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第十九話 守れる距離

会う回数が増えるほど、

気をつけるようになったことがある。


近づきすぎないこと。


それは冷たさではなく、

むしろ逆だった。

今の二人にとって、

距離を雑に縮めないことは、

相手を大事にすることに近かった。


前の二人は、

近さに甘えていたところがあった。

言わなくても伝わると思って、

あとでいいと先延ばしにして、

少しずつ相手の気持ちを見落としていった。


だから今は、

会いたいと思っても、

その気持ちだけで進まないようにしている。


その慎重さを、

紬は窮屈だとは思わなかった。

むしろ、今の榊と自分には、

それくらいがちょうどいい気がしていた。


その日も、

二人は仕事帰りに駅近くの店で夕食を取っていた。


平日の夜らしく、

店内はほどよく賑わっている。

窓の外には、

会社帰りの人たちが絶えず行き交っていた。


「最近」

榊が言う。

「このくらいの時間に会うの、増えましたね」

「そうですね」

紬は箸を置く。

「休日だけじゃなくなりました」

「無理のない範囲で、ですけど」

「はい」

「そのくらいが、ちょうどいい気がしています」

紬は少しだけ笑う。

「榊さんらしい言い方ですね」

「そうですか」

「はい。ちゃんと線を引いている感じがします」

榊は少し考えるように視線を落とした。

「引いたほうがいいと思っているので」

「……」

「今は特に」


紬はその言葉を、

静かに受け止めた。


今は特に。


その意味を、

わからないふりはできなかった。


二人のあいだには、

前よりやわらかい空気がある。

言葉も増えた。

会いたいと思うことも、

前より隠さなくなった。


でも、だからこそ、

勢いのまま昔の距離に戻るのは違う。

たぶん榊も、

同じことを考えている。


「私も」

紬は言う。

「今のほうが、安心します」

「安心」

「はい。会えるのはうれしいですけど」

「……」

「会えるからって、何でも前みたいに戻るわけじゃない感じが」

榊は小さくうなずいた。

「そうですね」

「それが、少しほっとします」

「僕もです」


料理が運ばれてきて、

会話はいったん途切れた。

湯気の向こうで、

榊の表情は穏やかだった。


前なら、

こういう穏やかさを見ると、

何を考えているのかわからないと思ったかもしれない。

でも今は違う。

わからないのではなく、

言葉にするまで少し時間がかかる人なのだと知っている。

そして、待てばちゃんと話してくれることも。


「朝倉さん」

「はい」

「この前、少し考えたんです」

「何をですか」

「僕たちの距離のことを」

紬は顔を上げる。

「距離」

「はい」

「難しい話ですか」

「少しだけ」

榊は苦笑する。

「でも、たぶん必要な話です」


紬は黙ってうなずいた。


こういうとき、

榊は逃げない。

言いにくいことほど、

今はちゃんと口にしようとする。

その変化を、

紬はもう何度も見てきた。


「最近」

榊はゆっくり言葉を選ぶ。

「前より会うようになって」

「はい」

「前より、話せることも増えました」

「そうですね」

「それは、すごくうれしいです」

「……」

「でも、そのうれしさだけで進むと」

彼は一度言葉を切る。

「また、同じことを繰り返す気がして」


紬は静かに息をついた。


やっぱり、同じことを考えていたのだと思う。


「私も」

紬は言う。

「少し思っていました」

「……」

「今の感じが心地いいからこそ」

「はい」

「壊したくないです」

榊はその言葉に、

少しだけ目を細めた。


「壊したくない」

「はい」

「それは、僕も同じです」


店のざわめきが、

少し遠くに聞こえる。

二人のあいだだけ、

別の静けさがあるようだった。


「前は」

紬が言う。

「近いことが、いいことだと思っていました」

「……」

「たくさん会えるとか、何でも話せるとか」

「はい」

「そういうのが、そのまま関係のよさだと思っていた気がします」

「そうですね」

榊も静かにうなずく。

「僕も、たぶんそうでした」

「でも今は」

紬は少し考える。

「近ければいいわけじゃないんだなって思います」

「……」

「ちゃんと守れる距離のほうが、大事なのかもしれないです」


言ってから、

少しだけ気恥ずかしくなった。

うまく言えた気はしない。

でも榊は、

その言葉を軽く流さなかった。


「守れる距離」

彼は静かに繰り返す。

「いい言い方ですね」

「そうですか」

「はい」

「何を守るんでしょうね」

紬は半分冗談のつもりで言った。

でも榊は少し考えてから、

まっすぐ答えた。


「たぶん」

「……」

「相手への見方、だと思います」

紬は目を瞬く。

「見方」

「はい」

「どういう意味ですか」

「近くなりすぎると」

榊はカップの縁に指先を添えながら言う。

「相手がいてくれることを、当たり前にしてしまうことがあるので」

「……」

「そうすると、見方が雑になる」

紬は何も言えなかった。


それは、

あまりにも正確だった。


好きかどうかとは別のところで、

人は相手を雑にしてしまうことがある。

嫌いになったわけではない。

大事じゃなくなったわけでもない。

ただ、そこにいてくれることに慣れて、

丁寧に見ることをやめてしまう。


前の二人は、

たぶんそうだった。


「今は」

榊が続ける。

「まだ、ちゃんと見ようとしていられる気がします」

「はい」

「それを失いたくないです」

「……」

「だから、急がないほうがいいと思っています」


紬はその言葉に、

胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


