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第六話 やさしさを省略しないで

五度目に会う約束は、少し間が空いた。


仕事が忙しかったのもある。

予定が合わなかったのもある。

それだけのことのはずなのに、紬はその数日を思っていたより長く感じていた。


会わない時間があると、落ち着くと思っていた。

少し距離を戻せるかもしれないとも思っていた。


けれど実際には逆だった。


会わないあいだにも、榊の言葉を思い出す。

歩く速度。

視線の置き方。

最近はちゃんと、うれしいとか、よかったとか、そういう言葉を口にすること。


思い出すたびに、今の彼を少しずつ知ってしまっているのだと気づく。


その日は、紬の仕事が予定より早く終わった。

榊に連絡を入れると、ちょうど近くで打ち合わせが終わったところだという。

それなら少しだけ会いませんか、と自然に話がまとまった。


待ち合わせたのは、駅から少し離れた静かな喫茶店だった。

夕方と夜のあいだの、曖昧な時間。

店内には落ち着いた音楽が流れ、窓の外には薄く灯りがつき始めている。


「お待たせしました」

「いえ、私も今来たところです」

「それ、前にも聞いた気がします」

「便利なので」

「たしかに」


榊が笑う。

紬もつられて笑った。


こういう小さなやり取りが、もうずいぶん自然になっている。

最初の頃のぎこちなさは、完全には消えていない。

でも、会うたびに少しずつほどけていく。


注文を済ませて、しばらくは仕事の話をした。

紬は取材先であった出来事を話し、

榊は最近担当している案件の進み具合を簡単に話す。


「朝倉さん、疲れてますか」


ふいに榊が言った。


「そんなに顔に出てますか」

「少しだけ」

「恥ずかしいですね」

「そんなことないです」

「でも、今日はちょっと疲れてるかもしれません」

「無理しないでください」


その言い方がやわらかくて、紬は少しだけ視線を落とした。


無理しないでください。

昔も、似たようなことは言われたことがある。

でもあの頃はもっと簡単だった。


疲れてるなら帰れば。

今日はやめとけば。

そんなふうに、もっと短く、もっと遠慮なく言われていた気がする。


それは気安さだった。

近さだった。

でも同時に、少しだけ雑でもあった。


今の榊は違う。

相手の状態を見て、言葉を選んで、押しつけないように伝えてくる。


その丁寧さがうれしい。

うれしいのに、少しだけ苦しい。


「榊さんも、お疲れじゃないですか」

「僕は大丈夫です」

「そういう言い方をする人ほど、あまり大丈夫じゃない気がします」

「それは偏見では」

「経験則です」

「説得力がありますね」


榊はそう言って笑ったあと、少しだけ黙った。


「でも、前よりはましです」

「前より?」

「……あ」


言ってから、彼はわずかに目を伏せた。


まただ、と思う。

最近、こういう瞬間が少しずつ増えている。


前より。

昔は。

あの頃は。


はっきりとは言わない。

でも、境界線の近くまで言葉が来る。


紬はカップに手を添えたまま、静かに息をついた。


「ぎりぎりセーフ、ですか」


そう言うと、榊は少しだけ困ったように笑った。


「たぶん、アウト寄りです」

「正直ですね」

「ごまかしても仕方ないので」

「そうですね」


それ以上は責めなかった。

責めたいわけではなかった。


ただ、最近わかってきたことがある。


過去に触れないことは、思っていたより簡単ではない。

でも本当に難しいのは、過去を思い出すことそのものではなく、

その記憶に引っぱられて、今の相手を雑に扱ってしまうことなのかもしれない。


知っているから、説明はいらないと思う。

わかっているから、確認しなくていいと思う。

その省略が、少しずつ思いやりを削っていく。


昔の2人は、たぶんそうだった。


「朝倉さん?」


呼ばれて、紬は顔を上げる。


「すみません。また考えごとを」

「今日はよく考えごとをされますね」

「そうかもしれません」

「聞いてもいいですか」

「内容によります」

「では、無理なら答えなくて大丈夫です」


榊はそこで一度言葉を切った。


「最近、僕たち、少し慣れてきましたよね」


紬の指先が、カップの縁で止まる。


慣れてきた。

その言葉は、思っていた以上に重かった。


「……そうですね」

「最初の頃より、ずっと自然に話せるようになったと思います」

「はい」

「それは、うれしいです」

「私もです」


そこまでは、素直に言えた。


けれど榊は、少しだけ視線を落として続ける。


「でも、少し怖くもあります」

「怖い?」

「慣れると、人って雑になることがあるので」


紬は息を止めた。


まるで、自分がさっき考えていたことを、そのまま言葉にされたみたいだった。


榊は静かな声のまま続ける。


「言わなくてもわかるって思ったり、

聞かなくても知ってるって思ったり、

そういうのって、たぶん楽なんです」

「……はい」

「近いからこそできることでもあると思います」

「そうですね」

「でも、その楽さに甘えると、ちゃんと大事にすることまで省いてしまう気がして」


紬は何も言えなかった。


