表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/25

第二十五話 尊重の先へ

待ち合わせの場所に向かう足取りが、

こんなにも落ち着かないのは久しぶりだった。


紬は駅の改札を抜けながら、

自分でも少し呆れる。

時間に遅れているわけではない。

むしろ少し早いくらいだ。

それなのに、

胸の奥だけがずっと静かに騒がしい。


ここまで来るあいだに、

何度も考えた。


今日は、

たぶん大事な話になる。


そう思う理由は、

はっきりしていた。


このところの二人は、

会うたびに少しずつ

ごまかせないところまで来ていた。


友人として会うことはできる。

ちゃんと話せるし、

笑えるし、

一緒にいる時間は今も心地いい。


でも、

その名前だけでは整わないものがあることを、

もう二人とも知っている。


会えない時間が長く感じること。

会えたあとほど、次までが遠く感じること。

少し間を空けないほうがいいと、

どちらからともなく思いはじめていること。


それらを全部抱えたまま、

友人という言葉だけで

きれいに収めるのは難しかった。


改札の近くで榊の姿を見つけた瞬間、

紬の胸は小さく揺れた。


「こんばんは」

「こんばんは」

榊はいつも通りの声で言った。

それだけで、

少しだけ呼吸が楽になる。


「お待たせしていませんか」

「してないです」

紬は少し笑う。

「私も今来たところなので」

榊も少しだけ笑った。

「そうですか」

「はい」


たぶん、

今日もお互い少し早く来ていた。

でもそのことには触れない。


店に向かう道すがら、

最初の会話はいつも通りだった。


仕事のこと。

最近少し忙しかったこと。

駅前の工事がようやく終わりそうなこと。


話せばちゃんと落ち着く。

そのことが、

今日はかえって切実だった。


この落ち着きがあるからこそ、

ここまで来たのだと思う。


食事を終えて、

二人は店を出た。


夜風は少し冷たかったが、

真冬ほどではない。

歩きながら、

紬は隣の気配を静かに意識していた。


このまま改札まで行けば、

たぶん今日も

何かを言わないまま別れることはできる。


でも、

それではもう足りないのだと、

今日ははっきりわかっていた。


「朝倉さん」

榊が先に口を開いた。

「はい」

「少し、話してもいいですか」

紬は小さくうなずく。

「私も、たぶん同じことを思っていました」

榊はその言葉に、

ほんの少しだけ目を伏せた。

「よかったです」


駅前の人通りから少し外れた場所で、

二人は足を止めた。


すぐ近くを人が通っていくのに、

その場所だけが少し静かだった。


榊はすぐには話し出さなかった。

言葉を選んでいるのがわかる。

その慎重さが、

紬にはありがたかった。


「友人として会うと決めたことを、

間違いだったとは思っていません」

榊がゆっくり言う。

「……はい」

「必要だったとも思っています」

紬は静かにうなずいた。


それは、

自分も同じだった。


あのとき、

曖昧なまま戻らなかったこと。

勢いで関係を決めなかったこと。

それはきっと、

二人にとって必要な時間だった。


「でも」

榊は続ける。

「そのあとでわかったことがあります」

紬は息を詰めるようにして、

次の言葉を待った。


「会わない時間が長く感じることも」

「……」

「会えたあとほど、次までが遠く感じることも」

「はい」

「たぶん、

見ないふりをしても消えないんだと思いました」


紬は胸の奥が熱くなるのを感じた。


見ないふりをしても消えない。


それは、

自分の中にずっとあった言葉でもあった。


「私もです」

紬は言う。

「友人として会うことはできるし、

それが嫌なわけでもないです」

「はい」

「でも、

それで落ち着くかと言われたら、

もう違う気がしています」

榊はまっすぐに紬を見た。

その視線から逃げたくないと思った。


「朝倉さん」

「はい」

「僕は、

もう一度ちゃんと向き合いたいです」

