第二十二話 広がる間隔
友人、という名前を選んでから、
二人のやりとりは少しずつ静かになった。
途切れたわけではない。
なくなったわけでもない。
ただ、
前より少しだけ間が空くようになった。
おはようも、
お疲れさまも、
何かを見つけたときの短い共有も、
今は一度立ち止まってから考える。
送ってもいいのか。
いや、送って悪いわけではない。
でも、今の関係でそこまで自然に差し出していいのか、
少しだけ迷う。
その迷いが積み重なると、
連絡は必要なときだけのものに近づいていった。
紬はそれを、
当然の変化だと思おうとしていた。
友人なら、
このくらいの頻度が普通なのかもしれない。
毎日のようにやりとりをしないからといって、
関係が悪くなったわけではない。
むしろ、
無理に近づきすぎないためには、
これでいいのだと思う。
そう考えることはできた。
でも、
納得できることと平気でいられることは、
やっぱり少し違った。
平日の帰り道、
駅までの人の流れに紛れながら、
紬はふとスマートフォンを取り出す。
榊に送りたいと思うことが、
まったくなくなったわけではない。
昼休みに見つけた小さな雑貨店のこと。
仕事で少し疲れたこと。
駅前のパン屋に季節限定の商品が出ていたこと。
以前なら、
そんな些細なことを自然に送っていた。
でも今は、
画面を開いて、
閉じる。
送るほどのことではない。
友人にわざわざ言うことでもない。
そう自分に言い聞かせるたびに、
胸のどこかが少しずつ乾いていく気がした。
その週末、
紬は一人で買い物に出かけた。
以前、榊と一緒に立ち寄った書店の前を通る。
ガラス越しに見える平台も、
入口近くの新刊コーナーも、
あの日とほとんど変わっていない。
変わっていないのに、
隣にいる人だけがいない。
そのことが、
思っていたより静かにこたえた。
店に入る気にはなれず、
紬はそのまま通り過ぎた。
友人なのだから、
会おうと思えば会える。
連絡をすればいいだけだ。
それなのに、
その「すればいい」が前より遠い。
会えないわけではない。
でも、
会いたいと思った瞬間に会える関係ではなくなった。
その違いが、
今さらのように胸に落ちてくる。
夜、
ソファに座っていた紬のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、
榊からだった。
「お疲れさまです。急ではありますが、来週のどこかで少しお時間ありますか」
たったそれだけの文面なのに、
紬の心臓は少し強く鳴った。
来週のどこかで。
少しお時間ありますか。
丁寧で、
控えめで、
今の関係にふさわしい言い方だった。
でもその整い方が、
少しだけ寂しい。
前なら、
もっと自然に、
もっと短く、
もっと気軽に誘っていたかもしれない。
それでも、
会いたいと思ってくれたのだとわかるだけで、
胸の奥がやわらかくほどける。
「大丈夫です。水曜か金曜なら」
送ってから、
少しだけ考えて、
もう一文足した。
「お誘い、うれしかったです」
送信したあと、
少しだけ恥ずかしくなる。
重かっただろうかと考えかけて、
でも消せないのだから仕方がないと思い直す。
返事はすぐに来た。
「ありがとうございます。では金曜でお願いします。僕も、お会いできるのはうれしいです」
紬はその文面を見つめたまま、
しばらく動けなかった。
僕も、お会いできるのはうれしいです。
それだけで、
この数日の静けさが
少しだけ報われた気がした。
けれど同時に、
その一文だけでこんなに揺れる自分に、
紬は少し戸惑った。
友人として会う。
それだけの約束のはずなのに、
どうしてこんなに待ち遠しいのだろう。
金曜までの数日は、
思っていたより長かった。
忙しくしていればすぐだと思っていたのに、
気づくと紬は
あと何日、と数えている。
会う間隔が増えたことで、
会うことの重さが変わってしまったのかもしれない。
前は、
次があることをどこかで当然に思っていた。
だから一回一回に、
今ほど気持ちを傾けていなかった。
でも今は違う。
次があるかどうかは、
前ほど自然ではない。
会う約束ひとつが、
前より少しだけ特別になる。
金曜の夜、
待ち合わせ場所に向かう途中で、
紬は自分が少し早足になっていることに気づいた。
別に遅れているわけではない。
むしろ少し早いくらいだ。
それでも、
足が勝手に急いでしまう。
改札近くで榊の姿を見つけた瞬間、
胸の奥が静かに揺れた。
会いたかった。
その言葉が、
あまりにも自然に浮かんで、
紬は少しだけ驚く。
「こんばんは」
榊が言う。
「こんばんは」
「お待たせしていませんか」
「してないです」
紬は少し笑う。
「私も今来たところなので」
榊も少しだけ笑った。
「そうですか」
「はい」
たぶん、
お互い少し早く来ていたのだろう。
でもそのことには触れない。
店に向かって歩きながら、
二人の会話は最初こそ少しぎこちなかった。
けれど、
