第七話 知らない顔に、少しだけ嫉妬する
六度目に会う約束は、榊の仕事の都合で休日の午後になった。
「もしよければ、少し付き合ってもらえませんか」
そう送られてきた文面は、いつもより少しだけ曖昧だった。
食事でも、お茶でもなく、付き合ってもらえませんか、という言い方。
紬は少し迷ってから、了承の返事を送った。
待ち合わせ場所は、駅から少し離れた複合施設の前だった。
休日らしく人通りが多く、家族連れや買い物客でにぎわっている。
榊はすでに着いていて、紬の姿を見ると軽く会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは」
「急にすみません」
「いえ。でも、珍しいですね」
「そうですね。少しだけ、お願いがあって」
お願い、という言葉に、紬は首をかしげる。
榊は少しだけ言いにくそうに笑った。
「この中に、インテリアと本を一緒に扱っている店があるらしくて」
「はい」
「仕事の参考にもなりそうなんですが、ひとりで行くと、たぶん見るところが偏る気がして」
「それで私を?」
「朝倉さんなら、僕と違う見方をされる気がしたので」
その言い方が、妙にうれしい。
頼られたことも、
自分の見方に価値があると思われたことも。
「私でよければ」
「ありがとうございます」
施設の中に入ると、冷房の涼しさが肌に心地よかった。
案内板を見ながら目的の店へ向かう。
広いフロアの一角に、その店はあった。
生活雑貨、家具、文房具、写真集、エッセイ、建築書。
ジャンルがゆるやかに混ざり合っていて、見ているだけで楽しい空間だった。
「好きそうです、こういうお店」
「わかりますか」
「なんとなく」
「榊さんも、好きそうです」
「否定できません」
そう言って笑い合う。
店内をゆっくり見て回りながら、
気になった本や雑貨についてぽつぽつ話す。
前よりもずっと自然に、隣にいることができていた。
「朝倉さん、こういう装丁、好きですよね」
榊が一冊の本を手に取りながら言う。
紬はその言葉に、ほんの少しだけ目を見開く。
「どうしてそう思うんですか」
「なんとなくです。余白の取り方とか、紙の質感とか、そういうのをちゃんと見そうだなと」
「……見ます」
「やっぱり」
「でも、よくわかりましたね」
「最近、少しずつわかってきた気がします」
その言い方に、胸の奥が静かに揺れる。
最近、少しずつわかってきた。
それは今の紬を見ていなければ出てこない言葉だった。
うれしい。
でも同時に、少しだけ怖い。
わかってもらえることは、こんなにも簡単に心を動かすのだと、
最近の紬は何度も思い知らされていた。
店の奥にある展示スペースでは、小さなトークイベントが始まるらしかった。
人が少しずつ集まり始めている。
「少し見ていきますか」
「はい」
立ち止まって案内を見ていると、
背後から明るい声がした。
「榊さん?」
紬が振り返るより先に、榊の表情がわずかに変わる。
そこにいたのは、榊と同年代くらいの女性だった。
肩までの髪をきれいにまとめていて、仕事のできそうな、すっきりした雰囲気の人。
その隣には、年上らしい男性もいる。
「やっぱり。こんなところで会うなんて」
「……こんにちは」
「お休みの日に珍しいですね。資料探しですか?」
女性は慣れた調子で話しかけてくる。
距離が近いわけではない。
でも、気安さがある。
榊はいつもの落ち着いた声で答えた。
「少し見に来ただけです」
「そうなんですね」
そこで女性の視線が紬へ向く。
「ご一緒だったんですね」
その一言に、紬の背筋がわずかに伸びる。
榊は一瞬だけ間を置いてから、静かに言った。
「こちら、朝倉さんです」
「はじめまして、朝倉です」
「はじめまして。榊さんと同じ会社の、宮原です」
名乗られて、紬も会釈する。
宮原は感じのいい笑みを浮かべていた。
失礼なところは何もない。
むしろ、きちんとした人だと思う。
それなのに、紬の胸の奥には小さなざわめきが生まれていた。
同じ会社。
休日に偶然会って、自然に声をかけられる距離。
仕事の話も、たぶん日常の延長でできる相手。
自分の知らない榊さんの時間が、
その人の中にはちゃんとあるのだと思い知らされる。
「榊さん、来週の件、また月曜に少し相談させてください」
