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第二十一話 選んだ名前

次に会ったのは、

前より少しだけ間が空いてからだった。


たった数日長かっただけなのに、

その数日が思っていたより静かで、

紬は自分でも少し驚いていた。


仕事をしているあいだは平気だった。

やることはあるし、

考えないでいられる時間も多い。

でも、帰り道や寝る前の少し空いた時間に、

ふと榊のことを思い出す。


前なら、

そういうときは自然に連絡をしていたかもしれない。

でも今は、

次に会ったときにちゃんと話すと決めている。

その約束があるぶん、

かえって軽く送れない気がした。


その日、

二人は駅から少し離れた静かな店で夕食を取ることにした。


平日の夜で、

店内は落ち着いている。

照明もやわらかく、

隣の席との距離も少し広い。


「お待たせしました」

榊が席に着きながら言う。

「いえ、私も今来たところです」

「そうですか」

「はい」

紬はそう答えながら、

本当は五分前には着いていたことを言わなかった。


榊もたぶん、

少し早く来ていたのだろうと思う。

そういうことを、

今は前より自然に想像できる。


注文を済ませても、

最初の会話はいつも通りだった。


仕事のこと。

最近少し忙しいこと。

駅前の店がまた入れ替わったこと。

どれも穏やかで、

どれも話しやすい。


でも今日は、

その穏やかさの下に

別の緊張が静かに流れていた。


「朝倉さん」

料理が運ばれてくる前に、

榊が言った。

「はい」

「この前の話なんですけど」

紬は小さくうなずく。

「私も、今日その話をするつもりでした」

榊は少しだけ安心したように目を伏せた。

「よかったです」

「榊さんから言ってくれて、少し助かりました」

「そうですか」

「はい。自分から切り出すの、少し緊張していたので」

「僕もです」

その言い方が少しだけおかしくて、

紬は小さく笑った。

榊もほんの少しだけ笑う。


でも、

そのあとにはちゃんと沈黙が戻ってきた。


逃げないための沈黙だった。


「今の時間が心地いいのは、本当です」

榊がゆっくり言う。

「……」

「会えるのもうれしいですし、

前より自然に話せるのも、かなりありがたいです」

紬はその言葉を静かに聞いていた。


かなりありがたい。

そういう少し不器用な言い方が、

今はもう榊らしく思える。


「私もです」

紬は言う。

「今の時間、好きです」

「はい」

「だからこそ、少し迷っています」

榊は小さくうなずいた。

「僕もです」


料理が運ばれてきたが、

二人ともすぐには箸をつけなかった。


「曖昧なまま近づくのは違う」

榊が言う。

「でも、勢いで戻るのも違う」

「……」

「そのあいだで、どうしたらいいのか考えていました」

紬は視線を落とす。

「私も、同じことを考えていました」

「本当ですか」

「はい」

「前みたいに、何となく流れで決まるのは嫌だと思っていました」

榊はその言葉に、

静かにうなずいた。


「僕もです」

「……」

「今の気持ちを、軽く扱いたくないので」


その一言が、

紬の胸に静かに落ちる。


軽く扱いたくない。


それはたぶん、

好きだと言われるのと少し似た重さを持っていた。


「榊さん」

「はい」

「もし」

紬は少しだけ息を整える。

「今、恋人に戻るのが違うなら」

「……」

「どうするのがいいと思いますか」


榊はすぐには答えなかった。

考えていないからではなく、

ちゃんと考えてから言おうとしている沈黙だった。


「友人として会うのが」

やがて彼は言う。

「いちばん誠実なのかもしれないと思っています」

紬はその言葉を聞いて、

胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。


友人。


予想していなかったわけではない。

むしろ、どこかでそうなるかもしれないと思っていた。

それでも、

実際に言葉になると、

思っていたより静かに痛かった。


榊はその表情の変化に気づいたのか、

少しだけ声を低くした。


「離れたいわけではないです」

「……」

「むしろ逆です」

紬は顔を上げる。

「逆」

「はい」

「大事にしたいからこそ、

今はその言い方のほうがいい気がしています」

「……」

「曖昧なまま近づいて、

あとでまた言葉にできなくなるのが怖いので」


紬は何も言えなかった。


その怖さは、

自分にもよくわかる。


今の二人は、

前より話せる。

前より丁寧だ。

でも、だからといって

このまま何となく近づいていけば

うまくいくとは限らない。


むしろ、

心地よさに甘えた瞬間に、

また大事なことを後回しにしてしまうかもしれない。


「私も」

紬はようやく言う。

「少し、似たことを考えていました」

榊が静かに紬を見る。

「……」

「恋人に戻らないなら、離れるしかない、みたいになるのは違うと思っていて」

「はい」

「でも、曖昧なまま近くにいるのも、たぶん違う」

「そうですね」

「だったら」

紬は言葉を選ぶ。

「友人、という言い方になるのかなって」

榊はほんの少しだけ目を伏せた。

「はい」

「たぶん」


その「たぶん」が、

紬には少しだけ救いだった。


