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第五話 知っているのに、知らない

四度目に会う約束は、自然に決まった。


どちらからともなく、次はいつにしますかとやり取りをして、

気づけば予定が埋まっている。

最初の頃にあった慎重さはまだ消えていないのに、

会うこと自体は少しずつ当たり前になり始めていた。


それが紬には、うれしくもあり、怖くもあった。


会う回数が増えるほど、

知らないふりは難しくなる。


それでも会いたいと思ってしまうのだから、

もう引き返せないところまで来ているのかもしれなかった。


その日は、榊の提案で少し遅めの時間に会うことになった。

仕事が長引くかもしれないので、軽く食事だけでも――

そんな控えめな誘い方が、今の彼ららしい。


待ち合わせたのは、駅ビルの上階にある静かな店だった。

窓際の席からは、夜の街の灯りが遠くまで見える。


「遅くなってすみません」


席に着くなり、榊が言った。


「いえ、私も今来たところです」

「そういう言い方、たぶん本当じゃないですよね」

「どうしてですか」

「朝倉さん、たぶん五分前には着いてるタイプなので」


紬は一瞬だけ言葉を失って、それから小さく笑った。


「……そう見えますか」

「見えます」


さらりと言われて、胸の奥が少しだけざわつく。


それは過去を知っているからではなく、

今の自分を見ていればわかることだ。

たぶん、そうなのだろう。


でも、昔からそうだったことも、紬は知っている。


「榊さんは、ぎりぎりに見えて意外と間に合うタイプですよね」

「それは褒められてるんでしょうか」

「どうでしょう」

「微妙ですね」


そんなやり取りが、もうずいぶん自然になっていた。


注文を済ませると、榊は少しだけ疲れたように息をついた。

ネクタイはしていないが、シャツの袖を軽くまくっている。

仕事帰りらしい姿だった。


「お忙しかったんですか」

「少し。打ち合わせが長引いて」

「大変でしたね」

「でも、来れてよかったです」


その言葉に、紬は視線を落とす。


来れてよかった。

会えてよかった。

うれしかった。


榊は最近、そういう言葉を惜しまない。

昔の彼なら、たぶん言わなかった。

あるいは思っていても、口にしなかった。


今の彼は、伝えないままにしない。

それが紬にはまだ少し眩しい。


料理が運ばれてきて、会話は仕事の話へ移った。

榊は新しい案件のことを簡単に話し、

紬も取材先であった小さな出来事を話す。


「朝倉さんの話って、情景が浮かびますね」


榊がそう言った。


「そうですか?」

「はい。説明がうまいんだと思います」

「仕事柄かもしれません」

「それもあるでしょうけど、たぶん見てるところが細かいんでしょうね」

「細かい、ですか」

「人が何を言ったかだけじゃなくて、どう言ったかとか、どんな顔だったかとか」

「……そうかもしれません」

「だから文章にしたとき、ちゃんと残るんでしょうね」


紬は少しだけ困る。

褒められているのはわかる。

でも、そんなふうに自分の仕事を見てもらうことに、まだ慣れない。


昔は、こんなふうに聞かれたことも、言われたこともなかった。


知っているはずの相手に、

今さら初めて見つけてもらっているみたいだった。


「ありがとうございます」

「こちらこそ。話していて面白いです」


面白いです、という言葉に、紬は少しだけ目を上げる。


榊はまっすぐこちらを見ていた。

気負いもなく、でも適当に言っているわけでもない顔だった。


その視線を受け止めきれず、紬は水のグラスに手を伸ばす。


知っているのに、知らない。


最近、何度もそう思う。


彼の笑い方は知っている。

黙るときの癖も知っている。

少し考え込むと視線が斜め下に落ちることも知っている。


でも、今こうして目の前にいる榊さんは、

昔の恋人だった榊恒一とは少し違う。


言葉の選び方も、

感情の伝え方も、

相手への関心の向け方も。


知っているところと、知らないところが、

同じ人の中に静かに並んでいる。


それが不思議で、

少しだけ怖くて、

でも目を離せなかった。


「朝倉さん?」


呼ばれて、紬ははっとする。


「すみません。少し考えごとを」

「大丈夫ですか」

「はい」

「疲れてますか」

「それは少し」

「じゃあ、今日は早めに切り上げましょうか」


その言い方が自然で、紬は少しだけ驚く。


無理に引き止めない。

自分が会いたい気持ちより、相手の状態を優先する。

そういうところも、今の榊らしかった。


「まだ大丈夫です」

「本当ですか」

「はい。もう少し話したいです」


言ってから、紬は自分で少し驚いた。


もう少し話したい。

そんなふうに、ほとんどそのままの気持ちを口にしたのは初めてかもしれない。


榊も少しだけ目を見開いて、それから静かに笑った。


「……よかったです」

「そんなに安心しますか」

「します」

「どうして」

「僕だけじゃなかったんだと思って」


