第三話 知らないふりのやさしさ
二度目に会う約束は、思っていたよりも早く決まった。
前回と同じように、榊から届いた短いメッセージ。
仕事帰りに、軽く食事でもどうですか――それだけの、控えめな誘いだった。
紬は少し迷ってから、了承の返事を送った。
迷う理由は、会いたくないからではない。
むしろ逆だった。
会うたびに、少しずつ距離が変わっていく気がする。
その変化がうれしい。
でも同時に、怖くもあった。
前より自然に話せるようになってしまったら。
前より心地よいと思ってしまったら。
その先で、どこまで知らないふりを続けられるのだろう。
待ち合わせは、駅近くの小さな和食店だった。
落ち着いた照明の店内は静かで、カウンター越しに料理人の手元が見える。
榊は先に着いていて、紬の姿を見つけると立ち上がった。
「こんばんは」
「こんばんは」
もうその挨拶だけで、前回より少しだけ空気がやわらかい。
席について、飲み物を頼む。
榊はビール、紬は梅酒のソーダ割りを選んだ。
「お酒、飲まれるんですね」
榊がそう言ってから、ほんのわずかに言葉を止めた。
紬はその間に気づく。
たぶん彼は、昔の自分を思い出しかけたのだ。
付き合っていた頃、紬はあまり酒に強くなかった。
外で飲むときは、たいてい一杯でやめていた。
榊もそれを知っていた。
けれど今は、知らないふりをするしかない。
「たまにです。強くはないですけど」
「そうなんですね。無理はしないでください」
「ありがとうございます」
やさしい言い方だった。
昔も彼はやさしかった。
でもあの頃のやさしさは、もっと近くて、もっと無造作だった気がする。
グラスが空けば勝手に次を聞いて、
少し顔色が変われば、もうやめておけばと言ってくるような、
恋人だからできる種類のやさしさだった。
今のやさしさは違う。
一歩引いた場所から、相手の領域を尊重するようなやさしさだ。
それが少し寂しくて、
でも、今の2人には必要な距離なのだとも思う。
料理が運ばれてくると、会話は自然と食べ物の話になった。
旬の魚、出汁の味、最近よく外食するかどうか。
前回よりも話題が広がって、沈黙の時間が減っている。
「朝倉さんは、休みの日って何をしてることが多いんですか」
榊がそう尋ねる。
紬は箸を置いて少し考えた。
「家で本を読んだり、少し出かけたりですかね。展示を見に行くこともあります」
「展示」
「写真展とか、小さめの企画展とか。静かな場所のほうが好きで」
「わかる気がします」
「榊さんは?」
「僕は……仕事で建物を見ることが多いので、休みの日まで意識して見に行くことは減りました。でも、街を歩くのは好きです」
「街を歩く」
「はい。目的を決めずに歩いて、気になった店に入ったり、古い建物を見たり」
その答えに、紬は少しだけ意外な気持ちになる。
昔の榊は、休みの日でも仕事に近いことをしていた。
建築雑誌を読んだり、有名な建物を見に行ったり、新しいカフェの内装を気にしたり。
それが悪いわけではなかったけれど、いつも少し張りつめているようにも見えた。
今の彼は、前より少しだけ力が抜けている。
「いいですね」
「そうですか?」
「はい。ちゃんと休んでる感じがします」
「それは褒め言葉として受け取っていいんでしょうか」
「たぶん」
紬がそう言うと、榊は小さく笑った。
その笑い方につられて、紬も笑う。
こんなふうに同じタイミングで笑うのは、いつぶりだろうと思った。
会話が途切れたとき、店内に流れる静かな音楽が耳に入る。
気まずい沈黙ではなかった。
ただ、少しだけ落ち着く間だった。
榊が湯のみを持ち上げながら、ふと紬を見る。
「朝倉さんは、言葉を選ぶのが上手ですね」
不意の言葉に、紬は目を瞬かせた。
「そうですか?」
「はい。話していて、ちゃんと考えて返してくれている感じがします」
「編集の仕事をしてるからかもしれません」
「それもあるかもしれません。でも、たぶんそれだけじゃない」
紬は返事に迷った。
そんなふうに言われたことは、あまりなかった。
少なくとも、榊からは。
昔の彼は、紬の言葉を受け取ってはいた。
でも、それを改めて言葉にして返してくることは少なかった。
今は違う。
ちゃんと見て、ちゃんと伝えようとしている。
それがうれしい。
うれしいのに、少しだけ遅いとも思ってしまう。
今さら、と思う。
でも、今だからなのかもしれないとも思う。
「ありがとうございます」
結局、それだけしか言えなかった。
榊はそれ以上踏み込まず、「こちらこそ」とでも言うみたいに、静かにうなずいた。
食事を終えて店を出ると、夜風が少し涼しかった。
昼間の暑さが嘘みたいにやわらいでいる。
駅までの道を並んで歩く。
肩が触れるほど近くはない。
でも、離れすぎてもいない。
その距離が、今の2人らしかった。
「この前より、話しやすかったですね」
紬が言うと、榊は少し驚いたようにこちらを見た。
「僕も同じことを思っていました」
「よかったです」
「慣れてきたんでしょうか」
