表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/25

第十八話 あの頃より、今のほうが

榊と会うことが、

特別なことではなくなりつつある。


そう気づいたのは、

たぶん、三度目に休日の約束をしたあたりだった。


以前のように頻繁ではない。

けれど、無理のない間隔で連絡を取り、

都合が合えば会う。

食事をしたり、

少し歩いたり、

帰り際に次はどうするかを軽く話したりする。


どれも穏やかで、

どれも曖昧だった。


恋人ではない。

でも、ただの友人とも少し違う。

名前をつけようとすると、

どこかがこぼれてしまうような関係。


それでも紬は、

その曖昧さを前ほど嫌だと思わなくなっていた。


むしろ今は、

急いで名前を決めないほうがいい気がしている。

何かをはっきりさせるより先に、

この時間の中でしか見えないものがある気がした。


その日も、

二人は駅の近くのカフェで待ち合わせをしていた。


窓際の席に座ると、

榊がメニューを見ながら言う。


「今日は少し混んでいますね」

「土曜ですしね」

「そうですね」

「榊さん、こういう店でも落ち着いていますよね」

「そうですか」

「はい。混んでいても、あまり気にしていない感じがします」

榊は少し考えるように視線を上げた。

「気にしていないというより」

「……」

「朝倉さんといると、前より周りが気にならないのかもしれません」

紬は思わずメニューから顔を上げる。

「それ、さらっと言いますね」

「何か変でしたか」

「少し」

「すみません」

「謝るほどではないです」

紬は小さく笑う。

「ただ、前の榊さんならあまり言わなかった気がします」

「……そうですね」

榊も少し笑った。

「前より、口にするようにはしているので」


注文を済ませると、

店員が水を置いていく。

グラスの表面に光が揺れて、

午後のやわらかい日差しがテーブルに落ちる。


「最近」

榊が言う。

「朝倉さんと話していると、時間が早いです」

「急ですね」

「本当なので」

「そうですか」

「はい」

「それも、前はあまり言いませんでしたよね」

「言わなかったです」

「どうして今は言うんですか」

榊は少しだけ困ったように笑う。

「言わないと、伝わらないとわかったので」

「……」

「それに、今は伝えたいと思うので」


紬はグラスに触れたまま、

少しだけ視線を落とした。


こういう瞬間が増えた。

榊が、前なら胸の内にしまっていたようなことを、

今は短くても言葉にする。

大げさではなく、

押しつけがましくもなく、

でも、きちんと届く形で。


それがうれしいと思うたびに、

少しだけ切なくもなる。


どうしてあの頃は、

こうできなかったのだろうと思ってしまうからだ。


カフェを出たあと、

二人は近くの公園まで歩いた。

木陰のベンチに座ると、

風が思ったより涼しい。


子どもの笑い声が遠くでして、

犬の散歩をしている人が通り過ぎる。

平和で、何でもない午後だった。


「こういう時間」

紬が言う。

「前にもあったはずなのに」

「はい」

「今のほうが、ちゃんと覚えていられそうです」

榊は少しだけ首をかしげる。

「前は違いましたか」

「違ったというより」

紬は言葉を探す。

「前は、会うことが当たり前すぎたのかもしれません」

「……」

「会えることも、次があることも」

「そうですね」

「だから、一回一回をあまり見ていなかった気がします」


榊はその言葉に、

静かにうなずいた。


「僕もそう思います」

「榊さんも?」

「はい。会えることに慣れていました」

「……」

「慣れているのは悪いことではないですけど」

「はい」

「大事にするのとは、少し違いますね」


紬はその言葉を聞いて、

胸の奥が静かに揺れた。


慣れているのは悪いことではない。

でも、大事にするのとは少し違う。


たしかにそうだった。

あの頃の二人は、

ちゃんと好きだったし、

ちゃんと一緒にいた。

でも、その近さに甘えて、

丁寧に扱うことを少しずつ怠っていたのかもしれない。


「今のほうが」

紬はぽつりと言う。

「前より、ちゃんとしている気がします」

榊が紬を見る。

「何がですか」

「私たち」

「……」

「変な言い方ですけど」

「いえ」

榊はやわらかく言う。

「たぶん、わかります」

「本当ですか」

「はい」

「どういう意味で」

榊は少し考えてから答えた。

「前は、近いことに安心していたんだと思います」

「……」

