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第二十話 名前をつけないまま

榊と過ごす時間は、

少しずつ長くなっていた。


最初は食事だけだったのに、

最近はそのあと少し歩いたり、

本屋に寄ったり、

気づけば半日近く一緒にいることもある。


それでも、

二人のあいだにはまだ名前がなかった。


恋人ではない。

友人と言い切るには、

少しだけ近い。

けれど、その曖昧さを

今の紬は前ほど不安に思わなくなっていた。


急いで決めないほうがいい。

そう思えるくらいには、

今の時間は穏やかだった。


その日も、

二人は駅ビルの上階にあるレストランで昼食を取ったあと、

そのまま同じフロアの書店に入った。


新刊の平台を眺めながら、

紬はふと笑う。


「榊さん、本屋だと歩くの遅くなりますよね」

「そうですか」

「はい。たぶん、かなり」

榊は少しだけ視線を落とした。

「見ているだけでも、落ち着くので」

「わかります」

「朝倉さんも、さっきから同じ棚の前にいますよ」

「それは」

紬は本の背表紙に指先を触れながら言う。

「決めきれないだけです」

「珍しいですね」

「榊さんに言われたくないです」

「僕は迷っているわけではないです」

「じゃあ何ですか」

「全部少し気になっています」

「それを迷ってるって言うんです」

紬が笑うと、

榊も小さく笑った。


こういうやりとりが、

前より増えた。


気を遣っていないわけではない。

でも、無理に言葉を探さなくても、

自然に会話が続く。

沈黙があっても苦しくない。

そのことが、

紬には静かにうれしかった。


書店を出たあと、

二人は同じ階のカフェに入った。

窓際の席に座ると、

休日の街がガラス越しにゆっくり流れていく。


店員が水を置きながら、

自然な口調で言った。


「お二人とも、こちらでお待ち合わせでしたか」


ほんのそれだけの言葉だった。

特別な意味はない。

ただ、二人でいることがあまりに自然だったから、

そう見えただけなのだろう。


それでも紬は、

なぜか少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。


「どうしましたか」

榊が言う。

「え」

「少し、ぼんやりしていたので」

「……何でもないです」

紬はメニューに視線を落とす。

「ちょっと考えごとを」

「難しいことですか」

「そこまでじゃないです」

「そうですか」

「はい」


注文を済ませてからも、

さっきの店員の言葉が少しだけ残っていた。


お二人とも。


その響きが、

思っていたよりやわらかく胸に残る。


「朝倉さん」

「はい」

「今日は、少し長く付き合わせてしまっていますね」

「そんなことないです」

「本当ですか」

「はい。むしろ」

紬は少しだけ笑う。

「最近、こういう時間が増えましたよね」

榊は静かにうなずいた。

「そうですね」

「前は、食事だけで解散することも多かったのに」

「はい」

「今は、そのあとも一緒にいるのが自然になってきた気がします」

榊はカップに視線を落としたまま、

少しだけ考えるように黙った。


「自然ですね」

やがて彼は言う。

「……」

「無理をしている感じがしないので」

「そうですね」

「それは、かなりありがたいです」


ありがたい。


榊らしい言い方だと思って、

紬は少しだけ笑った。


「うれしい、じゃなくて?」

「うれしいです」

榊はすぐに言った。

「かなり」

「言い直しましたね」

「正確にしただけです」

「そうですか」

「はい」

紬は笑いながら、

でも胸の奥ではその言葉を丁寧に受け取っていた。


うれしい。

かなり。


そういう短い言葉を、

今の榊は前よりずっと隠さない。


「私も」

紬は言う。

「こういう時間、好きです」

榊が顔を上げる。

「……」

「長く一緒にいても、疲れないので」

「それは、よかったです」

「はい」

「僕も、同じです」


その返事は静かだったけれど、

紬には十分だった。


しばらくして、

窓の外を眺めながら紬は思う。


今の距離は、

たぶん心地いい。


近すぎない。

でも遠くもない。

会いたいと思ったときに会えて、

話したいことを少しずつ話せる。

無理に名前をつけなくても、

ちゃんと大事にできている気がする。


けれど同時に、

この心地よさに甘えてしまっていいのか、

という気持ちもどこかにあった。


曖昧なままでも苦しくない。

でも、苦しくないことと、

このままでいいことは、

たぶん少し違う。


「榊さん」

「はい」

「今って」

紬は言いかけて、

少しだけ迷った。

「……」

「すみません。やっぱり何でもないです」

榊はすぐには答えなかった。

それから、静かに言う。


「僕も、少し似たことを考えていました」

紬は顔を上げる。

「似たこと」

「はい」

「何をですか」

榊はカップの取っ手に指を添えたまま、

ゆっくり言葉を選んだ。


「今の時間は、すごく心地いいです」

「……」

「でも、心地いいからこそ」

「はい」

「そのままにしていいのか、少し迷うことがあります」


紬は息を止めた。


やっぱり、

同じことを考えていたのだと思う。


「私もです」

紬は小さく言う。

「今のままでも苦しくないです」

「はい」

「でも、それでいいのかって思うときがあります」

榊は静かにうなずいた。

「そうですね」


店内には穏やかな音楽が流れていた。

周囲の話し声も、

食器の触れ合う音も、

遠くにあるように聞こえる。


「急いで決めたいわけじゃないんです」

紬は言う。

「……」

「ただ、曖昧なまま近づいていくのは」