急がないほうがいい。


それは拒絶ではない。

むしろ逆で、

大事にしたいからこその慎重さだった。


「うれしいです」

紬は小さく言う。

榊が少し驚いたように顔を上げる。

「何がですか」

「そういうふうに考えてくれているの」

「……」

「前なら、少し寂しかったかもしれません」

「はい」

「でも今は、うれしいです」

榊はしばらく黙っていた。

それから、静かに笑う。


「よかった」

「はい」

「誤解されたらどうしようかと思っていました」

「少しはしました」

「少しは」

「でも、最後まで聞いたら違いました」

「それなら安心です」


紬も少し笑った。


前なら、

こういう話はもっと難しかった。

距離を置こうという言葉は、

そのまま気持ちの後退に聞こえたかもしれない。

でも今は違う。

距離を守ることが、

関係を守ることにもなりうるとわかる。


食事を終えて店を出ると、

夜風が思ったより涼しかった。

駅までの道を、

二人はゆっくり歩く。


人通りは多いのに、

二人の歩幅は自然にそろっていた。


「榊さん」

「はい」

「今の話」

「……」

「少し安心しました」

「本当ですか」

「はい」

「どうして」

「私だけが慎重なのかと思っていたので」

榊は少しだけ目を見開く。

「朝倉さんも?」

「はい」

「意外です」

「そうですか」

「もっと、僕のほうが考えすぎているのかと」

「それはないです」

紬は小さく笑う。

「私もかなり考えています」

「そうでしたか」

「そうです」

「少し安心しました」

「同じですね」

「そうですね」


信号待ちで立ち止まる。

向こう側のビルの窓に、

夜の光がいくつも灯っている。


「会いたいと思うんです」

紬は前を向いたまま言った。

「……」

「前より、たぶんずっと」

榊は何も言わない。

でも、その沈黙は続きを待っていた。


「でも」

紬は続ける。

「会いたいからって、すぐ近づけばいいわけじゃないのもわかります」

「はい」

「それが前よりわかるから」

「……」

「今のほうが、ちゃんとしている気がします」

榊は静かにうなずいた。

「僕も、同じです」

「本当ですか」

「はい」

「会いたいです」

その言葉は、

思っていたよりまっすぐだった。

榊は少しだけ息を止めたように見えた。

「でも」

彼は続ける。

「会いたい気持ちだけで決めたくないです」

「……」

「そのほうが、朝倉さんを大事にできる気がするので」


信号が青に変わる。

人の流れに合わせて歩き出しながら、

紬はその言葉を胸の中で何度も繰り返した。


朝倉さんを大事にできる気がする。


それは、

はっきりした好意の言い換えのようでもあり、

同時に、

今の二人に必要なブレーキの言葉でもあった。


「私も」

紬は小さく言う。

「榊さんを雑にしたくないです」

榊が紬を見る。

「……」

「前みたいに、わかったつもりになりたくない」

「はい」

「ちゃんと見ていたいです」

榊は少しだけ目を伏せて、

それから静かにうなずいた。


「ありがとうございます」

「お礼を言うところですか」

「言いたかったので」

「そうですか」

「はい」


改札が近づくにつれて、

別れの時間も近づく。

でも今日は、

そのことが前ほど寂しくなかった。


また会えると、

ちゃんと思えているからかもしれない。

それに、

今の二人には、

別れ際に無理に何かを足さなくてもいい静けさがある。


「今日はありがとうございました」

榊が言う。

「こちらこそ」

「話せてよかったです」

「私もです」

紬は少しだけ笑う。

「難しい話でしたけど」

「はい」

「でも、必要でした」

「そうですね」


少しだけ間が空く。

そのあとで、

榊が静かに言った。


「朝倉さん」

「はい」

「また、会ってください」

紬はその言い方に、

胸の奥がやわらかくなるのを感じた。


会おう、ではなく、

会ってください。


前より少しだけ低く、

でも前よりずっと丁寧な願い方だった。


「はい」

紬はうなずく。

「会いたいです」

榊はほんの少しだけ笑った。

「よかった」


電車に乗ってから、

紬は窓に映る自分の顔を見た。


前より近づいている。

でも、前みたいに戻ろうとしているわけではない。

その違いが、

今ははっきりわかる。


近さだけが、

関係の深さではない。

距離を守ることが、

気持ちを守ることにもなる。

相手を当たり前にしないために、

少し立ち止まることが必要なときもある。


それはたぶん、

若い頃にはあまりわからなかったことだ。


夜、家に着いてから届いたメッセージは、

いつも通り短かった。


「今日はありがとうございました。守れる距離、という言い方がずっと残っています」


紬はその文面を見つめて、

静かに笑う。


自分で言ったくせに、

改めて文字で見ると少し照れくさい。


それでも、

悪くないと思った。


「こちらこそありがとうございました。私も、あの言い方はたぶん好きです」


送信してから、

少しだけ考えて、

もう一文だけ足す。


「急がないでいられるのは、安心しているからだと思います」


送ったあとで、

少しだけ鼓動が速くなる。


しばらくして返ってきたのは、

短い一文だった。


「それを聞けて、かなり安心しました」


紬はその言葉を見つめながら、

スマートフォンを胸の上に伏せた。


守れる距離。


それは遠さのことではなく、

たぶん、

丁寧でいられる間合いのことだ。


今の二人には、

その距離が必要だった。

そしてきっと、

必要だと思えること自体が、

前とは違うやさしさなのだと思った。


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