表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/25

第十六話 別れの話をしよう

その日は、朝から落ち着かなかった。


理由はわかっている。

昨夜、榊から届いた短いメッセージのせいだ。


「今度会ったとき、少し前のことを話しませんか」


前のこと。


その言い方で、何を指しているのかはすぐにわかった。

わざわざ言い換えたのは、

たぶん榊なりの気遣いなのだろう。

別れのこと、と直接書かなかったのは、

紬に構える時間を与えたかったのかもしれない。


けれど、やさしい言い方に変わったところで、

胸の奥に落ちる重さは変わらなかった。


通勤電車の窓に映る自分の顔は、

思っていたより普通だった。

会社に着いて、いつも通り仕事をして、

昼休みに同僚と少し話して、

午後の会議にも出た。

何も変わらない一日だったはずなのに、

頭のどこかではずっと、

夜のことを考えていた。


前のことを話しませんか。


それは、いつか来ると思っていた言葉だった。

避けたままではいられないと、

紬もわかっていた。

再会してからの二人は、

少しずつ今の話をして、

少しずつ昔の輪郭に触れてきた。

でも、いちばん痛いところだけは、

まだきちんと名前を呼んでいない。


別れた理由。

あのとき、何が足りなかったのか。

どうして終わってしまったのか。


考えようとすると、

胸の奥に古い痛みが戻ってくる。

もう平気だと思っていたはずなのに、

思い出すだけで少し息が浅くなる。


仕事を終えて外に出ると、

空はまだ少し明るかった。

昼間の熱がゆるく残っていて、

風だけが少し涼しい。


待ち合わせは、駅から少し離れた喫茶店だった。

榊が選んだ店は、

前にも一度入ったことのある、

静かで長居しやすい場所だった。


店に入ると、

榊はもう来ていた。

窓際の席で、

水の入ったグラスに手を添えながら、

静かに紬を待っていた。


紬に気づくと、

立ち上がるでもなく、

けれど少しだけ姿勢を正して言う。


「こんばんは」

「こんばんは」

「お疲れさまです」

「榊さんも」


向かいに座ると、

店員が注文を取りに来た。

紬はアイスコーヒー、

榊は温かいブレンドを頼む。


注文が終わっても、

すぐには本題にならなかった。

仕事のことを少し。

駅前の工事が長いこと。

昼間が思ったより暑かったこと。


どれも本当にどうでもいい話ではない。

でも、本当に話したいことの手前で、

少しずつ呼吸を整えるための会話だった。


先に口を開いたのは榊だった。


「昨日のメッセージ」

「はい」

「急にすみませんでした」

「いえ」

紬は首を振る。

「いつか話すことだとは思っていました」

「……そうですね」

「私も」

少しだけ迷ってから続ける。

「避けたままでいるのは、違う気がしていました」


榊は静かにうなずいた。


「無理に、とは思っていません」

「はい」

「ただ、今なら話せるかもしれないと思って」

「今なら」

「前よりは」


その言い方が、

少しだけあの夜を思い出させた。

前よりは。

今なら。

そういう小さな変化の積み重ねで、

ここまで来たのだと思う。


アイスコーヒーが運ばれてきて、

グラスの表面に細かな水滴がつく。

紬はストローには触れず、

しばらくその冷たさを見ていた。


「どこから話せばいいんでしょうね」

紬が言うと、

榊は少しだけ困ったように笑った。


「難しいですね」

「はい」

「でも、たぶん」

榊は一度言葉を切る。

「大きな出来事があったわけではないんですよね」

「……」

「それが、いちばん話しにくいのかもしれません」


紬はゆっくりとうなずいた。


本当にそうだった。


裏切りがあったわけではない。

決定的な喧嘩があったわけでもない。

どちらかがひどく傷つける言葉を投げたわけでもない。


ただ、少しずつずれていった。


忙しさ。

遠慮。

甘え。

言わなくてもわかると思っていたこと。

言わなければ伝わらないと気づくのが遅かったこと。


そういうものが積もって、

気づいたときには、

二人のあいだに小さくない距離ができていた。


「私は」

紬はグラスに視線を落としたまま言う。

「ずっと、榊さんが変わったんだと思っていました」

「変わった」

「前より冷たくなったというか」

「……」

「私にあまり興味がなくなったのかなって」


榊は何も言わなかった。

否定しないのではなく、

まず最後まで聞こうとしている沈黙だった。


「連絡の回数とか」

紬は続ける。

「会える頻度とか、そういうわかりやすいことだけじゃなくて」

「はい」

「話していても、少し遠い感じがしていました」

「……」

「でも、そのとき私は、それをちゃんと聞かなかったです」

「どうしてですか」

「怖かったからだと思います」

紬は少し笑う。

「聞いて、本当にそうだったら嫌だったので」

「……」

「だから、わかってくれているはずだと思うことにしていました」


榊の指先が、

カップの持ち手にそっと触れる。


「わかってくれているはず」

彼は静かに繰り返した。

「はい」

「僕も、そう思っていました」

「……」

「朝倉さんなら、言わなくてもわかるだろうって」


紬は顔を上げる。


