第四話 近づくほど、言えなくなる
三度目に会う約束は、紬のほうからした。
自分でも少し驚いた。
これまではいつも榊から連絡が来て、それに応じる形だったからだ。
けれど、あの夜から数日が経っても、紬の中には妙に落ち着かないものが残っていた。
腕を支えられた一瞬の感触。
すぐに離れていった手。
何もなかったように交わした短いメッセージ。
思い出さないようにしても、ふとした拍子に浮かんでくる。
だからたぶん、確かめたかったのだと思う。
あれはただの偶然だったのか。
それとも、自分だけが必要以上に意識しているのか。
仕事の昼休み、紬は短い文を打った。
「もしご都合が合えば、今度はランチでもいかがですか」
送ってから、少しだけ後悔した。
夜ではなく昼を選んだことに、自分の臆病さが出ている気がした。
けれど榊からの返信は早かった。
「ぜひ。うれしいです」
その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
うれしいです。
たったそれだけの言葉なのに、思っていたよりずっと効いた。
待ち合わせは土曜日の昼、駅から少し歩いた場所にあるベーカリーカフェに決まった。
休日の街は平日より明るく、人の流れもゆるやかだった。
紬は店に向かいながら、自分の服装を何度も気にしてしまう。
仕事帰りではないぶん、選んだ服に自分の意思が出る。
それが少し恥ずかしかった。
店の前には、すでに榊がいた。
白いシャツに、濃い色のパンツ。
肩の力が抜けた休日らしい格好なのに、どこかきちんとして見える。
「こんにちは」
「こんにちは」
昼の光の下で向かい合うのは、夜に会うのとはまた違った緊張があった。
「休日に会うの、少し新鮮ですね」
「そうですね」
「平日とは雰囲気が違います」
「榊さんも、少し違って見えます」
「それはいい意味でですか」
「たぶん」
「安心しました」
そんなやり取りに、紬は少しだけ笑う。
店内はパンの焼ける匂いで満ちていた。
トレーを持って並び、それぞれ好きなものを選ぶ。
榊はサンドイッチとコーヒー、紬はキッシュと紅茶にした。
席についてから、榊がふと店内を見回す。
「こういうお店、よく来られるんですか」
「たまにです。ひとりでも入りやすいので」
「たしかに、落ち着きますね」
「榊さんは?」
「僕は、休日にひとりで外で食べることがあまりなくて」
「そうなんですね」
「家で済ませることが多いです」
その答えに、紬は少しだけ意外な気持ちになる。
昔の榊は、気になる店を見つけるとすぐ行きたがるタイプだった。
新しいカフェや話題の店にも、案外抵抗がなかった。
でも、そういうことを思い出しても口にはしない。
「じゃあ、今日は珍しいんですね」
「そうかもしれません」
「誘ってしまってよかったですか」
「もちろんです」
榊は迷いなくそう言った。
「むしろ、うれしかったです」
また、その言葉だと思う。
うれしい、と彼は最近ちゃんと言葉にする。
昔は、こんなふうに感情をそのまま口にする人ではなかった気がする。
思っていないわけではないのに、言葉にする前に飲み込んでしまうことが多かった。
変わったのだろうか。
それとも、今の距離だからこそ、丁寧に伝えようとしているのだろうか。
「それならよかったです」
紬はそう返しながら、紅茶のカップに指を添えた。
休日の昼は、夜よりも会話が軽やかだった。
最近読んだ本のこと。
仕事で使っている文房具のこと。
駅前に新しくできた花屋のこと。
パン屋でつい買いすぎてしまうこと。
小さな話題ばかりなのに、不思議と飽きなかった。
「朝倉さんは、選ぶものがなんとなく丁寧ですね」
榊がトレーの上を見ながら言う。
「丁寧、ですか」
「はい。パンを選ぶのも、紅茶を頼むのも、ちゃんと好きで選んでる感じがします」
「そんなこと、考えたことなかったです」
「でも、見ているとそう思います」
見ていると。
その言葉に、紬は少しだけ視線を落とした。
見られている。
ちゃんと、今の自分を。
それは落ち着かない。
でも、嫌ではなかった。
「榊さんは、観察するのが上手ですね」
「仕事柄かもしれません」
「建物を見るみたいに、人も見てるんですか」
「それはどうでしょう」
榊は少し笑った。
「人のほうがずっと難しいです」
「たしかに」
「同じものを見ていても、受け取り方が全然違うので」
「それは、編集の仕事でも少しわかります」
「そうなんですか」
「同じ文章でも、読む人によって残るところが違うので」
「面白いですね」
「難しいですけど」
そう言って笑い合う。
会話の流れが自然で、紬はふと気づく。
前より、沈黙を怖がらなくなっている。
無理に埋めなくても大丈夫だと思えるようになっている。
それはたぶん、少しずつ相手の呼吸を覚えてきたからだ。
食事を終えたあと、店を出てもまだ昼下がりの時間が残っていた。
「このあと、少し歩きますか」
榊がそう言った。
紬は一瞬だけ迷ってから、うなずく。
駅の反対側に、小さな遊歩道がある。
川沿いに木が並んでいて、休日は散歩する人も多い場所だった。
並んで歩く。
日差しは明るいのに、木陰に入ると風が涼しい。
「夜に会うのと、ずいぶん違いますね」
