第二十三話 会えたあとの
次に会う約束は、
前より少しだけ自然に決まった。
それがうれしいと思ったあとで、
紬は自分がその「自然」に
思っていた以上に救われていることに気づいた。
友人、という名前を選んでから、
何もかもが不自然になったわけではない。
会えばちゃんと話せるし、
笑えるし、
一緒にいる時間は今も落ち着く。
ただ、
会わない時間の長さだけが、
以前とは少し違っていた。
その違いにまだ慣れないまま、
二人はまた会う。
待ち合わせは、
駅前の小さなカフェだった。
休日の午後で、
店内はほどよく混んでいる。
窓際の席に案内されて、
向かい合って座ると、
榊が少しだけ表情をやわらげた。
「こういう時間、久しぶりな気がします」
「カフェですか?」
紬が聞くと、
榊は小さくうなずく。
「食事のあとに少し寄ることはありましたけど」
「最初から、というのは久しぶりかもしれないですね」
「はい」
紬はメニューを見ながら、
少しだけ笑った。
「なんだか、前よりちゃんと約束して会ってる感じがします」
榊も少しだけ笑う。
「そうですね」
「前はもっと」
紬は言葉を探す。
「流れで決まることも多かったので」
「はい」
「今は、会うこと自体をちゃんと決めてる感じがします」
榊はその言葉を静かに受け止めた。
「そうかもしれません」
注文を済ませると、
しばらくはいつも通りの話をした。
仕事のこと。
最近読んだ本のこと。
紬が見た映画のこと。
榊が少し寝不足だということ。
会話は自然だった。
沈黙も苦しくない。
前より少し慎重ではあるけれど、
それでも一緒にいると落ち着く。
そのことが、
紬にはうれしかった。
そして同時に、
少しだけ困ることでもあった。
会えば、やっぱり楽しい。
会えば、やっぱり安心する。
その事実が積み重なるほど、
会わない時間のほうが目立ってしまう。
「朝倉さん」
榊がカップを置きながら言う。
「はい」
「この前、話していた本なんですけど」
「はい」
「読みました」
紬は目を丸くする。
「早いですね」
「思っていたより、すぐ読めました」
「どうでしたか」
榊は少しだけ考えるように視線を落とした。
「好きでした」
「本当ですか」
「はい」
「よかったです」
「ただ」
「ただ?」
「朝倉さんと話したくなる本でした」
紬は一瞬、言葉を失った。
榊はたぶん、
深い意味を込めて言ったわけではない。
ただ素直にそう思ったから口にしただけだ。
でも、
その何気ない一言が
紬の胸の奥に静かに残る。
話したくなる本。
そういうものを、
以前の二人はもっと自然に共有していた。
「私も」
紬は少し遅れて言う。
「榊さんが読んだら、たぶんそう思うだろうなって思ってました」
榊は少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「はい」
「じゃあ、ちゃんと当たりましたね」
「そうですね」
二人は少しだけ笑った。
その笑いのあとに、
短い沈黙が落ちる。
窓の外では人が行き交っている。
店内には食器の触れ合う音と、
低い話し声が流れている。
その穏やかな空気の中で、
紬はふと思う。
こうして会っているあいだは、
何も難しくない。
難しいのは、
この時間が終わったあとだ。
カフェを出たあと、
二人は近くの書店に寄った。
以前にも一緒に来たことのある店だった。
新刊の平台を眺めながら、
榊が一冊の文庫本を手に取る。
「これ、映画になっていましたよね」
「はい。少し前に」
「朝倉さん、見ましたか」
「見ました」
「どうでしたか」
「原作のほうが好きでした」
榊は少しだけ笑う。
「そう言うと思いました」
「どうしてですか」
「たぶん、そういうところはぶれないので」
「何ですか、それ」
「褒めています」
「本当ですか」
「かなり」
紬は思わず笑った。
こういうやりとりが、
まだちゃんとできる。
それがうれしい。
でも、
うれしいと思うたびに、
その先のことを考えてしまう。
今日はこのあと、
また別れる。
次に会う日が決まっていたとしても、
そのあいだにはまた静かな時間がある。
それを思うだけで、
胸の奥が少しだけ重くなる。
夕方になって、
二人は駅へ向かった。
空は少し曇っていて、
風も昼より冷たくなっている。
「今日はありがとうございました」
榊が言う。
「こちらこそ」
「楽しかったです」
「私もです」
そこまでは、
いつも通りだった。
でも今日は、
そのあとに続く沈黙が少し長かった。
紬は前を向いたまま、
自分の指先を軽く握る。
帰りたくない、
とまでは思わない。
困らせたいわけでもない。
ただ、
この時間が終わることに
前よりはっきりした寂しさがある。
「朝倉さん」