「今は、近くないかもしれないからこそ、雑にできない」

紬はその言葉を聞きながら、

胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。


近くないから、丁寧になる。

それは少し皮肉で、

でも今の二人にはたぶん必要なことだった。


「でも」

紬はぽつりと言う。

「それって、離れたままでいたいってことではないですよね」

榊は少しだけ目を上げた。

「はい」

「むしろ」

紬は言葉を選ぶ。

「前よりちゃんと近づきたいから、急がないでいる感じがします」

榊はしばらく黙っていたが、

やがて静かにうなずいた。

「そうですね」

「距離を守るって」

紬は小さく笑う。

「距離を保つこととは、少し違うのかもしれません」

「ええ」

榊の声はやわらかかった。

「たぶん、ちゃんと近づくために必要な距離なんだと思います」


雑にできない。


その言葉は、

少し痛くて、

でも正確だった。


前の二人は、

相手が離れないことをどこかで信じていた。

だから、後回しにしたことがある。

言わなくてもいいと思ったことがある。

今度でいいと流したことがある。


でも今は違う。

次が当然ではないと知っている。

会えることも、

話せることも、

少しのすれ違いで失うかもしれないと知っている。


だからこそ、

前より丁寧になる。


「皮肉ですね」

紬が言う。

「そうですね」

榊も苦く笑う。

「かなり」

「恋人だった頃より、今のほうが」

「はい」

「ちゃんと向き合っている感じがします」

「否定できません」

「うれしいのに、少し悲しいです」

「……」

「もっと早くできていたらって、思ってしまうので」


榊はすぐには答えなかった。

風が木の葉を揺らして、

ベンチの足元にまだらな影を落とす。


「思いますよ」

やがて榊が言う。

「僕も」

「……」

「もっと早く、今みたいに話せていたらとか」

「はい」

「もっと早く、ちゃんと聞けていたらとか」

「……」

「そういうことは、たぶん何度でも思います」

紬は小さくうなずく。

「でも」

榊は続ける。

「今できていることまで、否定したくはないです」

「……」

「遅かったとしても」

「はい」

「できなかったままよりは、ずっといいと思うので」


紬はその言葉に、

少しだけ救われる気がした。


遅かったとしても。

できなかったままよりは、ずっといい。


それは過去を肯定する言葉ではない。

でも、今を無駄にしないための言葉にはなっていた。


「榊さん」

「はい」

「前より、やさしくなりましたよね」

榊が少し驚いたように笑う。

「そうですか」

「はい」

「前はやさしくなかったみたいですね」

「そういう意味じゃないです」

紬も笑う。

「前もやさしかったです」

「それならよかったです」

「ただ」

紬は少しだけ真面目な声に戻る。

「今のほうが、わかるんです」

「何がですか」

「やさしさが」

榊は一瞬だけ黙った。

それから、静かに視線を落とす。


「前は」

彼は低い声で言う。

「わかってもらう努力を、あまりしていなかったのかもしれません」

「……」

「やさしいつもりでいるだけで、伝わると思っていました」

「はい」

「でも、それだと意味がないこともあるんですね」


紬はその言葉を聞いて、

自分のことのように痛かった。


自分も同じだったからだ。

寂しいのを我慢することが、

相手へのやさしさだと思っていた。

困らせないことが、

思いやりだと思っていた。

でも、伝わらないやさしさは、

ときどき何もしていないのと同じくらい、

相手を不安にさせる。


「私も」

紬は言う。

「前より、素直になった気がします」

「そうですね」

榊はすぐにうなずいた。

「前より、ずっと」

「そんなにですか」

「はい」

「少し恥ずかしいです」

「どうしてですか」

「前がひどかったみたいなので」

「少しは」

「少し、ですか」

「かなり」

「ひどいですね」

「でも」

榊はやわらかく言う。

「今の朝倉さんのほうが、僕は好きです」


紬は息を止めた。


風の音も、

遠くの子どもの声も、

一瞬だけ遠のいた気がした。


今の朝倉さんのほうが、僕は好きです。


それは、過去を否定する言葉ではない。

でも、今の自分に向けられた、

はっきりした好意だった。


「……急ですね」

紬はようやくそれだけ言う。

榊は少しだけ困ったように笑った。

「すみません」

「最近、そういうの増えましたよね」

「意識しているので」

「意識して言うんですか」

