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第一話 再会とルール

第1話 再会とルール


友人に紹介された相手の名前を聞いた瞬間、紬は手にしていたグラスを落としそうになった。


「榊さん。建築の仕事をしてるの。前から話してたでしょ、感じのいい人だって」


隣で笑う友人の声が、少し遠く聞こえる。


顔を上げると、テーブルの向こうに座る男と目が合った。


その一瞬で、時間が止まった気がした。


変わっていない、と思った。

いや、変わっていた。髪は少し短くなって、輪郭は前よりもすっきりしている。昔より落ち着いた色のシャツが似合っていて、笑う前にほんの少しだけ目を細める癖も、前より静かになっていた。


けれど、紬は知っている。

その目が、驚いたときにほんのわずかに揺れることを。

何かを飲み込むとき、右の口角だけが少し遅れて上がることを。


榊恒一は、紬のことを見ていた。

彼もまた、同じように一瞬だけ息を止めたようだった。


だが、それは本当に一瞬だった。


次の瞬間には、初対面の相手に向けるような、礼儀正しく穏やかな笑みに変わっている。


「はじめまして。榊です」


その声を聞いた途端、胸の奥が鈍く痛んだ。


紬は自分の指先に力を入れた。ここで顔に出したら終わる。何が終わるのかもわからないまま、とにかく平静を装わなければいけない気がした。


「……はじめまして。朝倉です」


ちゃんと笑えていただろうか。

声は震えていなかっただろうか。


友人たちは何も気づかず、楽しそうに会話を続けている。


「朝倉ちゃん、編集の仕事してるんだよね?」

「そうなんです。広告まわりの原稿とか、インタビューの構成とか」

「へえ、すごい。榊さんもものづくり系だから、話合うかも」


話が振られるたびに、紬は慎重に言葉を選んだ。

榊も同じだった。


仕事のこと。

休日の過ごし方。

最近よく行く店。

好きな映画。


どれも、初対面の男女が無難に交わす会話だった。


なのに、ひとつひとつが苦しかった。


好きな映画を聞かれて、彼が少し考えてから「最近は静かな作品を観ることが多いですね」と答える。

昔はアクション映画ばかり観ていたくせに、と思う。

でも、それを知っている理由は言えない。


紬がコーヒーは苦手で、と答えると、彼の視線がほんの少しだけ揺れた。

昔はブラックしか飲まなかったのに、とたぶん彼も思ったのだろう。

けれど彼は何も言わず、「じゃあ紅茶派ですか」とだけ返した。


知らないふりをするには、知りすぎていた。


食事会は和やかに進んだ。

友人の恋人の同僚、そのまた友人、という曖昧なつながりの集まりで、誰も深いことは聞いてこない。

それがありがたかった。


紬は笑って、相槌を打って、料理を取り分けて、普通にその場をやり過ごした。

けれど意識の半分以上は、向かい側に座る榊に向いていた。


箸の持ち方。

水を飲むタイミング。

誰かの冗談に笑うときの、少し遅い反応。


忘れたと思っていたものが、ひとつずつ胸の奥から浮かび上がってくる。


別れてから、もう三年が経っていた。


長いようで、短かった。

短いようで、二度と会わないには十分な時間だった。


紬は、もう会うことはないと思っていた。

会わないほうがいいとも思っていた。


嫌いになって別れたわけではない。

むしろ、好きだったからこそ続けられなかった。


一緒にいるほど、相手の不安を自分のものみたいに抱え込んでしまう関係だった。

支えたいのに、支えられたい。

わかってほしいのに、言葉にできない。

近づくほど苦しくなって、最後には、好きだけではどうにもならなくなった。


あの別れは間違っていなかったと、何度も自分に言い聞かせてきた。


それなのに、目の前にいる彼を見ているだけで、その言い聞かせが簡単に揺らぐ。


会が終わるころには、紬はひどく疲れていた。

気を張りすぎたせいで、肩が重い。


店の前で友人たちが次の予定の話をしているあいだ、紬は少し離れた場所でスマートフォンを見ているふりをした。

夜風が頬に当たる。初夏の湿った空気が、火照った体にまとわりつく。


「朝倉さん」


呼ばれて顔を上げる。


榊が立っていた。


他人行儀な呼び方に、胸の奥がまた小さく痛む。


「少し、いいですか」


断る理由はなかった。

紬は黙ってうなずき、店先から少し離れた街灯の下まで歩いた。


人通りはあるのに、その場所だけ妙に静かだった。

店の明かりも、笑い声も、少し遠い。


榊はすぐには話さなかった。

何かを選ぶように視線を落とし、それから静かに口を開く。


「驚かせてしまって、すみません」


紬は小さく首を振った。


「……私も、驚いたので」


それだけ言うのが精一杯だった。


彼は少しだけ苦く笑った。

その表情があまりにも見慣れていて、紬は目をそらしたくなる。


「こういう再会の仕方、あるんですね」

「そうですね」

「正直、まだうまく整理できていません」


その言葉に、紬は少しだけ救われた。

自分だけが動揺しているわけではないのだとわかって。


沈黙が落ちる。


言いたいことはたくさんあるはずなのに、何ひとつ言えない。

元気だった、とも。

久しぶり、とも。

どうしてるの、とも。


どれも、今ここで口にしてはいけない気がした。


榊が先に息をついた。


「ひとつ、提案があるんです」


紬は彼を見る。


街灯の光が横顔を淡く照らしていた。

昔より少しだけ大人びたその顔が、ひどく遠く見える。


「もし、また会うなら」


そこで彼は一度言葉を切った。


「今日、初めて会ったことにしませんか。知らないふたりとして」


紬は意味を理解するまでに数秒かかった。


「……初めて?」

「はい」


彼の声は静かだった。

けれど、その静けさの奥に緊張があるのがわかった。