紬の指先が、

わずかに強く握られる。


榊は続けた。


「ただ、前と同じまま戻りたいわけではありません」

「……」

「前みたいに、

言わなくてもわかると思ったまま進むのは違うと思っています」

紬は小さくうなずく。

「はい」

「気を遣わないことを近さだと思って、

大事なことを後回しにするのも違う」

「……」

「だから」

榊は一度言葉を切った。

それから、

静かに、でもはっきりと言う。


「もし、もう一度やり直せるなら」

「……」

「今度は、

ちゃんと尊重し合える関係でいたいです」


その一言が、

紬の胸のいちばん深いところに落ちた。


尊重し合える関係。


それは派手な言葉ではなかった。

好きだとか、

離したくないとか、

そういうまっすぐな熱ではない。


でも、

今の二人には

何よりも必要な言葉だった。


前に足りなかったもの。

今、二人がようやく同じように大事だと思えるもの。

それを、

榊は逃げずに言葉にしてくれた。


紬は少しだけ目を伏せる。

泣きたいわけではないのに、

胸の奥が熱くて、

うまく息ができない。


「……うれしいです」

ようやく出た声は、

思っていたより小さかった。

榊は何も急かさず、

ただ静かに待っている。


「私も」

紬はゆっくり続ける。

「もう一度向き合いたいと思っていました」

榊の表情が、

ほんの少しだけやわらぐ。


「でも」

紬は言う。

「前と同じなら、たぶんまただめになる気がしていました」

「はい」

「好きなだけでは足りないことを、

一度知ってしまったので」

榊は静かにうなずいた。

「僕もです」

「だから」

紬は息を整える。

「ちゃんと話せることとか」

「……」

「わからないままにしないこととか」

「はい」

「相手の気持ちを、

自分の都合で決めつけないこととか」

榊はまっすぐに紬を見ていた。

「そういうことを、

今度は大事にしたいです」


言い終えたあと、

胸の奥が少しだけ震えた。


これはたぶん、

ただ復縁したいと言うよりも

ずっと怖いことだった。


条件をつけることではない。

でも、

願いだけで戻らないと決めること。

そのうえで、

それでも一緒にいたいと言うこと。


榊は少しだけ息をついて、

それから言った。


「はい」

「……」

「僕も、同じです」


その声は低く、

でも迷いがなかった。


「朝倉さん」

「はい」

「もう一度、

僕と付き合ってもらえますか」


紬はその言葉を聞いた瞬間、

胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。


ずっと待っていたのかもしれない。

でも、

ただ待っていた言葉とは少し違った。


前と同じ場所に戻るためではなく、

前とは違う形で進むための言葉だった。


「はい」

紬は答える。

「お願いします」


榊はすぐには何も言わなかった。

ただ、

ほんの少しだけ肩の力を抜いて、

静かに息をついた。


その安堵が、

紬にはたまらなく愛しかった。


二人は少しだけ笑う。

大げさではない、

でも確かに何かが変わったあとの笑いだった。


「……よかったです」

榊が言う。

「私もです」

「かなり」

紬は少しだけ笑った。

「かなり、なんですね」

「はい」

「それは」

紬は目を伏せて、

また少し笑う。

「私も同じです」


改札へ向かって歩き出す。

さっきまでと同じ道のはずなのに、

隣を歩く感覚が少しだけ違っていた。


前より近い。

けれど、

その近さを確かめるように急ぐことはしない。


何かが劇的に変わったわけではない。

急に距離が縮まるわけでもない。

でも、

もう曖昧ではなかった。


「榊さん」

「はい」

「これからも、

ちゃんと話してくださいね」

榊は少しだけ目を見開いて、

それから静かにうなずいた。

「はい」

「私も、ちゃんと話します」

「……」

「わかったふりをしないようにします」

紬はその言葉に、

胸の奥がやわらかくなるのを感じた。


「はい」

榊はそう答えてから、