「言わないと、また同じことになる気がするので」

「……」

「もちろん、言えばいいというものでもないですけど」

「はい」

「でも、言わないよりはいいと思っています」


紬は視線を落としたまま、

膝の上で指先をそっと重ねた。


うれしい。

でも、それだけではない。

少し怖くて、

少し切なくて、

それでも確かにうれしい。


「私は」

紬はゆっくり言う。

「前の榊さんも、嫌いじゃなかったです」

「……」

「むしろ、ちゃんと好きでした」

「はい」

「でも、今のほうが」

そこで少しだけ言葉に迷う。

「安心します」

榊は何も急かさず、

静かに待っていた。


「何を考えているのか、前よりわかるから」

紬は続ける。

「言葉にしてくれるし」

「……」

「私も、前より言えるので」

榊は小さくうなずいた。

「それは、よかったです」

「はい」

「安心してもらえるのは」

彼は少しだけ目を細める。

「かなり、うれしいです」


しばらく二人は黙っていた。

でも、その沈黙は苦しくなかった。

言葉を交わしたあとに残る、

やわらかい静けさだった。


「前より」

紬がぽつりと言う。

「今のほうが、ちゃんと好きになっている気もします」

言ってから、

自分で少し驚いた。


榊もすぐには答えなかった。

その沈黙が長すぎなかったことに、

紬は少しだけ救われる。


「僕も」

やがて榊が言う。

「似たようなことを思っていました」

「……」

「前の気持ちが嘘だったわけではないです」

「はい」

「でも、今のほうが」

彼は紬を見る。

「相手を見たうえで、好きだと思っている気がします」


紬は胸の奥が熱くなるのを感じた。


前より、今のほうが。

その言葉は、

少し残酷で、

でも、今の二人にはたぶん必要だった。


過去の未熟さを認めること。

今の変化をちゃんと受け取ること。

その両方をしないと、

この関係はまた曖昧なまま崩れてしまう気がした。


日が少し傾いて、

公園の影が長くなる。


「そろそろ行きましょうか」

榊が言う。

「そうですね」


立ち上がって歩き出すと、

さっきまで座っていた場所に、

まだ二人の体温が残っている気がした。


駅までの道は短い。

でも今日は、

その短さが少し惜しかった。


「今日」

榊が言う。

「少し話しすぎたかもしれません」

「そうですか」

「はい。たぶん」

「私は、よかったです」

「……」

「聞けて」

榊は少しだけ笑う。

「それなら安心しました」

「でも」

紬も少し笑う。

「かなり不意打ちでした」

「すみません」

「謝らなくていいです」

「本当ですか」

「はい」

紬は前を向いたまま言う。

「私も、同じようなことを思っていたので」


榊の足音が、

ほんの少しだけやわらいだ気がした。


改札の前で立ち止まる。

人の流れが絶えず行き交う中で、

二人のあいだだけが少し静かだった。


「今日はありがとうございました」

榊が言う。

「こちらこそ」

「また、会えますか」

「はい」

紬は迷わず答える。

「会いたいです」

榊はその返事に、

ほんの少しだけ目を伏せて笑った。


「よかった」

その声は小さかったけれど、

紬にははっきり届いた。


電車に乗ってからも、

今日の言葉が何度も胸の中で反復された。


今のほうが好き。

今のほうが安心する。

前より、ちゃんと相手を見ている。


どれも、

あの頃の自分たちに向ければ、

少し残酷な言葉かもしれない。

でも、今の二人には、

その残酷さごと必要なのだと思った。


未熟だったこと。

足りなかったこと。

それでも、ちゃんと好きだったこと。

そして今、

前より少しだけましな形で、

また相手を大事に思えていること。


その全部を、

ごまかさずに持っていたかった。


夜、榊から届いたメッセージは、

いつもより少し長かった。


「今日はありがとうございました。言いすぎた気もしますが、今のほうがちゃんと向き合えている気がする、というのは本当です」


紬はその文面を見つめて、

静かに息をつく。


それから、

ゆっくりと返した。


「こちらこそありがとうございました。私も、あの頃より今のほうが、榊さんのことをちゃんと見ている気がします」


送信したあと、

胸の奥に残ったのは、

甘さだけではない熱だった。


少し切なくて、

でも、目をそらしたくない熱。


前より、今のほうが。


その言葉を、

今日はもう否定しなくていい気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