第二十四話 見ないふりの終わり
あまり間を空けずに会おうと決めてから、
二人のやりとりは少しだけ変わった。
劇的に何かが変わったわけではない。
連絡の頻度が急に増えたわけでも、
以前のような気軽さがそのまま戻ったわけでもない。
ただ、
会う約束をすることに
前ほどためらわなくなった。
それだけのことなのに、
紬にはその変化が思っていた以上に大きかった。
会いたいと思う。
その気持ちを、
前より少しだけ隠さなくてよくなったからかもしれない。
もちろん、
まだ何も決まってはいない。
友人という名前のまま、
会う回数だけが少し増えただけだ。
でも、
その「だけ」で済ませられないものが、
二人のあいだには確かにあった。
平日の夜、
仕事を終えた紬は駅前のベンチで榊を待っていた。
今日は食事だけの約束だった。
遅い時間でも入れる店を選んで、
一時間半ほど一緒に過ごして、
それぞれ帰る。
それだけの予定だ。
それなのに、
榊の姿を見つけた瞬間、
胸の奥がやわらかくほどける。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「お待たせしました」
「いえ、私も今来たところです」
榊は少しだけ笑った。
「その言い方、最近よく聞きます」
紬も少し笑う。
「榊さんもです」
「そうですか」
「はい」
たぶん、
今日もお互い少し早く来ていた。
そういうことを、
もうわざわざ確かめなくてもいい気がしていた。
店に入ってからは、
いつも通りの会話が続いた。
仕事のこと。
最近少し忙しいこと。
駅ビルの催事が入れ替わったこと。
榊が昼休みに見つけた記事のこと。
話しているあいだ、
紬は何度も思う。
やっぱり、
会えると落ち着く。
その感覚はもう、
何度確かめても変わらなかった。
食事を終えたあと、
店を出ると夜風が少し冷たかった。
「少し歩きますか」
榊が言う。
紬は小さくうなずく。
「はい」
駅までの道を、
二人はゆっくり歩く。
前より会う回数は増えた。
会えたあとの寂しさも、
少しだけやわらいだ気がする。
でも、
なくなったわけではない。
むしろ、
会うたびに確かめてしまう。
この人といると落ち着く。
会えるとうれしい。
別れたあとも長く残る。
それを何度も繰り返して、
それでもまだ
友人という名前だけで整えようとするのは、
もう無理があるのではないか。
そんな考えが、
最近の紬の中にはずっとあった。
「朝倉さん」
「はい」
「少し、顔色がよくないです」
紬は思わず笑う。
「そんなにですか」
「少し考えごとをしている顔です」
「それは、たぶん合ってます」
榊はそれ以上急かさなかった。
ただ、
歩幅を少しだけゆるめる。
そのやさしさに、
紬は胸の奥が静かに痛むのを感じた。
やさしい。
丁寧だ。
ちゃんと向き合おうとしてくれている。
だからこそ、
もう曖昧なままではいたくなかった。
「榊さん」
紬は足を止めた。
榊も立ち止まる。
人通りの少ない歩道の端で、
夜の空気だけが静かに流れていく。
「この前から、ずっと考えていました」
「……」
「友人として会うって決めたこと」
榊は静かにうなずく。
「はい」
「間違いだったとは思っていません」
「……」
「必要だったとも思います」
「はい」
「でも」
紬は少しだけ息を整えた。
「もう、それだけでは無理みたいです」
榊の表情が、
ほんのわずかに変わる。
驚いたというより、
ついに来たものを受け止めたような顔だった。
「無理、というのは」
榊が静かに聞く。
紬は視線をそらさなかった。
「会わない時間に慣れようとしても、
うまくいきませんでした」
「……」
「会えばうれしいし、
帰ったあとも長く残るし、
次を待ってしまいます」
榊は何も言わない。
でも、
その沈黙は逃げていなかった。
「友人なら、
もっと平気でいられると思っていました」
紬は続ける。
「でも、私はそうじゃなかったです」
「……」
「会えるだけでいい、みたいに
きれいには思えませんでした」
言ってしまった、と思った。
でも同時に、