少しだけ視線を落とした。


「もう少し、今より自然に近くなれたら」


紬はその言葉に、

小さく息を止める。


榊は少しだけ言いにくそうに続けた。


「そのときは、朝倉さんの冷えた手も、ちゃんと温められるようになりたいです」


紬は思わず自分の手元を見た。

さっきから指先が少し冷えていたことに、

そのとき初めて気づく。


胸の奥が、

静かに熱くなる。


触れたい、ではなく、

温めたい。


その言葉が、

榊らしいと思った。


急がないこと。

でも、

近づきたいと思っていること。

その両方が、

たった一言の中にちゃんとあった。


「……はい」

紬は小さく笑う。

「そのときは、お願いします」

榊は少しだけ目を伏せて、

それからやわらかく笑った。

「はい」


改札の前で立ち止まる。

別れの時間は来る。

でも今日は、

離れる前の距離が前より少し近かった。


手を伸ばせば触れられるのに、

どちらもそうしない。

その代わり、

すぐに目をそらさなかった。


次があることを、

ちゃんと同じ気持ちで選べたからだ。


「今日は」

紬が言う。

「ちゃんと話せてよかったです」

「僕もです」

「たぶん、ずっと必要でした」

「はい」

「でも」

紬は少しだけ笑う。

「思っていたより緊張しました」

榊も少しだけ笑った。

「僕もです」

「そう見えませんでした」

「かなりしていました」

「かなり、なんですね」

「はい」

「それは」

紬はうなずく。

「少しうれしいです」

榊は少しだけ困ったように笑った。

「そうですか」

「はい」


電車に乗ってから、

紬は窓に映る自分の顔を見た。


前に戻ったわけではない。

戻りたいわけでもない。


あの頃の二人には、

足りなかったものがあった。

言葉にしないまま、

近さに甘えていたところもあった。


でも今は、

それを知ったうえで

もう一度選び直したのだと思う。


好きだから一緒にいる。

それだけではなく、

相手をひとりの人として大事にしたいから、

一緒にいたい。


その気持ちを、

今日はちゃんと同じ場所に置けた気がした。


夜、

家に着いてから届いたメッセージは短かった。


「今日はありがとうございました。言えてよかったです」


紬はその文面を見つめて、

静かに笑う。


それから、

ゆっくり返した。


「こちらこそありがとうございました。私も、聞けてよかったです」


送信したあと、

少しだけ考えて、

もう一文だけ足した。


「これからは、ちゃんと話しましょう」


返事はすぐに来た。


「はい。大事にします」


紬はその一文を見つめながら、

スマートフォンを胸の上に置いた。


大事にします。


その言葉は、

飾り気がないのに、

不思議なくらいまっすぐ胸に届いた。


恋人に戻った、

というだけではない。


離れた時間も、

迷った時間も、

友人という名前を選んだ時間も、

全部無駄ではなかったのだと思う。


遠回りだったのかもしれない。

でも、

必要な遠回りだった。


尊重すること。

言葉にすること。

わかったふりをしないこと。

近さに甘えすぎないこと。


そういう当たり前のようで難しいことを、

今度の二人は

ちゃんと大事にしていける気がした。


窓の外を流れていく夜の景色を見ながら、

紬は静かに目を閉じる。


好きだと思う気持ちは、

前からあった。

でも、

今夜ようやく、

その気持ちをどう持てばいいのかが

少しだけわかった気がした。


相手を大切に思うことと、

自分の気持ちを押しつけないこと。

近くにいたいと思うことと、

相手の心をきちんと見ること。


その両方を、

これから少しずつ覚えていけばいい。


急がなくていい。

でも、

もう曖昧なままにはしない。


そう思えたことが、

紬には何よりもうれしかった。


次に会う日を、

今は前より素直に待てる。


そのことが、

静かで、

たしかな幸福のように思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