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第十七話 それでも、会いたい

別れの話をしたあとで、

こんなふうに会うことになるとは思っていなかった。


待ち合わせの十分前。

紬は駅ビルの二階にある書店の前で立ち止まり、

ガラス越しに並ぶ新刊をぼんやり眺めていた。


榊から誘われたのは三日前だった。


「もし都合が合えば、日曜に少しだけ会えませんか」


それだけの、短いメッセージ。

理由は書かれていなかった。

でも、紬は不思議と迷わなかった。


「大丈夫です」


そう返したあとで、

少しだけ胸がざわついた。

別れの話をしたばかりなのに、

また会う約束をしている。

それをおかしいとは思わなかった自分に、

あとから気づいた。


会いたくないなら、

断れたはずだった。

少し時間を置きたいと書くこともできた。

でも、そうしなかった。


それでも会いたいと思ったのは、

たぶん自分のほうでもあった。


「お待たせしました」


声をかけられて振り向くと、

榊が少し息を整えながら立っていた。

休日らしい、力の抜けた服装だった。

仕事帰りに会うときより、

少しだけ年相応に見える。


「いえ、今来たところです」

「その言い方、たぶん少し前から待っていましたよね」

「どうしてわかるんですか」

「朝倉さん、待っているときは本を見ているふりをするので」

「……そんなことないです」

「あります」

榊は小さく笑った。

「たぶん」


その笑い方が自然で、

紬は少しだけ安心する。


今日は駅の近くで昼食を取って、

そのあと少し歩こうという話になっていた。

特別な目的地があるわけではない。

ただ、天気がよかったから、

どこかでコーヒーでも飲みながら過ごせればいい、

そのくらいの約束だった。


日曜の街は平日より明るい。

家族連れや買い物客が多く、

通りにはゆるい賑わいがある。


二人は駅前の小さな洋食店に入った。

混み合う時間を少し過ぎていたせいか、

窓際の席にすぐ案内される。


注文を済ませると、

榊が水のグラスを持ち上げながら言った。


「この前は、ありがとうございました」

「この前」

「……あの話をした日です」

「はい」

「ちゃんと話せてよかったです」

「私もそう思います」


そう答えながら、

紬は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づく。

あの日のことを思い出しても、

胸はまだ少し痛む。

でも、もう目をそらしたくなるような痛みではなかった。


「そのあと」

榊が言う。

「少し考えたんです」

「何をですか」

「僕たちのことを」

「……」

「話したから終わり、ではないんだなと思って」

「はい」

「むしろ、話したあとに残るもののほうが大きいのかもしれません」


紬はその言葉を、

静かに受け止めた。


残るもの。


たしかにそうだった。

別れた理由を言葉にして、

足りなかったものを認めて、

それで全部が片づくわけではない。

むしろ、そこから見えてくるもののほうが多い。


「私は」

紬は少し考えてから言う。

「少しだけ、ほっとしました」

「ほっと」

「はい。あのときのことを、ずっと曖昧なまま持っていたので」

「……」

「ちゃんと痛かったんだってわかったら、少しだけ楽になりました」

榊は小さくうなずく。

「わかります」

「榊さんも?」

「はい。苦しかったですけど」

「……」

「苦しかったぶん、ごまかさずに済んだ気がしました」


料理が運ばれてきて、

会話はいったん途切れた。

ナイフとフォークの音、

店内のざわめき、

窓の外を通る人の流れ。

どれも穏やかで、

その穏やかさがかえって不思議だった。


別れの話をしたあとで、

こんなふうに普通に食事をしている。

前なら、もっと気まずくなっていたかもしれない。

でも今は、

気まずさよりも、

ここにいることの自然さのほうが勝っていた。


食後に店を出て、

二人は川沿いの遊歩道まで歩いた。

春の終わりの風がやわらかく、

水面が光を細かく返している。


ベンチは空いていたけれど、

二人は座らずにゆっくり歩いた。


「不思議ですね」

紬が言う。

「何がですか」

「この前、あんな話をしたのに」

「はい」

「また会っていること」

榊は少しだけ笑った。

「そうですね」

「普通、少し距離を置きませんか」

「置くかもしれません」

「ですよね」

「でも」

榊は前を向いたまま言う。

「置きたくなかったので」

紬は思わず足をゆるめる。


榊はそのまま続けた。


「少なくとも、僕は」

「……」

「少し時間を置いたほうがいいのかとも思いました」

「はい」

「でも、そう考えたときに」

彼は一度だけ息をつく。