「わかりました」
「すみません、お休みの日に仕事の話」
「いえ、大丈夫です」
宮原はそう言ってから、紬に向かって軽く笑った。
「お邪魔しました。では」
「失礼します」
隣の男性も会釈し、2人はそのまま去っていく。
短いやり取りだった。
本当に、それだけだった。
けれど2人の姿が見えなくなっても、
紬の胸のざわつきはすぐには消えなかった。
「すみません」
榊が先に口を開く。
「急に」
「いえ」
紬は首を振る。
何に対する謝罪なのかわからない。
偶然会ったことに対してか、
紹介が簡潔だったことに対してか、
それとも、紬が少しだけ固くなったのを感じ取ったのか。
「会社の方ですか」
「はい。同じ部署ではないんですが、仕事で関わることがあって」
「そうなんですね」
それだけの会話。
それだけで終わるはずなのに、
紬は自分の声が少しだけ平坦になっているのを感じた。
嫉妬、なのだろうか。
そんな資格はない。
今の自分たちは、まだ何でもない。
会う約束をして、少しずつ距離を縮めているだけの関係だ。
それでも、
自分の知らない場所で見せる榊の顔を、
ほかの誰かが知っていることに、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「朝倉さん?」
呼ばれて、紬ははっとする。
「すみません」
「大丈夫ですか」
「はい。少しぼんやりしていました」
榊は何か言いたげだったが、結局それ以上は聞かなかった。
その聞かないやさしさが、今は少しだけつらい。
店を出たあと、施設内のカフェに入った。
窓際の席に座っても、紬はさっきのことを引きずっている自分に気づいていた。
榊はコーヒーを、紬はアイスティーを頼む。
「今日は付き合っていただいて、ありがとうございました」
榊が言う。
「いえ、私も楽しかったです」
「本当ですか」
「はい」
嘘ではなかった。
本当に楽しかった。
でも、それだけではなくなってしまった。
「朝倉さんの見方、面白かったです」
「そうですか」
「自分では気づかないところを見ているので」
「榊さんも、かなり細かく見てました」
「仕事が入ってるだけです」
「それでも、好きじゃないとあそこまで見ないと思います」
「……そうかもしれません」
少しずつ、会話は戻っていく。
けれど紬の中には、まだ小さな棘のようなものが残っていた。
自分の知らない榊さん。
仕事中の顔。
会社の人たちとの距離感。
そういうものを、今の自分は何も知らない。
昔は知っていた、と思いかけて、紬はその考えを止める。
違う。
昔知っていたとしても、それは今ではない。
今の彼のことを、
自分はまだほんの少ししか知らない。
その当たり前のことが、
今日は妙にこたえた。
「宮原さん、きれいな方でしたね」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
言った瞬間、しまったと思う。
こんなことを言うつもりではなかった。
榊は一瞬だけ目を見開く。
「……そうですね」
「すみません、変なことを」
「いえ」
そこで会話が止まる。
紬はグラスに触れたまま、視線を落とした。
何を言いたかったのだろう。
きれいな人ですね、なんて。
そんなことを確認してどうするのか。
ただ、自分でも気づかないうちに、
少しだけ揺れていたのだ。
榊はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「仕事ができる人です」
紬は顔を上げる。
榊は続ける。
「気が利いて、判断も早くて、助けられることが多いです」
「……そうなんですね」
「はい」
それだけだった。
余計なことは何も言わない。
否定もしないし、変に取り繕いもしない。
その誠実さに、紬は少しだけ救われる。
同時に、少しだけ苦しくもなる。
もしここで、
ただの同僚ですよ、と軽く笑われたら、
それはそれで違った気がした。
ちゃんと相手を認める言い方をするところが、
榊らしいと思う。
今の彼らしいと思う。
「朝倉さん」
低い声で名前を呼ばれて、紬は視線を上げた。
「さっき、少し嫌でしたか」
まっすぐな問いだった。
紬は息を止める。
逃げ道のない聞き方ではない。
答えたくなければ、はぐらかせる余白はある。