「何がですか」
「時間の流れ方が」
「ああ……たしかに」
「夜だと、帰る時間をどこかで気にしてしまうので」
「昼は、少しだけ余白がありますね」
「はい」
余白。
その言葉が、今の2人に似合う気がした。
決めつけないための余白。
踏み込みすぎないための余白。
でも、離れすぎないための余白でもある。
川面に光が反射して揺れている。
その眩しさに目を細めたとき、榊がふいに言った。
「朝倉さんは、前よりよく笑いますね」
紬の足が、ほんの少しだけ止まりかける。
前より。
その二文字が、静かに胸へ落ちた。
榊も言ってから気づいたのだろう。
わずかに表情が変わる。
ルールを破るつもりだったわけではない。
ただ、あまりにも自然に出てしまったのだ。
紬はすぐには何も言えなかった。
前のことは話さない。
知っていることがあっても、知らないふりをする。
破ったら終わり。
その約束が、頭の中で静かに響く。
けれど今の言葉は、明確に過去へ触れたわけではない。
ただ、境界線に指先がかかった。
それだけだ。
それでも、胸はざわつく。
榊が立ち止まり、低い声で言った。
「すみません」
紬は彼を見る。
「今のは」
「……大丈夫です」
反射的にそう答えていた。
本当に大丈夫なのか、自分でもわからない。
でも、ここで終わりにしたいわけではなかった。
榊は少しだけ苦い顔をする。
「気をつけていたつもりだったんですが」
「私も、たぶん同じです」
「同じ?」
「ときどき、言いそうになります」
「何をですか」
「知ってることを」
榊は何も言わなかった。
ただ、静かに紬を見ていた。
「でも、言わないって決めたので」
「はい」
「だから、今のは……ぎりぎりセーフにしませんか」
言ってから、少しだけおかしくなる。
こんな場面で使う言葉ではない気がした。
けれど榊は、ほんの少し目を見開いたあと、ふっと笑った。
「ずいぶん寛大ですね」
「一回だけです」
「ありがとうございます」
「次はないかもしれません」
「肝に銘じます」
そのやり取りで、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
でも、紬の胸の奥には別の熱が残っていた。
前よりよく笑いますね。
それは、過去を知っている人にしか言えない言葉だった。
そして同時に、今の自分を見ていなければ出てこない言葉でもあった。
過去と今が、あの一言の中で重なっていた。
歩きながら、紬はそっと息を吐く。
近づくほど、言えなくなることが増えていく。
知っていることも、
気づいたことも、
うれしいと思ったことも。
言えば壊れるかもしれないから。
言わないほうが守れるものがあるから。
でも本当は、
近づいたからこそ言いたくなるのだ。
「榊さん」
気づけば、紬は彼を呼んでいた。
「はい」
「さっきのことですけど」
「……はい」
「少し、うれしかったです」
榊が足を止める。
紬は前を向いたまま続けた。
「ちゃんと見てくれてるんだなって思ったので」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
こんなことまで言うつもりではなかった。
榊はしばらく黙っていた。
その沈黙が長くて、紬は少しだけ後悔しかける。
けれどやがて、彼は静かに言った。
「見ています」
その声は低く、やわらかかった。
「前よりずっと、ちゃんと見たいと思っています」
紬は息を止めた。
それもまた、ぎりぎりの言葉だった。
過去に触れそうで、触れていない。
でも、確かに何かを伝えている。
胸の奥が、静かに揺れる。
「……そうですか」
「はい」
それ以上は続かなかった。
続けてしまったら、たぶん危なかった。
駅へ戻るころには、日が少し傾き始めていた。
別れ際、榊はいつも通り礼儀正しく言う。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「誘っていただけて、うれしかったです」
「……私も、会えてよかったです」
その一言に、榊の目元がわずかにやわらぐ。
改札を抜けたあと、紬は何度もさっきの会話を思い返した。
前よりよく笑いますね。
少し、うれしかったです。
見ています。
どれも決定的な言葉ではない。
ルールを破るほどではない。
でも、ただの初対面では交わさない言葉だった。
スマートフォンが震えたのは、電車に乗ってからだった。
「今日はありがとうございました。お誘いいただけて、本当にうれしかったです」
紬はその文面を見て、しばらく動けなかった。
本当にうれしかったです。
彼は最近、ちゃんと言葉にする。
曖昧にせず、伝わる形にしてくる。
それが今の榊なのだとしたら、
紬はまだ、その変化に慣れきれていなかった。
少し迷ってから、返信する。
「こちらこそありがとうございました。私も、うれしかったです」
送信してから、胸の奥が静かに熱を持つ。
同じ言葉を返しただけなのに、
それは思っていたよりずっと特別だった。
知らないふたりとして始めたはずなのに、
知らないままではいられなくなってきている。
でも、知っていると言うにはまだ早い。
その曖昧な場所で、
2人は少しずつ近づいていた。