それは、過去の話をしているようでいて、

まだ過去の話だとは言っていない。


でも、2人ともわかっている。

これはただの一般論ではない。


「だから」


榊が、少しだけ言いにくそうに笑う。


「今のこの感じが心地いいと思うほど、気をつけないといけないなって思ってます」


紬は視線を落とした。


心地いい。

彼もそう思っているのだと知るだけで、胸の奥が静かに熱くなる。


でも同時に、その先にある怖さもわかってしまう。


また近くなったら。

また同じように慣れてしまったら。

また、思いやりを省略するようになったら。


「……私も、少し思っていました」


気づけば、そう口にしていた。


榊が顔を上げる。


「何をですか」

「慣れることって、いいことだけじゃないなって」

「はい」

「安心できるのは、たぶんいいことです」

「そうですね」

「でも、安心すると、ちゃんと伝えることとか、ちゃんと聞くこととか、そういうのを後回しにしやすい気がして」


榊は黙って聞いていた。


紬は少しだけ迷ってから、続ける。


「思いやりがなくなるわけじゃないんです」

「……はい」

「ただ、慣れていくうちに、少しずつ雑になることがあるんだと思います」


言ってしまってから、胸が苦しくなる。


これはもう、かなり近い。

過去そのものを口にしていなくても、

その輪郭には確実に触れている。


でも、不思議と壊れる感じはしなかった。


むしろ今の2人には、

このくらいの言葉が必要だったのかもしれない。


榊はしばらく黙ってから、静かに言った。


「やっぱり、朝倉さんと話していると、ちゃんと言葉にしないといけない気がします」

「それは仕事柄ですか」

「それもありますけど」

少しだけ笑ってから、彼は続けた。

「ごまかしたままだと、たぶん大事なところを落とすので」


紬は小さく笑った。


「それは、編集でも同じです」

「ですよね」

「削っていい言葉と、削ると意味が変わる言葉があるので」

「人との会話も、たぶんそうですね」

「そうかもしれません」


その会話が、紬には妙にしっくりきた。


やさしさも同じなのだと思う。

省いていいものと、

省いたらだめなものがある。


近いからといって、

全部を省略していいわけではない。


むしろ近い相手ほど、

本当は丁寧に扱わなければいけないのかもしれなかった。


店を出ると、外はすっかり夜になっていた。

昼間の熱気が少しだけ残っていて、風はぬるい。


駅までの道を並んで歩く。

会話は途切れがちだったけれど、気まずくはなかった。

さっきまでの話が、まだ2人のあいだに静かに残っている。


「朝倉さん」


榊が前を向いたまま言う。


「はい」

「今日、話せてよかったです」

「……私もです」

「少し怖かったですけど」

「私も少し怖かったです」

「でも、よかった」


その言い方があまりにもまっすぐで、紬は少しだけ困る。


最近の榊は、こういうふうにちゃんと伝える。

昔なら、たぶん言わなかったことまで。


それが今の彼なのだとしたら、

紬はその変化を、もう見ないふりはできなかった。


改札前に着くと、2人は立ち止まる。


「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

「気をつけて帰ってください」

「榊さんも」


いつものやり取り。

でも今日は、そのあとに少しだけ間があった。


榊が何か言いかけて、やめる。

紬も、何かを待ちそうになってやめる。


結局、どちらもそれ以上は言わなかった。


電車に乗ってから、紬は窓に映る自分を見る。

少し疲れていて、でもどこかやわらかい顔をしていた。


スマートフォンが震える。


「今日はありがとうございました。大事な話ができた気がします」


紬はその文面を、しばらく見つめた。


大事な話。


たしかにそうだった。

過去のことを話したわけではない。

謝ったわけでも、責めたわけでもない。

それでも、ただ楽しく会うだけでは届かなかった場所に、

今日は少しだけ触れた気がする。


紬はゆっくりと返信を打つ。


「こちらこそありがとうございました。私も、そう思います」


送信してから、少しだけ迷って、もう一文だけ足した。


「省略しないようにしたいですね」


送った瞬間、胸が大きく鳴る。


言いすぎただろうかと思った。

でも、取り消したいとは思わなかった。


しばらくして、返信が来る。


「はい。やさしさを省略しないでいたいです」


その一文を見たとき、

紬は目を閉じて、そっと息を吐いた。


やさしさを省略しない。


それは恋人だった頃の2人には、

たぶんできていなかったことだ。


でも今の2人は、

まだ名前のつかないこの関係の中で、

それを選び直そうとしている。


過去をなかったことにはしない。

けれど、過去の延長だけでも決めない。


知っているから雑に扱うのではなく、

知っているかもしれないからこそ、ちゃんと確かめる。


その積み重ねの先に、

もしもう一度何かが生まれるのだとしたら。


それはきっと、前とは少し違う形のやさしさなのだろうと、

紬は静かに思った。


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