紬は息を止める。


僕だけじゃなかった。


それは、会いたいと思っていたのが自分だけではなかった、という意味だろうか。

そう受け取ってしまっていいのだろうか。


聞き返したら、たぶん何かが変わる。

だから紬は聞けなかった。


代わりに、少しだけ笑う。


「私もです」


それだけで十分だった。

十分なはずなのに、胸の奥は静かに騒がしい。


食事を終えて店を出ると、夜風が思ったより涼しかった。

ビルの外に出た瞬間、街のざわめきが少しだけ近くなる。


「少し歩きますか」


榊が言う。


紬はうなずいた。


駅前の広場を抜けて、灯りの多い通りをゆっくり歩く。

平日の夜らしく、人は多いのに、2人のあいだには不思議と静かな空気があった。


「朝倉さんは」


榊が、前を向いたまま言う。


「最初の頃より、少しだけ話してくれるようになりましたね」


紬はその言葉に、そっと息をつく。


「そうかもしれません」

「最初は、すごく慎重でした」

「榊さんもです」

「そうですね」

「今も慎重ですけど」

「はい。でも、少し違う」


少し違う。

その曖昧な言い方が、今の2人にはちょうどよかった。


「慣れたんでしょうか」

「どうでしょう」

「それとも、信じてもいいと思い始めたのかもしれません」


紬は足を止めそうになる。


信じてもいい。


その言葉は、思っていた以上に深く胸へ入ってきた。


何を、とは言わない。

何について、とも言わない。

でも、たぶん2人ともわかっている。


この時間を。

この距離を。

この関係を。


「……そうだったら、いいですね」


やっとのことで、それだけ返す。


榊は何も言わなかった。

ただ、少しだけ歩幅を緩めた。


そのとき、通りの向こうで信号が点滅し始める。

人の流れが少し早くなる。


「急ぎましょうか」


榊がそう言って、紬の少し前に出た。

その背中を追いかけるように歩き出した瞬間、

向かいから来た人の肩が紬の腕に軽くぶつかる。


「あ……」


体がわずかによろめく。


次の瞬間、榊が振り返り、

今度は手首を軽く引くようにして紬を自分のほうへ寄せた。


信号を渡りきるまでの、ほんの数秒。

でも紬には、その時間がひどく長く感じられた。


近い。

腕ではなく、今度は手首だった。

触れられた場所から、熱がじわりと広がっていく。


渡りきったところで、榊はすぐに手を離した。


「すみません」

「……いえ」

「危なかったので」

「はい」


まただ、と思う。


彼はきっと、本当にただ危ないと思っただけなのだ。

余計な意味なんてない。

そうわかっているのに、心臓がうるさい。


「大丈夫でしたか」

「大丈夫です」

「よかった」


榊の声も、少しだけ低かった。


しばらく、どちらも何も言えなかった。

さっきまで自然だった会話が、急に難しくなる。


触れたこと自体より、

それがあまりにも自然だったことのほうが苦しい。


昔なら当たり前だった距離に、

今はもう簡単には戻れない。


戻れないのに、

体だけが先に覚えているみたいで、

そのことがひどく危うかった。


駅の改札前で立ち止まる。


「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

「気をつけて帰ってください」

「榊さんも」


いつも通りの言葉。

でも、いつも通りには戻りきれていない。


紬は改札を抜けてから、手首にそっと触れた。

もう何も残っていないはずなのに、

そこだけ感覚が過敏になっている気がした。


電車に乗ってしばらくしてから、スマートフォンが震える。


「今日はありがとうございました。さっきは失礼しました」


紬はその文面を見つめる。


失礼しました。


きっと、手首を引いたことを言っているのだろう。

謝るようなことではないのに、

彼はそう書く。


それが今の距離なのだと思う。

触れたことを、なかったことにはしない。

でも、特別な意味も持たせない。


紬は少し迷ってから返信した。


「ありがとうございました。助かりましたので、大丈夫です」


送信してから、少しだけ物足りない気持ちになる。

本当は、大丈夫だけではなかった。


驚いた。

意識した。

うれしかった。

怖かった。


全部あった。


でも、それをそのまま書ける関係ではない。


知っているのに、知らない。

近づいているのに、まだ触れられない。


その曖昧さの中で、

2人は少しずつ相手を知り直していく。


過去を飛び越えることはできない。

でも、過去だけで今を決めることもしない。


そうやって積み重ねてきた時間が、

今日また少しだけ、2人の距離を変えてしまった気がした。


紬は窓に映る自分を見つめながら、そっと目を伏せる。


次に会ったとき、

今日のことをどこまでなかったふりができるのだろう。


わからないまま、

それでもまた会いたいと思ってしまう自分がいた。


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