榊が静かに言う。
「はい」
「どうしましたか」
紬は少しだけ笑う。
「顔に出てましたか」
「少し」
「そうですか」
榊は無理に問い詰めることはしなかった。
ただ、
待つように隣を歩いている。
その待ち方が、
紬にはありがたかった。
「……会えるのはうれしいんです」
紬はゆっくり言う。
「はい」
「前より、ちゃんと」
「……」
「会う約束をして、会って、話して」
「はい」
「それはすごくうれしいです」
榊は静かにうなずいた。
「僕もです」
「でも」
紬は少しだけ息をつく。
「会えたあとが、前より少し苦手です」
榊は足を止めることなく、
でも少しだけ表情を変えた。
「苦手」
「はい」
「帰るときとか」
「……」
「次が決まっていても、
また少し間が空くんだなって思うと」
紬は言葉を探す。
「うまく言えないんですけど、
少しだけ、さみしいです」
榊はすぐには答えなかった。
その沈黙に、
紬は少しだけ不安になる。
言わないほうがよかっただろうかと思いかけたとき、
榊が低い声で言った。
「僕もです」
紬は顔を上げる。
榊は前を向いたまま、
静かに続けた。
「会っているあいだは、落ち着きます」
「……」
「楽しいですし、
前より自然に話せるとも思います」
「はい」
「だからこそ、
帰るときに少し困ります」
紬はその言葉を、
胸の奥でゆっくり受け止めた。
少し困る。
その言い方が、
榊らしくて、
でもごまかしていなくて、
紬は少しだけ救われる。
「困るんですね」
紬が言うと、
榊はほんの少しだけ笑った。
「かなり、とはまだ言えないですけど」
「まだ、なんですね」
「はい」
「じゃあ、少し?」
「少し、ではないかもしれません」
紬は思わず笑ってしまう。
榊も少しだけ笑った。
その笑いが落ち着いてから、
榊は静かに言う。
「会えたあとのほうが、
前より長く残る気がします」
「……」
「帰ってからも、
今日話したことを思い出したり」
「はい」
「次はいつ会えるだろうと考えたりします」
紬は胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分だけではなかった。
会っている時間だけではなく、
会えたあとの時間まで
相手の中に残っている。
そのことが、
思っていた以上にうれしかった。
「私もです」
紬は小さく言う。
「帰ってからのほうが、
今日のことを考えるかもしれません」
榊は静かにうなずいた。
「そうですか」
「はい」
「それを聞けて、少し安心しました」
「安心するんですね」
「します」
「変ですね」
「そうかもしれません」
「でも」
紬は少し笑う。
「私も、少し安心しました」
改札が近づく。
人の流れが増えて、
別れの時間が現実に近づいてくる。
「次」
榊が言う。
「もしよければ、あまり空けずに会いませんか」
紬はその言葉に、
思わず足を止めそうになった。
あまり空けずに。
それは、
今の二人にとって
思っていた以上に大きな言葉だった。
「……はい」
紬は小さくうなずく。
「会いたいです」
榊は少しだけ目を伏せて、
それから静かに言った。
「よかったです」
その声は、
ほんの少しだけやわらかかった。
改札の前で別れる。
手を振るほどでもなく、
でも何もないわけでもない、
今の二人らしい別れ方だった。
電車に乗ってから、
紬は窓に映る自分の顔を見た。
会っているあいだは、
ちゃんと落ち着いていられる。
友人として会うことも、
もうできているのだと思う。
でも、
会えたあとの寂しさだけは、
前より少しずつ大きくなっていた。
会わなければ楽になるわけではない。
会えたからこそ、
次までの時間が長く感じる。
そのことを、
今日はもう認めてしまった気がする。
夜、
家に着いてから届いたメッセージは短かった。
「今日はありがとうございました。帰ってからのほうが残る、というのは少しわかる気がします」
紬はその文面を見つめて、
静かに息をつく。
それから、
ゆっくり返した。
「こちらこそありがとうございました。私も、会えたあとのほうが少し長いです」
送信したあと、
少しだけ迷って、
もう一文だけ足した。
「だから、あまり空けずに会えるのはうれしいです」
返事はすぐに来た。
「僕もです」
たったそれだけの一文なのに、
紬の胸はやわらかく揺れた。
会っている時間だけではなく、
会えたあとの時間まで
こんなふうに残ってしまう。
それはまだ、
何かの結論ではなかった。
ただ、
友人という名前だけでは
うまく整わない感情が、
少しずつ輪郭を持ちはじめている。
それが何を意味するのか、
二人ともまだ答えにはしていない。
けれど、もう気づかないふりだけは、
できなくなっていた。