でも、ちゃんと聞いてくれている。
それが、今はありがたかった。
「……少しだけ」
やっとのことで、それだけ言う。
榊は黙って待っていた。
「自分でも、どうしてかわからないんですけど」
「はい」
「私の知らない榊さんを、あの人は知ってるんだなって思ったら」
そこで言葉が詰まる。
「少しだけ、落ち着かなくなりました」
言ってしまった。
ここまで言うつもりではなかったのに。
でも、もう引っ込められない。
榊は驚いたような顔をしたあと、
ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「……そうですか」
「すみません」
「どうして謝るんですか」
「こんなこと、言う立場じゃないので」
「そんなことないです」
その返事が早くて、紬は思わず彼を見る。
榊はカップに触れたまま、静かに言った。
「僕もあります」
「え」
「朝倉さんの知らない時間があることに、勝手に落ち着かなくなること」
紬は何も言えなかった。
そんなこと、思っていたのだろうか。
自分だけではなかったのだろうか。
「でも、それは当たり前ですよね」
榊は少しだけ苦く笑う。
「今まで別々に生きてきた時間があるので」
「……はい」
「知らないことがあるのは当然です」
「そうですね」
「それでも、少し気になる」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
少し気になる。
それは嫉妬と呼ぶにはまだ控えめで、
でも、ただの好奇心ではない響きを持っていた。
紬はアイスティーの氷が溶ける音を聞きながら、
自分の鼓動が少し速くなっているのを感じる。
「変ですね」
「何がですか」
「知らないふりをして始めたのに、
知らないことが増えると落ち着かなくなるなんて」
「……たしかに」
「矛盾してます」
「でも、少しわかります」
2人で小さく笑う。
その笑いは、さっきまでのぎこちなさを少しだけほどいた。
知らないことがある。
それは不安だ。
でも、だからこそ知りたいと思う。
その気持ちは、たぶん悪いものではない。
カフェを出るころには、外は少し夕方に傾いていた。
帰り道、2人は前より少しだけ近い距離で歩いた。
触れるほどではない。
でも、前より遠慮が少ない。
「今日は、変な空気にしてしまってすみません」
紬が言うと、榊は首を振った。
「むしろ、言ってもらえてよかったです」
「そうですか」
「はい。わからないままのほうが、たぶん困るので」
「……そうですね」
「朝倉さんが何を感じたのか、ちゃんと知れてよかったです」
その言い方に、紬は少しだけ目を伏せた。
ちゃんと知れてよかった。
そう言われると、
さっき口にしたことが、ただの面倒な感情ではなかった気がしてくる。
改札前で立ち止まる。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、もしよければ」
「はい」
その短いやり取りのあと、
榊が少しだけためらってから言った。
「次は、朝倉さんの好きな場所に行きませんか」
「私の?」
「はい。今日、付き合ってもらったので」
「……考えておきます」
「楽しみにしています」
その言葉に、紬は少しだけ笑った。
電車に乗ってから届いたメッセージには、
いつも通り簡潔な礼と、
「今日は話してくれてありがとうございました」とあった。
紬はしばらく画面を見つめてから、返信する。
「こちらこそありがとうございました。少し恥ずかしかったです」
送ってから、こんなことまで書かなくてもよかったかもしれないと思う。
けれどすぐに返事が来た。
「僕は少しうれしかったです」
その一文を見た瞬間、
紬の胸の奥で、何かが静かにほどけた。
嫉妬なんて、みっともないと思っていた。
知らない顔に揺れるなんて、立場がないと思っていた。
でも、それを受け取って、
うれしいと言う人がいる。
それだけで、
今日のざわめきは少しだけやさしいものに変わった気がした。
知らないことは、まだたくさんある。
知らない顔も、知らない時間も、きっとこれからも出てくる。
それでも、
知りたいと思ってしまうこと自体が、
もうただの再会ではないのだと、
紬は静かに思った。