言い切っているようで、

言い切れていない。

それはたぶん、

榊にとってもこの選択が

完全に割り切れるものではないからだ。


「正しい気はします」

紬は言う。

「……」

「少なくとも、雑ではないですよね」

榊は小さくうなずいた。

「はい」

「かなり」

紬は少しだけ笑う。

「そういうところは、いつも強く言うんですね」

「強いですか」

「たまに」

「自覚はないです」

「そうでしょうね」

二人は少しだけ笑った。


でも、

その笑いは長く続かなかった。


正しい。

誠実。

雑ではない。


どれも本当だと思う。

それでも、

胸のどこかが静かに痛む。


「朝倉さん」

「はい」

「無理に納得しなくていいです」

紬は目を瞬く。

「え」

「もし、違うと思うなら」

榊はまっすぐ言う。

「そう言ってほしいです」

「……」

「前みたいに、わかったふりをしたまま進みたくないので」


紬はその言葉に、

胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


前みたいに、わかったふりをしたまま進みたくない。


それは、

今の榊が本当に変わったのだとわかる言葉だった。


「違うとは思いません」

紬はゆっくり言う。

「寂しいですけど」

「……」

「でも、違うとは思わないです」

榊は少しだけ息をついた。

それが安堵なのだと、

紬にはわかった。


「僕も」

彼は低く言う。

「寂しいです」

紬は顔を上げる。

榊は視線をそらさなかった。


「正しいと思うことと、

平気でいられることは別なので」

「……」

「だから、朝倉さんが寂しいと言ってくれて、少し安心しました」


紬はその言葉に、

少しだけ笑ってしまった。


「安心するところですか」

「します」

「変ですね」

「そうかもしれません」

「でも」

紬は小さく息をつく。

「私も、少し安心しました」

「本当ですか」

「はい」

「私だけじゃないんだと思ったので」


料理はもう冷めはじめていた。

二人はようやく箸を取る。

味はちゃんとおいしいはずなのに、

今日は少しだけよくわからなかった。


食事を終えて店を出ると、

夜風が思ったより冷たかった。


駅までの道を、

二人はゆっくり歩く。

前と同じように並んでいるのに、

もう少しでその関係に

別の名前がつくのだと思うと、

足元が少しだけ不安定になる。


「これからも」

榊が言う。

「……」

「会ってもらえますか」

紬はその言い方に、

胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


これからも会ってもらえますか。


やさしい言い方だった。

でもそのやさしさが、

今日は少しだけ遠い。


「はい」

紬は答える。

「会いたいです」

榊は少しだけ目を伏せた。

「ありがとうございます」


改札の前で立ち止まる。

人の流れは絶えないのに、

二人のあいだだけが静かだった。


「今日は」

紬が言う。

「ちゃんと話せてよかったです」

「僕もです」

「たぶん、必要でした」

「はい」

「でも」

紬は少しだけ笑う。

「思っていたより、ちゃんと寂しいですね」

榊も少しだけ笑った。

「そうですね」

「かなり」

「かなり、ですか」

「はい」

「それは」

榊は小さく息をつく。

「僕も同じです」


そのあと、

少しだけ沈黙が落ちた。


前なら、

その沈黙に耐えられなかったかもしれない。

何か言わなければと思ったかもしれない。

でも今は違う。

言葉にできないものがあることを、

そのまま受け止められる。


「じゃあ」

紬が言う。

「また連絡します」

「はい」

榊はうなずく。

「待っています」


電車に乗ってから、

紬は窓に映る自分の顔を見た。


選んだ名前がある。


それはたぶん、

間違っていない。

今の二人にできる、

いちばん誠実な選び方だったと思う。


でも、

誠実であることと、

苦しくないことは違う。


会いたいと思う相手に、

友人という名前をつける。

その静かな痛みを、

紬はまだうまく整理できなかった。


夜、

家に着いてから届いたメッセージは短かった。


「今日はありがとうございました。言いにくいことを、ちゃんと話せてよかったです」


紬はその文面を見つめる。


言いにくいこと。

たしかにそうだった。

でも、言わなければいけないことでもあった。


「こちらこそありがとうございました。私も、ちゃんと話せてよかったです」


そこまで打って、

少しだけ迷う。

それから、もう一文だけ足した。


「正しいと思うのに寂しい、という感じがまだ少し不思議です」


送信してから、

スマートフォンを伏せる。

返事はすぐには来なかった。


少しして届いたのは、

短い一文だった。


「不思議です。でも、たぶんそれが本当なんだと思います」


紬はその言葉を見つめながら、

静かに目を閉じた。


選んだ名前がある。


それは、

気持ちがなくなったからではなかった。

むしろ、

気持ちがあるまま、

それを雑にしないための呼び方だった。


だからこそ、

こんなにも静かに痛いのだと思った。


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