「会わないほうがつらい気がしました」


紬は何も言えなかった。


風が吹いて、

髪が少し頬にかかる。

それを耳にかけながら、

自分の鼓動が少し速くなっているのを感じた。


会わないほうがつらい。


それは、簡単な言葉のようでいて、

今の二人には軽くない意味を持っていた。


「私も」

紬はようやく言う。

「断ろうとは思いませんでした」

「……」

「少し迷うかと思ったんですけど」

「はい」

「思ったより、普通に会いたかったです」


榊はすぐには何も言わなかった。

でも、その沈黙は重くなかった。

むしろ、言葉を大事に受け取っている感じがした。


「うれしいです」

やがて榊が言う。

「そう言ってもらえるの」

「……」

「勝手ですね」

「少しだけ」

紬は小さく笑う。

「でも、私も同じなので」


川沿いの道は、

休日の午後らしいゆるい空気に包まれていた。

犬を散歩させている人、

ジョギングをしている人、

ベビーカーを押す夫婦。

それぞれの時間が流れていて、

二人だけが特別な場所にいるわけではない。


その普通さが、

かえってありがたかった。


「朝倉さん」

「はい」

「この前、話していて思ったんです」

「何をですか」

「僕たちは、別れた理由をちゃんと持っていたんだと思います」

「……」

「でも、それだけで全部説明できるわけでもない」

「はい」

「今こうして会いたいと思うことも、たぶん同じくらい本当なんですよね」


紬はゆっくりとうなずいた。


別れた理由はあった。

足りなかったものもあった。

あのとき終わったことには、

ちゃんと意味がある。


でも、それで気持ちまで全部終わったわけではない。


むしろ今のほうが、

相手を丁寧に見ている気がする。

今のほうが、

言葉を選ぼうとしている気がする。

今のほうが、

会うことの意味を軽く扱っていない。


それは少し皮肉で、

少し切ない。


「変ですよね」

紬が言う。

「何がですか」

「別れたあとで、前よりちゃんとしている感じ」

榊が少し笑う。

「否定できません」

「前の私たち、もう少し下手でしたよね」

「かなり」

「かなり、ですか」

「はい。思っていた以上に」

「ひどいですね」

「でも、本当です」

榊はやわらかく言う。

「ちゃんと好きだったのに、ちゃんと扱えていなかった気がします」


その言葉に、

紬は胸の奥が静かに揺れるのを感じた。


ちゃんと好きだった。


過去形なのか、

今も含んでいるのか、

そこまではわからない。

でも、あえて聞かないほうがいい気がした。

今はまだ、

その曖昧さを急いでほどくときではない。


「私は」

紬は少し視線を落とす。

「この前のあとで、少し怖かったです」

「怖かった」

「はい。ちゃんと話したら、逆にもう会えなくなるかもしれないって」

「……」

「区切りがついてしまう気がして」

榊はしばらく黙っていた。

それから、静かに言う。


「僕も少し思いました」

「榊さんも?」

「はい」

「意外です」

「そうですか」

「もっと、落ち着いているかと」

「落ち着いて見せるのは得意なので」

紬は思わず笑う。

「それ、この前も聞きました」

「そうでした」

「でも」

紬は少しだけ真面目な声に戻る。

「会ってみたら、違いました」

「何がですか」

「終わる感じじゃなかったです」

「……」

「むしろ、まだ終わっていないものがあるんだなって思いました」


榊の歩幅が、

ほんの少しだけゆるむ。


「それは」

彼は慎重に言葉を選ぶ。

「僕にとって、かなりうれしい言い方です」

「大げさです」

「大げさではないです」

「そうですか」

「はい」


少し先に、

川をまたぐ小さな橋が見える。

二人はその手前で立ち止まり、

欄干越しに水面を見た。


風が少し強くなって、

紬のスカートの裾が揺れる。


「会いたいと思うことって」

紬は水面を見たまま言う。

「こんなに単純でしたっけ」

「単純、ですか」

「もっと理由が必要だと思っていました」

「……」

「会うべきかどうかとか、今会っていいのかとか」

「はい」

「そういうことを考える前に、会いたいと思ってしまうんですね」


榊は少しだけ笑った。


「そうですね」

「困ります」

「少しだけ」

「榊さんは困らないんですか」

「困りますよ」

「そう見えません」

「見せないようにしているので」

「またそれですか」

「事実です」


二人で少し笑う。

その笑いが、

思っていたより自然に重なった。


「でも」

榊は笑いが引いたあとで言う。

「会いたいと思うこと自体は、悪いことではない気がします」

「……」

「どうするかは別として」

「はい」

「そう思ってしまうことまで、否定しなくていいのかもしれません」


