第二話 初対面の距離
榊から次の連絡が来たのは、三日後の夜だった。
「この前はありがとうございました。もしご都合が合えば、今度お茶でもどうですか」
短い文面だった。
余計なことは何も書いていない。
それなのに、紬はその一文を何度も読み返した。
お茶でもどうですか。
たったそれだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
昔なら、もっと気軽だった。
「今週空いてる?」
「仕事帰り寄れる?」
そんなふうに、用件だけで会えていた。
けれど今は違う。
初めて会ったふたりとして、距離を測りながら言葉を選ばなければならない。
紬はスマートフォンを伏せて、ソファに背中を預けた。
返事をするだけなのに、妙に緊張する。
断る理由はなかった。
むしろ、会いたかった。
けれど、会えばまた苦しくなることもわかっていた。
三日前の夜から、紬は何度もあの再会を思い返していた。
榊の声。
視線。
「今のあなたと会いたいんです」という言葉。
思い出すたびに、胸の奥が静かに波立つ。
しばらくしてから、紬はようやく短く返した。
「ありがとうございます。私も、お話しできたらうれしいです」
送信してから、少しだけ言い回しが堅すぎたかもしれないと思った。
けれど、すぐに既読がつく。
「よかったです。では、来週の金曜はいかがですか」
やり取りは驚くほど事務的だった。
それが今の2人にはちょうどいいのかもしれない。
待ち合わせは、会社帰りでも寄りやすい駅近くのカフェに決まった。
紬は予定を確認してから、スマートフォンを置く。
会う約束をしただけなのに、部屋の空気が少し変わった気がした。
金曜までの数日間、紬は仕事に集中しようとした。
原稿のチェックをして、取材先と連絡を取り、修正案をまとめる。
いつも通りの毎日だ。
それでも、ふとした瞬間に意識がそこへ戻る。
何を着ていこう。
どんな顔で会えばいいのだろう。
初めて会う相手に向ける笑い方なんて、もう忘れてしまった気がする。
当日、紬は仕事を終えると、会社の化粧室で鏡を見た。
疲れは少し顔に出ていたが、直しすぎるのも違う気がした。
リップだけ薄く塗り直して、髪を整える。
鏡の中の自分は、少しだけ落ち着かない顔をしていた。
待ち合わせのカフェは、駅前の通りから一本入った場所にあった。
ガラス張りの店内は明るく、仕事帰りらしい客でほどよく賑わっている。
榊は先に来ていた。
窓際の席で立ち上がる姿を見た瞬間、紬の心臓がひとつ大きく鳴る。
「こんばんは」
「こんばんは」
たったそれだけの挨拶なのに、ぎこちなさが残る。
けれど三日前よりは、少しだけましだった。
「お仕事、お疲れさまでした」
「ありがとうございます。榊さんも」
「僕は少し早く終わったので」
向かい合って座る。
店員が水を置き、注文を取りに来るまでの短い沈黙が、妙に長く感じられた。
紬は紅茶を頼み、榊はコーヒーを頼んだ。
その瞬間、紬はほんの少しだけ視線を上げる。
彼も同じタイミングでこちらを見て、すぐに目をそらした。
たぶん、お互い同じことを思い出したのだ。
昔、紬はブラックコーヒーしか飲まなかった。
榊は甘いカフェラテばかり頼んでいた。
今は逆ではないにしても、少なくともあの頃とは違う。
変わったのだ。
三年あれば、人は少しずつ変わる。
「こうして会うの、変な感じですね」
先に口を開いたのは榊だった。
紬は小さく笑う。
「そうですね。まだ少し慣れません」
「僕もです」
「でも……思ったより普通かもしれません」
「普通、ですか」
「はい。もっと気まずいかと思っていました」
榊は少しだけ目を細めた。
「それはよかったです」
その言い方がやわらかくて、紬は少しだけ肩の力を抜いた。
飲み物が運ばれてくる。
湯気の立つカップを前にして、ようやく会話のきっかけができた気がした。
「お仕事、忙しいですか」
「時期によりますけど、今は比較的落ち着いてます。朝倉さんは?」
「今月は取材が多くて、少しばたばたしてます」
「編集のお仕事って、締切が大変そうですね」
「大変です。だいたい締切に追われてます」
「少し想像できます」
そんなふうに、当たり障りのない話を重ねていく。
仕事のこと。
通勤のこと。
最近できた駅前の商業施設のこと。
暑くなってきた季節のこと。
会話は途切れそうで、途切れない。
慎重だけれど、不自然なほどではない。
紬は紅茶に口をつけながら、榊の話し方が少し変わったことに気づいていた。
昔より間を取るようになった。
相手の返事を急かさない。
言葉を選ぶ時間を、ちゃんと待つようになっている。
それはたぶん、彼が大人になったということなのだろう。
あるいは、最初からそういう人だったのに、あの頃の2人には余裕がなかっただけかもしれない。
「朝倉さんは、どうして編集の仕事を?」
その質問に、紬は一瞬だけ目を上げた。
榊が、自分の仕事についてこんなふうに聞いてくるのは初めてだった。
付き合っていた頃、彼は紬の仕事に無関心だったわけではない。
忙しそうだね、と言ったことはある。
大変そうだね、と気づかってくれたこともある。
けれど、それだけだった。
何を書いているのか。
どんな言葉を扱っているのか。
どうしてその仕事を選んだのか。
そんなことを、彼は一度も聞かなかった。
それを寂しいと思ったことがなかったわけではない。
でもあの頃は、お互いに自分のことで精一杯だった。
踏み込まれないことに、どこかで安心していた気もする。
なのに今、初めて会った相手みたいな顔で、榊はそれを尋ねている。
興味の向け方が変わったのだろうか。
三年という時間がそうしたのか。