榊の表情は穏やかだった。

でも、その穏やかさの下に、

少しだけ苦いものがあるのがわかった。


「どうして、そう思ったんですか」

「甘えていたんだと思います」

榊はすぐに答えた。

「ちゃんと説明しなくても、伝わる相手だと」

「……」

「それは信頼というより、たぶん怠慢に近かったです」


怠慢。

榊が自分に向けてそんな言葉を使うのは、

少し意外だった。


「そこまででは」

紬が言いかけると、

榊は小さく首を振った。


「いえ。少なくとも僕は、そうだったと思います」

「……」

「忙しいことを理由にして、言葉を省いていました」

「忙しかったのは、本当だったんですよね」

「本当です」

「なら」

「本当でも、免罪符にはならないです」


その言い方が、

妙に榊らしかった。

自分に都合のいい逃げ道を、

きちんと塞いでしまうところがある。


紬は少しだけ息をつく。


「私も、似たようなものです」

「朝倉さんも?」

「はい」

「どういう意味で」

「忙しそうだから、言わないほうがいいと思っていました」

「……」

「寂しいとか、もっと会いたいとか」

「はい」

「そういうことを言うのは、困らせるだけだと思って」

「でも、本当は言いたかった」

「言いたかったです」


言い切ると、

胸の奥が少しだけ痛んだ。


あの頃の自分は、

ずっと我慢していたつもりだった。

でも今思えば、

我慢というより、

言って傷つくのを避けていたのかもしれない。


「言ってくれれば、と思っていました」

榊が言う。


その言葉に、

紬は思わず笑ってしまった。

おかしくて笑ったわけではない。

あまりにも、その通りだったからだ。


「私は、わかってくれればと思っていました」

「……」

「ひどいですね」

「はい」

榊も少しだけ笑う。

「かなり」

「お互いに」

「そうですね」


短い笑いのあと、

また静けさが戻る。


でも、その静けさはさっきまでとは違った。

重いだけではなく、

少しだけ正直なものになっていた。


「私」

紬はゆっくり言う。

「榊さんが、何も言ってくれないことに腹が立っていたんです」

「はい」

「でも同時に、言わせない空気を自分でも作っていた気がします」

「言わせない空気」

「責めるつもりはなくても、少し不機嫌になったり」

「……」

「大丈夫って言いながら、全然大丈夫じゃない顔をしたり」

「それは」

榊は少し迷ってから言う。

「ありました」

「やっぱり」

「はい」

「すみません」

「いえ」

榊は静かに首を振る。

「僕も、そういうときにちゃんと聞かなかったので」

「……」

「機嫌が悪いのかな、疲れているのかな、と思って」

「はい」

「そこで踏み込むより、少し時間を置いたほうがいい気がしていました」

「でも、私はたぶん」

紬は苦く笑う。

「踏み込んでほしかったんですよね」

「そうだと思います」

「難しいですね」

「難しいです」


二人とも、

同じ方向を向いていたつもりだった。

でも、相手を思って選んだはずの遠慮が、

少しずつ別の意味を持ち始めていた。


やさしさのつもりで黙る。

負担をかけないために言わない。

相手を信じているから説明しない。


そういうものが、

時間が経つにつれて、

無関心や諦めに見えてしまうことがある。


「別れたとき」

紬は言った。

「あのとき私は、もう無理なんだと思いました」

「……」

「何を言っても変わらない気がして」

「はい」

「たぶん、本当は最後までそうじゃなかったのに」

「……」

「そう思い込んだほうが、楽だったのかもしれません」


榊はしばらく黙っていた。

それから、低い声で言う。


「僕は、逆でした」

「逆」

「まだ何かできるかもしれないと思っていました」

「……」

「でも、何をすればいいのかわからなかったです」

「……」

「引き止める言葉も、謝る言葉も、ちゃんとした形にならなくて」

「はい」

「そのまま時間が過ぎて、気づいたら終わっていました」


紬はその言葉を聞いて、

胸の奥がゆっくり冷えていくのを感じた。


終わっていました。


あのときのことを思い出す。

最後に会った日の空気。

どちらも決定的なことを言わないまま、

でも、もう戻れないとわかっていた時間。


「私」

紬は小さく言う。

「榊さんは、止めるほどではないんだと思っていました」

榊が目を上げる。

「そう見えましたか」

「はい」

「……」

「悲しくないわけじゃないけど、受け入れているように見えて」

「それは違います」

榊は静かに言った。

強い言い方ではないのに、

はっきりとした否定だった。

「全然、違います」

「……」

「受け入れていたわけではないです」

「じゃあ、どうして」

「言えなかったんです」

榊は自分に言い聞かせるように続ける。

「引き止めるなら、もっと前に言うべきだったと思っていました」

「……」

「別れる直前になって急に惜しくなったみたいで、それも嫌だった」

「そんなふうには」

「でも、僕はそう感じていました」

「……」

「それに、あのときの朝倉さんは、もうかなり傷ついていたから」

榊は視線を落とす。

「そこで自分の寂しさを言うのは、ずるい気がしました」


紬は何も言えなかった。


ずるい。

その感覚も、少しわかってしまったからだ。