紬はその言葉を、

胸の中でゆっくり反芻した。


どうするかは別として。

会いたいと思うことまで、否定しなくていい。


それは、今の自分に必要な考え方のように思えた。

答えを急がないこと。

気持ちに名前をつけすぎないこと。

ただ、あるものをあるものとして認めること。


「榊さん」

「はい」

「今日、誘ってくれてよかったです」

「……」

「会わないほうがよかった、とは思いませんでした」

榊は少しだけ目を細めた。

「それは、かなり安心します」

「安心するんですね」

「します」

「意外です」

「朝倉さん、僕のことを何だと思っているんですか」

「平気そうな人」

「まだですか」

「前よりは修正しています」

「それならよかったです」


橋を渡った先に、

小さなカフェが見えた。

テラス席に空きがあったので、

二人はそこでコーヒーを頼んだ。


紙カップを手にして外の席に座ると、

午後の光が少しずつ傾き始めているのがわかる。


「こういう時間」

紬が言う。

「前にもあった気がします」

「ありましたね」

「でも、前より静かです」

「悪い意味で?」

「いえ」

紬は首を振る。

「前は、もっと何かを埋めようとしていた気がします」

「……」

「沈黙があると、何か話さなきゃって思っていたというか」

「わかります」

榊はカップを持ったままうなずく。

「今は、少し違いますね」

「はい」

「黙っていても、前ほど不安じゃないです」

「私もです」


それは小さな変化だった。

でも、二人にとっては大きかった。


黙っていることが、

拒絶ではないとわかる。

言葉が少ないことが、

気持ちの薄さではないと知っている。

その違いだけで、

同じ沈黙の意味が変わる。


「また」

榊が言う。

「会ってもいいですか」

紬はカップの縁に視線を落としたまま、

少しだけ息を止めた。


また会ってもいいですか。


それは当然のようでいて、

ちゃんと聞いてくれる言い方だった。

前なら、

次も会うことがなんとなく決まっていたかもしれない。

でも今は違う。

今の榊は、

会いたいことを、

相手に委ねる形で言葉にする。


「はい」

紬は顔を上げる。

「会いたいです」

榊は一瞬だけ、

ほんの少し驚いたような顔をした。

それから、静かに笑う。


「よかった」

その声は、

思っていたよりやわらかかった。


帰り道、

駅へ向かう人の流れに混じりながら、

紬は今日のことを何度も思い返していた。


別れの話をしたあとで、

また会いたいと思った。

会ってみたら、

やっぱり会えてよかったと思った。

それは簡単なことではない。

でも、間違っているとも思えなかった。


改札の前で立ち止まる。


「今日はありがとうございました」

榊が言う。

「こちらこそ」

「誘ってよかったです」

「私も、来てよかったです」

「……」

「本当に」


榊は少しだけ目を伏せて、

それから静かにうなずいた。


「また連絡します」

「はい」

「無理のないときに」

「榊さん」

「はい」

「そういう一言、前より増えましたよね」

榊は少しだけ笑う。

「気づきましたか」

「気づきます」

「よかったです」

「はい。たぶん、前より」

紬は少し迷ってから言う。

「ちゃんと受け取れます」

榊の表情が、

ほんの少しだけ変わる。

うれしさを隠しきれなかったような、

そんなやわらかい変化だった。


「それなら」

彼は言う。

「前より、少しはましですね」

「かなり、かもしれません」

「それはうれしいです」


電車に乗って、

窓に映る自分の顔を見る。

少し疲れていて、

でも、どこかやわらいでいた。


会いたいと思った。

それを認めた。

相手も同じように思っていた。


それだけで、

何かが決まるわけではない。

関係に名前がつくわけでもない。

過去が塗り替わるわけでもない。


それでも、

会いたいと思う気持ちはたしかにあった。


そして今日、

その気持ちは、

前より少しだけ丁寧に扱われた気がした。


夜、家に着いてから届いたメッセージは短かった。


「今日はありがとうございました。会えてよかったです」


紬はしばらくその文面を見つめてから、

ゆっくりと返す。


「こちらこそ、ありがとうございました。私も会えてよかったです」


送信したあと、

胸の奥に静かな熱が残る。


別れたから終わりではなく、

話したから区切りでもなく、

それでも会いたいと思ってしまう。


その気持ちを、

まだ何とも呼べないまま、

紬はスマートフォンの画面を伏せた。


でも少なくとも、

次に会う約束を待っている自分を、

もうごまかす必要はなかった。


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