それとも、初めて会ったことにするというこの関係が、彼をそうさせているのか。
紬にはわからなかった。
ただ、少しだけうれしいと思ってしまった。
恋人だった頃には向けられなかった関心を、
他人として向けられている。
それは少しだけ皮肉で、
少しだけ苦しくて、
でも、たしかにうれしかった。
過去の上に今があるのは、当たり前のことだった。
三年前に別れたことも、
あの頃に交わした言葉も、
うまくいかなかった理由も、
何ひとつ消えてはいない。
忘れたわけではない。
なかったことにできるはずもない。
けれど、過去があるからこそ、
今の相手を見たつもりになってしまうことがある。
この人はこういう人だと、
もう知っているのだと、
わかっているのだと、
勝手に決めつけてしまう。
そうやって、見えなくなるものがある。
見ようとしなくなる今がある。
ゼロから始めるわけではない。
そんなことはできない。
それでも、
過去に触れずに今の相手を見直して、
知り直して、
もう一度関係を作っていくことは、
できるのかもしれなかった。
「文章に関わる仕事がしたかったんです」
そう答えると、榊は静かにうなずいた。
「昔から本がお好きだったんですか」
その問いに、紬は一瞬だけ息を止めた。
昔から。
その言葉が、思った以上に近いところへ触れてくる。
けれど榊もすぐに気づいたのか、ほんのわずかに表情を曇らせた。
「すみません。変な聞き方でした」
「いえ」
紬は小さく首を振る。
「好きでした。本も、言葉も。たぶん、昔から」
最後の一言に、自分で少しだけ驚く。
今のは、ぎりぎりだったかもしれない。
榊は何も言わなかった。
ただ、静かにうなずいた。
危うい。
そう思う。
会話は普通に続いているのに、ときどきこうして、過去の輪郭がすぐそばまで浮かび上がってくる。
少しでも手を伸ばせば触れてしまいそうな距離にある。
「榊さんは、どうして建築の仕事を?」
紬はそう尋ね返した。
榊は少しだけ考えてから、カップに手を添えたまま答える。
「形に残るものを作りたかったんです」
「形に残るもの」
「はい。人が毎日使う場所とか、帰っていく場所とか。そういうものに関わる仕事がしたくて」
紬は静かにうなずいた。
その答えは、昔の彼が言いそうでいて、少し違っていた。
前ならもっと、設計そのものの面白さや、空間の話をした気がする。
今の彼は、その先にいる人のことを先に口にした。
それが少し意外で、少しだけうれしかった。
「素敵ですね」
「そう言ってもらえるとうれしいです」
榊はそう言って、少しだけ照れたように笑った。
その笑い方は、変わっていなかった。
変わっていないところを見つけるたび、安心する。
でも同時に、変わったところにも気づいてしまう。
その両方があるから、たぶん苦しいのだ。
「このお店、よく来るんですか」
紬は話題を変えるように尋ねた。
「いえ、初めてです。駅から近くて入りやすそうだったので」
「そうなんですね」
「朝倉さんは?」
「私も初めてです」
「じゃあ、本当にちょうどよかった」
本当に。
その言葉に、紬は少しだけ救われる。
初めての店。
初めての待ち合わせ。
初めてみたいな会話。
全部が作りもののようでいて、全部が今この瞬間の本当でもある。
カフェを出るころには、外はすっかり夜になっていた。
駅前の灯りが歩道を白く照らしている。
「ありがとうございました」
店の前で、榊が言う。
「こちらこそ」
「少し安心しました」
「安心?」
「ちゃんと話せたので」
紬はその言葉に、少しだけ笑った。
「私もです」
「よかった」
そこで会話が途切れる。
駅はすぐそこだ。ここで別れてもおかしくない。
けれど榊は少しだけ迷うような間を置いてから、静かに言った。
「もしよければ、また」
その続きが出るまでの数秒が、ひどく長く感じられた。
「また、お茶でも」
紬は彼を見た。
まっすぐすぎない視線。
押しつけるでもなく、引くでもない声。
断られても仕方ないと思いながら、それでも聞いている顔だった。
「はい」
気づけば、そう答えていた。
「ぜひ」
榊の表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
また同じ言葉を交わす。
それなのに、三日前より少しだけ自然だった。
駅の改札前で別れ、紬はひとりでホームへ向かった。
電車を待つあいだ、ガラスに映る自分の顔を見る。
少しだけ、やわらかい顔をしていた。
会ってよかったのだと思う。
苦しかったけれど、それだけではなかった。
知らないふりをして話す時間の中で、確かに今の彼を見ていた。
昔の榊恒一ではなく、
今、目の前にいる榊さんを。
スマートフォンが震えたのは、電車に乗ってからだった。
「今日はありがとうございました。紅茶、おいしそうでした」
紬は思わず画面を見つめる。
そんなことを言うのか、と思った。
もっと事務的な文面が来ると思っていたのに。
少し迷ってから、紬は返信する。
「ありがとうございました。コーヒー、似合ってました」
送ってから、しまった、と思った。
似合ってました、なんて、少し変だったかもしれない。
けれどすぐに返信が来る。
「それは初めて言われました」
紬は小さく笑った。
電車の揺れに合わせて、胸の奥の緊張も少しずつほどけていく。
初めて会ったふたりとして過ごすには、まだ近すぎる。
けれど、遠すぎるわけでもない。
その曖昧な距離が、今は少しだけ心地よかった。
知らないふりをしているのに、
前よりも丁寧に相手を見ている気がする。
それが正しいことなのかは、まだわからない。
ただ、次も会いたいと思ってしまった。
それだけで、十分に危うかった。




