「でも、私もあります」
「何がですか」
「榊さんは、こういうお店だとブラックしか頼まない気がしてました」
「今日はブラックです」
「そうですね」
「期待を裏切れませんでした」
「そういう問題じゃないです」
笑いながらも、紬は胸の奥で小さく息をつく。
わかったつもり。
それは今の2人にも、まだ簡単に入り込んでくる。
知ろうとしているのに、
少し見えた途端に、もう理解した気になってしまう。
人はたぶん、そういう生き物なのだろう。
だからこそ、
言わなくても、ではなく、
ちゃんと聞くことが必要なのかもしれない。
「朝倉さん」
榊がカップに手を添えたまま言う。
「この前のことなんですが」
「この前?」
「宮原さんのことを話してくれたときの」
「あ……」
紬は少しだけ姿勢を正す。
「ありがとうございました」
「お礼を言われることでは」
「でも、言いにくかったと思うので」
「……少しだけ」
「ですよね」
「でも、聞いてくれてよかったです」
「はい」
榊は少しだけ視線を落としてから、続けた。
「前だったら、たぶん聞けなかったと思います」
「聞けなかった?」
「何か引っかかってるんだろうなと思っても、
そのうち大丈夫だろうって、勝手に流していた気がします」
「……」
「でも今は、それをするとたぶんだめだと思ったので」
紬は黙って彼を見る。
それは過去の話をしているようでいて、
まだ明確にはしていない。
でも、十分すぎるほど伝わる。
そのうち大丈夫だろう。
勝手に流す。
それはまさに、思いやりの省略だった。
「私も」
紬は静かに言う。
「前だったら、言わなかったと思います」
「はい」
「言っても困らせるだけだと思って、
たぶん自分の中で片づけようとしてました」
「朝倉さんは、そうしそうです」
「ひどい言い方ですね」
「すみません。でも、少し想像できます」
「……当たってます」
2人で少しだけ笑う。
その笑いのあとに残る静けさは、
前よりもずっとやわらかかった。
「言わなくてもわかる、って」
紬は窓の外を見ながら言った。
「たぶん、半分くらいは本当なんだと思います」
「半分」
「長く一緒にいたら、わかることも増えるので」
「そうですね」
「でも、残りの半分を聞かなくなると、
たぶん少しずつずれていくんでしょうね」
「……はい」
榊は短くうなずいた。
「わかることが増えるのは、悪いことじゃないです」
紬は続ける。
「でも、それで全部わかった気になるのは、たぶん違う」
「そうですね」
「だから」
そこで少し迷ってから、紬は言った。
「言わなくても、じゃなくて、
言わなくてもわかることがあっても、ちゃんと聞く、のほうがいいのかもしれません」
言い終えたあと、
少しだけ恥ずかしくなる。
うまく言えた気はしなかった。
けれど榊は、しばらく黙ってから、
静かに笑った。
「それ、すごくいいですね」
「そうですか」
「はい。たぶん、本当にそうなんだと思います」
「……ならよかったです」
「朝倉さんと話していると、
自分の中で曖昧だったものに言葉がつく気がします」
「それは少し光栄です」
「かなりです」
その言い方がまっすぐで、
紬はまた少しだけ視線を落とした。
最近の榊は、
こういうふうにちゃんと伝える。
思ったことを、思ったままではなく、
相手に届く形にして渡してくる。
それが今の彼なのだと思うと、
うれしい。
でも同時に、
どうしてあの頃はできなかったのだろう、と
考えそうになる自分もいる。
まだ、そこまでは言えない。
でも、いつかは触れることになるのだろう。
店を出たあと、
2人は近くの川沿いを少しだけ歩いた。
夕方の光が水面に細かく揺れている。
「今日は、ここに連れてきてもらえてよかったです」
榊が言う。
「本当に?」
「はい。朝倉さんの好きなものが少し見えた気がして」
「少しだけですか」
「全部わかったとは言いません」
「それは成長ですね」
「この前、学んだので」
「早いですね」
「忘れないうちに実践しています」
紬は笑った。
そういうところが、今の彼らしいと思う。
「でも」
榊が少しだけ歩幅を緩める。
「もっと知りたいとは思いました」
「……何をですか」
「朝倉さんが、どういうときに落ち着くのかとか、
何をきれいだと思うのかとか、
どういう言葉が残るのかとか」
紬は息を止める。
それは、ただの会話の延長としては少しだけ近い。
でも、踏み込みすぎているわけではない。
今の2人だからこそ言える、ぎりぎりの言葉だった。
「私も」
気づけば、そう返していた。
榊がこちらを見る。
「榊さんのこと、まだ知らないことが多いので」
「そうですね」
「だから、知りたいです」
「……はい」
その返事は短かった。
でも、声が少しだけ低くなっていた。
それ以上は続かなかった。
続けたら、たぶん危なかった。
改札前で別れるとき、
いつも通りの挨拶を交わす。
でも今日は、そのあとに少しだけ沈黙があった。
「また」
榊が言う。
「はい」
「次も、ちゃんと聞かせてください」
「何をですか」
「朝倉さんのことを」
「……考えておきます」
「楽しみにしています」
その言葉に、紬は少しだけ笑った。
電車に乗ってから届いたメッセージには、
「今日はありがとうございました。とてもいい時間でした」とあった。
紬はしばらく画面を見つめてから、
ゆっくり返信する。
「こちらこそありがとうございました。ちゃんと聞いてもらえるの、うれしかったです」
送信してから、
少し言いすぎたかもしれないと思う。
けれど、すぐに返事が来た。
「聞けることが、うれしいです」
その一文を見たとき、
紬は胸の奥が静かにあたたかくなるのを感じた。
言わなくてもわかることは、たしかにある。
でも、それに甘えて聞かなくなるのとは違う。
知っているからこそ、
ちゃんと聞く。
近づいたからこそ、
省略しない。
もし2人がこれから先へ進むのだとしたら、
必要なのはきっとそういうことなのだろう。
窓に映る自分の顔は、
少しだけやわらかく見えた。
知らないふりから始まった関係は、
少しずつ、
知ろうとする関係に変わり始めていた。