数分もするといつもの調子に戻る。
仕事のこと。
最近読んだ本のこと。
駅前の工事がまだ終わらないこと。
話しているうちに、
紬は少しずつ呼吸が楽になるのを感じた。
やっぱり、
この人と話すのは落ち着く。
その事実がうれしくて、
同時に少し苦しかった。
食事をしながら、
榊がふと視線を上げる。
「朝倉さん」
「はい」
「少し、間が空きましたね」
紬は箸を止めた。
「……そうですね」
「前より」
「はい」
榊は少しだけ目を伏せる。
「このくらいが自然なのかもしれないと思っていました」
紬はその言葉に、
胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。
このくらいが自然。
たぶん、
間違ってはいない。
友人ならそうなのかもしれない。
でも、
その正しさが今日は少しだけ痛い。
「そうかもしれないですね」
紬は言う。
「……」
「友人なら」
榊はその返事を聞いて、
何か言いかけるように少し黙った。
それから、
静かに続ける。
「でも」
「……」
「思っていたより、長かったです」
紬は顔を上げた。
榊は視線をそらさなかった。
「一週間くらい、
すぐだと思っていました」
「……」
「でも、そうでもなかったです」
その声は静かだった。
大げさではない。
でも、
ごまかしてもいなかった。
紬は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「私もです」
気づけば、
そう答えていた。
「長かったです」
榊は少しだけ息をつく。
それが安堵なのだと、
紬にはわかった。
「よかったです」
彼は言う。
「僕だけかと思っていたので」
「それは」
紬は少し笑う。
「私も同じことを思っていました」
「そうですか」
「はい」
そのあと、
二人のあいだに落ちた沈黙は
苦しくなかった。
むしろ、
言わなくてもいいことではなく、
ちゃんと言ったほうがいいことを
ひとつ越えたあとの静けさだった。
食事を終えて店を出ると、
夜の空気は少しだけやわらかかった。
駅までの道を歩きながら、
紬は前を向いたまま言う。
「友人って」
「……」
「もっと平気でいられるものだと思っていました」
榊は少しだけ歩幅をゆるめた。
「はい」
「会う間隔が空いても、
こんなに気にならないものかと」
「……」
「でも、違いました」
榊はしばらく黙っていた。
それから、
低い声で言う。
「僕もです」
「……」
「これでよかったはずだと思っています」
「はい」
「今も、間違いだとは思っていません」
「……」
「でも、気持ちがすぐに追いつくわけではないみたいです」
紬はその言葉を、
胸の奥でゆっくり受け止めた。
気持ちがすぐに追いつくわけではない。
それは、
今の自分にいちばん近い言い方だった。
正しいと思う。
必要だったとも思う。
でも、
その正しさに心がすぐなじむわけではない。
「私も」
紬は小さく言う。
「たぶん、同じです」
榊は何も言わなかった。
でも、
その沈黙はちゃんと受け取っている沈黙だった。
改札が近づく。
別れの時間が近づく。
前と同じように、
ここで別れて、
また次の約束をするのだろう。
それでいいはずなのに、
今日はその当然さが少し揺らいでいた。
「今日はありがとうございました」
榊が言う。
「こちらこそ」
「会えてよかったです」
「私もです」
紬は少しだけ迷ってから、
続けた。
「思っていたより、ずっと」
榊はその言葉に、
ほんの少しだけ目を細めた。
「僕もです」
それだけで十分だった。
電車に乗ってから、
紬は窓に映る自分の顔を見た。
友人として会う。
それはできる。
ちゃんと話せるし、
ちゃんと笑える。
無理をしているわけでもない。
でも、
この距離にすぐ慣れられるほど、
気持ちはきれいに整っていなかった。
会う間隔が広がったことで、
むしろはっきりしたことがある。
自分はまだ、
この静けさの扱い方を知らない。
夜、
家に着いてから届いたメッセージは、
いつもより少しだけ早かった。
「今日はありがとうございました。思っていたより長かった、というのは本当です」
紬はその文面を見つめて、
静かに息をつく。
それから、
ゆっくりと返した。
「こちらこそありがとうございました。私も、会うまでが思っていたより長かったです」
送信したあと、
少しだけ迷って、
もう一文だけ足した。
「友人ならもっと平気だと思っていました」
返事は少ししてから来た。
「僕もそう思っていました。でも、まだ少し慣れないみたいです」
紬はその一文を見つめながら、
スマートフォンを胸の上に置いた。
広がる間隔は、
気持ちを薄くするためのものではなかった。
ただ、
そのあいだにある静けさが、
思っていたよりずっと大きいのだと知った。
慣れると思っていた。
そのうち自然になると思っていた。
でも、
今はまだそこまで行けない。
そのことを認めるだけで、
胸の奥が少しだけ痛んだ。