本当は引き止めてほしかった。

でも、引き止められたら、

それはそれで苦しかったかもしれない。

もっと早く言ってほしかったと、

きっと思っただろう。


「誰か一人が悪かったわけじゃないんですね」

紬が言うと、

榊は少しだけ苦く笑った。


「そうだと思います」

「だから余計に、痛いですね」

「はい」


店の外を通る車のライトが、

窓に一瞬だけ映って消える。


紬はようやくアイスコーヒーに口をつけた。

氷が少し溶けて、

最初より味が薄くなっている。


「でも」

紬はグラスを置いて言う。

「誰も悪くない、で済ませたくはないです」

「……」

「仕方なかった、でも」

「はい」

「タイミングが悪かった、でもなくて」

「そうですね」

「ちゃんと、足りなかったんだと思います」

「何が」

「言葉が」

紬は榊を見る。

「たぶん、一番」


榊は静かにうなずいた。


「僕もそう思います」

「忙しさもあったし、余裕もなかったです」

「はい」

「でも、それだけじゃなかった」

「……」

「言わなくても伝わると思っていたし、言っても仕方ないとも思っていた」

「はい」

「その両方が、たぶんよくなかった」


榊はカップに視線を落としたまま、

小さく息をつく。


「朝倉さん」

「はい」

「今こうして話せて、よかったです」

「……」

「もっと早く話せていたら、と思わないわけではないです」

「はい」

「でも、今だから話せたこともある気がします」


紬はその言葉を、

静かに受け取った。


もっと早ければ。

その仮定は、たぶん何度考えても消えない。

でも今ここでそれを言い続けても、

過去は変わらない。


変わらないものの前で、

それでも話すことに意味があるのだとしたら、

それはきっと、

今の二人が昔より少しだけ正直だからだ。


「私も」

紬は言う。

「話せてよかったです」

「……」

「思っていたより、苦しかったですけど」

榊が少しだけ笑う。

「はい。僕もです」

「でも」

紬は小さく息をつく。

「前より、ちゃんと痛かった気がします」

「ちゃんと痛い」

「はい」

「それは、いいことなんでしょうか」

「たぶん」

紬は少し考える。

「ごまかしていないってことなので」


榊はその言葉に、

静かにうなずいた。


店を出るころには、

外はすっかり夜になっていた。

昼間の熱は消えて、

風が少しだけ肌にやさしい。


駅までの道を、

二人は並んで歩く。


さっきまであれほど重かった空気が、

完全ではないにせよ、

少しだけほどけているのがわかった。

楽になった、というより、

ようやく正しい重さになった感じに近い。


「今日は」

榊が言う。

「ありがとうございました」

「こちらこそ」

「無理をさせていなければいいんですが」

「少しはしました」

「……すみません」

「でも、必要な無理だった気がします」

「必要な無理」

「はい」

紬は少しだけ笑う。

「そういうのも、たまにはあります」


榊も小さく笑った。


改札が見えてくる。

別れの時間が近づく。


「朝倉さん」

「はい」

「今日は、これでよかったんでしょうか」

紬は少しだけ考えた。


よかった、と簡単には言えない。

痛かったし、

思い出したくないことも思い出した。

もしできるなら、

あの頃の自分たちに戻って、

もっと別のやり方を教えたくなる。


それでも。


「よかったです」

紬は言った。

「少なくとも、話さないままよりは」

榊は静かにうなずく。

「そうですね」

「はい」

「僕も、そう思います」


電車に乗ってから、

紬は窓の外を流れる灯りをぼんやり見ていた。


誰か一人が悪かったわけではない。

でも、だからといって、

何も悪くなかったわけでもない。


足りなかったものがあった。

言えなかったことがあった。

わかってほしいと思いながら、

わかるように伝えることを怠った。


その積み重ねで、

二人は別れた。


そんな当たり前のことを、

今さら確かめるのは苦しい。

でも、その苦しさを引き受けてようやく、

過去が少しだけ過去になる気がした。


夜、家に着いてからも、

榊からの連絡はすぐには来なかった。

紬も送らなかった。


今日はたぶん、

どちらにも少し時間が必要だった。


それでも、眠る前にスマートフォンを見ると、

短いメッセージが届いていた。


「今日はありがとうございました。話せてよかったです」


それだけだった。


余計な説明も、

気の利いた言葉もない。

でも、その短さが今はちょうどよかった。


紬はしばらく画面を見つめてから、

ゆっくりと返す。


「こちらこそ、ありがとうございました。私も、話せてよかったです」


送信して、

ベッドに横になる。


胸の奥はまだ少し痛い。

でも、その痛みは前のものとは違っていた。

曖昧なまま残っていた傷に、

ようやく輪郭がついたような痛みだった。


話せてよかった。


その一言だけで、

何かが解決したわけではない。

過去がきれいになるわけでもない。

失った時間が戻るわけでもない。


それでも、

話したことには意味があった。


そう思える夜だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