「どうなんでしょう」
「それとも、油断してきたのかもしれません」
「それは少し危ないですね」
紬がそう返すと、榊は笑った。
「たしかに」
「ルール、ありますし」
「ありますね」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
忘れていたわけではない。
ただ、さっきまで少しだけ自然に笑いすぎていたのかもしれない。
前のことは話さない。
知っていることがあっても、知らないふりをする。
破ったら終わり。
その約束は、今もちゃんと2人のあいだにある。
「でも」
榊が静かに言った。
「知らないふりをするのって、思っていたより難しいですね」
紬は足を止めそうになるのをこらえた。
「……そうですね」
「知っていることがあると、つい先回りしそうになる」
「わかります」
「でも、それをしないようにしてると、前よりちゃんと見ようとするんです」
紬は黙ったまま、彼の横顔を見る。
榊は前を向いたまま続けた。
「前は、わかったつもりになっていたことが多かったのかもしれません」
その言葉は、ぎりぎりだった。
過去に触れているようで、まだ触れていない。
ルールの境界線の上を、慎重に歩いているみたいだった。
紬の胸が、静かに痛む。
「知ってるから大丈夫だって、勝手に思ってしまうことってありますよね」
「……ありますね」
「でも本当は、ちゃんと聞かないとわからないことばかりで」
紬は小さく息を吸った。
それ以上言われたら、たぶん苦しい。
でも、聞いていたかった。
「朝倉さんのことも」
榊がそこで言葉を切る。
紬は思わず彼を見る。
榊は少しだけ困ったように笑った。
「いえ、すみません。今のは忘れてください」
忘れられるわけがない、と思った。
けれど紬は何も言わなかった。
駅の改札が見えてくる。
このまま別れれば、たぶん今日も無事に終わる。
そう思ったときだった。
歩道の端で、紬の足がわずかに止まる。
ヒールの先が、石畳の継ぎ目に引っかかったのだ。
ほんの小さなよろめきだった。
けれど次の瞬間、榊の手が反射的に紬の腕を支えていた。
強くではない。
でも迷いのない、あまりにも自然な動きだった。
紬の呼吸が止まる。
近い。
近すぎる。
腕に触れた手の温度が、そこだけはっきりと伝わってくる。
榊も同じように息を止めたようだった。
「あ……」
先に手を離したのは榊だった。
「すみません」
「いえ……ありがとうございます」
声が少しだけ上ずる。
今のは、ただ危なかったから支えただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思おうとするのに、胸の奥が落ち着かない。
昔なら、こんなふうに触れられることは当たり前だった。
当たり前すぎて、いちいち意識なんてしなかった。
でも今は違う。
今の2人にとって、触れることはもう当たり前ではない。
知らないふたりとして積み上げてきた距離が、
たった一瞬の反射で揺らいでしまう。
「大丈夫ですか」
「はい。ちょっと引っかかっただけなので」
「よかった」
榊の声も、少しだけ硬かった。
改札前に着くと、2人は立ち止まる。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「気をつけて帰ってください」
「榊さんも」
それだけのやり取りなのに、さっきの一瞬がまだ消えない。
紬は改札を抜けてから、一度だけ振り返りそうになった。
でも、しなかった。
電車に乗って、ドア横にもたれる。
腕に残る感覚を振り払うみたいに、そっと息を吐いた。
スマートフォンが震えたのは、発車して少ししてからだった。
「今日はありがとうございました。大丈夫そうでよかったです」
紬はその文面を見つめる。
きっと、さっきのことを言っているのだろう。
それ以上は何も書かれていない。
触れたことにも、驚いたことにも、何ひとつ。
それが榊らしいと思った。
そして、自分たちらしいとも思った。
紬は少し迷ってから返信する。
「ありがとうございました。助かりました」
送信して、短すぎたかもしれないと思う。
でも、ほかに書けることがなかった。
助かりました。
その一言の中に、
ありがとうも、
驚いたも、
意識してしまったも、
全部押し込めるしかなかった。
窓に映る自分の顔は、少しだけ赤かった。
知らないふりをすることは、
思っていたよりずっとやさしいのかもしれない。
触れないことで守られるものがある。
言わないことで壊れずに済むものがある。
でも同時に、
知らないふりをしているからこそ、
たった一度の接触がこんなにも大きくなってしまう。
やさしさは、ときどき残酷だ。
紬はスマートフォンを握りしめたまま、目を閉じる。
次に会ったとき、
今日のことを2人はきっと話さない。
何もなかったみたいに、
また苗字で呼び合って、
少しずつ今の相手を知っていくのだろう。
そのやさしさに甘えていいのか、
まだわからなかった。