ようやく本当のところまで来られた気もした。
榊はしばらく黙っていた。
街灯の光が、
その横顔を静かに照らしている。
「朝倉さん」
「はい」
「ありがとうございます」
紬は目を瞬く。
「え」
「言いにくいことを、
ちゃんと言ってくれて」
その声は低く、
でもはっきりしていた。
「僕も」
榊は続ける。
「同じことを考えていました」
紬の胸が、
静かに強く鳴る。
「同じこと」
「はい」
「友人として会うのは、
間違いではなかったと思います」
「……」
「必要だったとも思います」
紬はさっき自分が言ったのと
ほとんど同じ言葉だと気づく。
そのことが、
なぜか少しだけ苦しくて、
でもうれしかった。
「でも」
榊は言う。
「このまま、その名前のままでいるのは
たぶん違うと思いはじめていました」
「……」
「会うたびに、
帰るたびに、
次を待つ自分がいるので」
紬は息を止めた。
次を待つ自分。
それを榊の口から聞くのは、
思っていた以上に胸に響いた。
「僕は」
榊は少しだけ目を伏せる。
「前みたいに戻りたい、という言い方を
簡単にはしたくなかったです」
「はい」
「同じことを繰り返したくなかったので」
「……」
「でも、
慎重でいることと、
気づかないふりを続けることは
違うんだと思います」
紬はその言葉を聞いて、
胸の奥が熱くなるのを感じた。
慎重でいることと、
気づかないふりを続けることは違う。
それは、
ずっと二人が境目にしてきたものだった。
急がないこと。
雑に進めないこと。
ちゃんと話すこと。
その全部を大事にしてきたからこそ、
ここまで来られた。
でも今はもう、
その丁寧さを理由に
本当の気持ちを先延ばしにする段階ではない。
「私も」
紬は小さく言う。
「そう思います」
榊は静かにうなずいた。
少しだけ風が吹く。
紬は指先が冷えていることに気づいた。
「榊さん」
「はい」
「私は」
紬は一度だけ息をつく。
「まだ、榊さんとちゃんと近くなりたいです」
榊の目が、
ほんの少しだけ揺れる。
「友人としてではなく」
紬は続ける。
「もう少し別の名前で」
言い切ったあと、
胸が少しだけ苦しくなる。
でも、
不思議と後悔はなかった。
榊はすぐには答えなかった。
その沈黙は長く感じたけれど、
逃げている沈黙ではなかった。
やがて、
彼は静かに言った。
「僕もです」
紬は息を止める。
「朝倉さんと、
もう一度ちゃんと近くなりたいです」
「……」
「ただ」
榊は言葉を選ぶように少し間を置く。
「前と同じ戻り方はしたくないです」
紬は小さくうなずく。
「はい」
「気持ちだけで進めるのではなくて」
「……」
「前よりちゃんと話して、
前よりちゃんと確かめながら、
近づきたいです」
その言葉に、
紬の胸の奥がやわらかくほどける。
それは、
勢いの告白ではなかった。
でも、
だからこそ信じられる言葉だった。
「私も」
紬は言う。
「同じです」
「……」
「前みたいに、
わかったつもりで進みたくないです」
榊は少しだけ目を細めた。
「はい」
「ちゃんと話して、
ちゃんと大事にしたいです」
「僕もです」
そのやりとりのあと、
二人のあいだに落ちた沈黙は
不思議なくらいやわらかかった。
まだ何も正式には決まっていない。
でも、
もう見ないふりは終わったのだとわかる。
改札が近づく。
いつもなら別れの時間が近づくほど
少し寂しくなった。
でも今日は違った。
終わる感じがしない。
むしろ、
ここから始まるものがある気がした。
「今日は」
榊が言う。
「話せてよかったです」
「私もです」
「かなり」
紬は少しだけ笑う。
「そこは強く言うんですね」
「大事なことなので」
「そうですか」
「はい」
二人は少しだけ笑った。
改札の前で立ち止まる。
人の流れはいつも通りなのに、
二人のあいだの空気だけが少し違っていた。
「次」
榊が言う。
「また、近いうちに会えますか」
紬はうなずく。
「はい」
「今度は」
榊は少しだけ迷ってから続ける。
「もう少し、これからのことを話したいです」
紬はその言葉に、
静かに胸が熱くなるのを感じた。