「前のことは話さない。あの頃のお互いのことも、口にしない。知っていることがあっても、知らないふりをする」

「どうして」

「過去の続きとして会ったら、たぶんまた同じところで立ち止まる気がするからです」


紬は何も言えなかった。


彼の言うことは、わかる気がした。

あの頃の2人には、良かったことも悪かったことも、積み重なりすぎている。

再会した瞬間にそれを全部抱え直したら、きっとまた身動きが取れなくなる。


「今のあなたと会いたいんです」


その言葉に、紬は息を止めた。


まっすぐ見つめられている。

昔のようで、昔とは違う目だった。


「朝倉さんとして、今のあなたと知り合いたい」

「……それで、何になるんですか」

「わかりません」

榊は少しだけ笑った。

「でも、何もしないまま終わるよりはいいと思った」


紬は唇を噛みそうになるのをこらえた。


ずるい、と思う。

そんな言い方をされたら、断れない。


本当は、会いたかった。

もう一度話したかった。

できることなら、やり直したいとさえ思っていた。


でも、それを認めるのが怖かった。


「ルールを決めましょう」


気づけば、そう言っていたのは紬のほうだった。


榊が目を上げる。


「前に付き合っていたことは言わない」

「はい」

「あの頃のお互いのことも話さない」

「はい」

「もし、どちらかが破ったら」


そこで紬は一度息を吸った。


「その時点で、終わりにする」


榊は少しだけ目を見開いた。

けれど、すぐに静かにうなずく。


「わかりました」


あっさりした返事だった。

それが逆に、約束の重さを際立たせた。


冗談ではない。

曖昧な取り決めでもない。

本当に、破ったら終わりなのだ。


紬は自分で言っておきながら、胸の奥が冷えるのを感じた。


「……いいんですか」

「いいです」

「厳しいですね」

「そのくらいじゃないと、守れない気がするので」


榊は少し黙ってから、「そうですね」と言った。


また沈黙が落ちる。


けれどさっきまでの沈黙とは違っていた。

何も言えない沈黙ではなく、言わないと決めた沈黙。


それがこんなにも重いなんて、紬は知らなかった。


「じゃあ」


榊が、ほんの少しだけ姿勢を正した。


「改めて。はじめまして、朝倉さん」


紬は思わず笑いそうになった。

泣きそうにもなった。


こんなにおかしな挨拶があるだろうか。

何度も名前を呼んだ相手に、今さら初めましてなんて。


それでも紬は、ちゃんと彼を見た。


「はじめまして、榊さん」


その瞬間、何かが始まってしまった気がした。


友人たちのところへ戻ると、誰も2人の不在を気にしていなかった。

次はみんなでどこへ行くか、そんな話で盛り上がっている。


「連絡先、交換した?」

「え、まだなら今しなよ」

「せっかくだしね」


無邪気な後押しに、紬は一瞬だけためらった。

けれど榊は自然な顔でスマートフォンを取り出す。


「よかったら」


差し出された画面を見つめながら、紬は自分の連絡先を送った。


名前が表示される。

朝倉紬。


その文字列を彼の画面で見るのが、妙に新鮮だった。

昔はもっと気軽に、何度も通知欄に並んでいた名前なのに。


「ありがとうございます」

「こちらこそ」


それだけのやり取りが、ひどくぎこちない。


解散して、駅までの道をひとりで歩く。

友人は別方向で、紬は夜の街に取り残されたみたいな気分になった。


スマートフォンが震えたのは、改札を抜けたあとだった。


画面を見る。

新着メッセージ。


榊さん、という表示名に、胸がざわつく。


開くと、短い文がひとつだけあった。


「今日はありがとうございました。気をつけて帰ってください」


紬は立ち止まった。


たったそれだけ。

どこまでも礼儀正しくて、他人行儀で、初対面らしい文面。


なのに、昔もらったどんな長いメッセージより苦しかった。


ホームに滑り込んできた電車の風が、前髪を揺らす。

紬はしばらく画面を見つめたまま、返信できなかった。


何を書けばいいのかわからない。


久しぶり、は違う。

会えてうれしかった、も違う。

また会いたい、なんてもっと言えない。


考えた末に、紬は同じくらい短い文を返した。


「こちらこそ、ありがとうございました。おやすみなさい」


送信したあとで、ひどく味気ないと思った。

でも、それでよかったのだとも思う。


初めて会ったふたりなら、きっとこのくらいでいい。


電車に乗り込み、窓に映る自分の顔を見る。

思ったより疲れた顔をしていた。


三年前、あんなふうに終わった恋が、こんな形で戻ってくるなんて思わなかった。


戻ってきた、という言い方すら正しくないのかもしれない。

これは続きではない。

続きにしてはいけないのだ。


今日、初めて会ったことにする。

前のことは話さない。

知っていることがあっても、知らないふりをする。

破ったら終わり。


自分で決めたくせに、ずいぶん残酷な約束だと思う。


けれど、あのまま何もなかったことにするよりはましだった。


紬はスマートフォンを握りしめた。

もう新しい通知は来ていない。


それでも画面を消せずにいる自分が、少し情けなかった。


会いたかったのだと思う。

ずっと、少しだけ。

認めないようにしていただけで。


電車が揺れる。

窓の外に流れていく夜の灯りを見ながら、紬はそっと目を閉じた。


次に会うときも、きっと苗字で呼ぶのだろう。

好きなものを知らないふりで尋ねるのだろう。

思い出を飲み込んで、今の相手だけを見ようとするのだろう。


そんなことが本当にできるのか、紬にはわからなかった。


ただひとつわかるのは、もう始まってしまったということだけだった。


初めて会ったことにした、その夜から。


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