少しだけ言葉を探す。

「前とは違う意味で、少し怖いです」

榊はその言葉をまっすぐ受け止めた。


「わかります」

「本当ですか」

「はい」

「榊さんも?」

「そうです」

彼は少しだけ目を伏せる。

「今の時間を大事に思っているからこそ」

「……」

「雑に進めたくないです」


紬はその言葉に、

胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


雑に進めたくない。


それは、

前に二人で何度も確かめたことに近い。

距離を守ること。

急がないこと。

ちゃんと近づくために、

丁寧でいること。


でも今日は、

そこにもう一つ別の意味が重なっていた。


このまま名前をつけないでいることも、

もしかしたら別の雑さになるのかもしれない。


「難しいですね」

紬が言う。

「そうですね」

榊も少し笑う。

「かなり」

「心地いいのに、迷うなんて」

「はい」

「贅沢ですね」

「そうかもしれません」

「でも」

紬はカップに触れながら言う。

「前より、ちゃんと迷えている気がします」

榊は少しだけ目を細めた。

「それは、たぶん大事ですね」

「はい」

「前は、迷っても言葉にしないまま進んでいたので」

「……」

「今は、少なくとも話せています」

紬は小さくうなずいた。

「そうですね」


カフェを出たあと、

二人は駅ビルの外に出た。

午後の光は少し傾きはじめていて、

通りを歩く人の影が長く伸びている。


「このあと、どうしますか」

榊が言う。

「まだ少し時間ありますけど」

紬はその問いに、

少しだけ驚いた。


前なら、

こういうときは自然に「じゃあもう少し」となったかもしれない。

でも今の榊は、

当然のように決めない。

ちゃんと確認する。


その丁寧さが、

うれしくて、

少しだけ切なかった。


「少しだけ歩きますか」

紬は言う。

「はい」

榊はうなずく。

「そうしましょう」


駅前の通りを並んで歩く。

人通りは多いのに、

二人のあいだには不思議と静かな空気があった。


「今日」

榊が言う。

「長く一緒にいられて、よかったです」

「私もです」

「こういう時間が増えるのは」

彼は少しだけ言葉を切る。

「うれしいです」

紬はその横顔を見る。

「かなり?」

榊は少しだけ笑った。

「かなり、です」

紬も笑う。


でもその笑いの奥で、

胸のどこかが静かに揺れていた。


うれしい。

心地いい。

会えてよかった。


その全部が本当だからこそ、

このまま曖昧にしておくことが、

少しずつ難しくなっている。


「榊さん」

「はい」

「今のままって」

紬は前を向いたまま言う。

「楽ですよね」

「……」

「苦しくないし、無理もないし」

「そうですね」

「でも」

紬は少しだけ息をつく。

「楽なままでいることが、正しいとは限らないんですね」

榊はしばらく黙っていた。

それから、静かに答える。


「はい」

「……」

「僕も、そう思います」


その声は低く、

でも迷いを隠していなかった。


改札が近づく。

別れの時間が近づいているのに、

今日はそれが前より少しだけ重く感じた。


「今日はありがとうございました」

榊が言う。

「こちらこそ」

「楽しかったです」

「私もです」

少しだけ間が空く。

そのあとで、

榊が静かに言った。


「朝倉さん」

「はい」

「今の時間を、大事にしたいです」

紬はその言葉を聞いて、

胸の奥がやわらかく締めつけられるのを感じた。


「はい」

「だから」

榊は続ける。

「次に会うとき、少しだけちゃんと話しませんか」

「……」

「今のことを」


紬はすぐには答えられなかった。


怖いわけではない。

むしろ、ずっと必要だと思っていたことだ。

ただ、それを言葉にした瞬間、

今の心地よさが少し形を変える気がした。


でも、

変わることを怖がっているだけでは、

たぶん前と同じになる。


「はい」

紬はゆっくりうなずく。

「私も、そのほうがいいと思います」

榊はほんの少しだけ安心したように笑った。

「よかったです」


電車に乗ってからも、

紬の胸には今日の時間が静かに残っていた。


長く一緒にいたこと。

自然に笑えたこと。

心地よかったこと。

そして、

その心地よさのままではいられないと、

二人とも気づいていたこと。


今の距離は、

たしかにやさしい。

でも、やさしいだけでは足りなくなる瞬間が、

もう近づいているのかもしれない。


夜、

榊から届いたメッセージは短かった。


「今日はありがとうございました。長く一緒にいられて、かなりうれしかったです」


紬はその文面を見て、

少しだけ笑う。


かなり、という言い方が

もう榊らしく思えていた。


「こちらこそありがとうございました。私も、すごく楽しかったです」


そこまで打って、

少し迷う。

それから、もう一文だけ足した。


「心地いいままでいたい気持ちと、このままではいたくない気持ちが、今日は両方ありました」


送信したあと、

胸が少しだけ速く鳴る。


返事はしばらくしてから来た。


「僕も同じです。だから、次はちゃんと話したいです」


紬はその一文を見つめながら、

静かに息をついた。


名前をつけないまま、

ここまで来た。


でもたぶん、

次はもう、

名前をつけないことそのものについて

話さなければいけない。


それを少し寂しいと思う自分と、

少しほっとしている自分がいた。


どちらも本当だった。

そしてその両方を、

今の自分はごまかさずに持っていられる気がした。


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