第十五話 言えなかった人
十五分だけ遅れるかもしれません。
榊からそう連絡が来たのは、
待ち合わせの十分ほど前だった。
紬は駅前の広場の端に立ったまま、
短い文面を見つめる。
そのあとに続いていたのは、
「すみません。出る直前に電話が入ってしまって」
という、いつも通りきちんとした説明だった。
「大丈夫です。気をつけて来てください」
と返してから、
紬はスマートフォンを鞄にしまう。
夕方の駅前は人が多い。
仕事帰りの人、買い物帰りの人、
待ち合わせをしているらしい学生たち。
ざわざわとした音の中に立っていると、
自分だけが少し静かな場所にいるような気がすることがある。
今日は、榊のほうから
「もしよければ、少しだけ食事でも」
と誘ってきた。
特別な用事があるわけではない。
ただ、今週はお互い少し忙しかったから、
短い時間でも顔を見られたら、という程度の約束だった。
そういう誘い方が、
最近の榊らしいと思う。
会いたい、とは言う。
でも、それを相手に負担にならない形で伝えようとする。
前よりずっと、言葉の置き方が慎重だ。
十五分ほどして、
人の流れの向こうに榊の姿が見えた。
少し早足でこちらへ来る。
紬を見つけると、
いつものように表情がやわらいだ。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、大丈夫です」
「本当に?」
「本当にです」
「それならよかったです」
そう言いながらも、
榊は少しだけ疲れて見えた。
身なりはいつも通り整っていて、
髪も乱れていない。
でも、目元にだけわずかな硬さが残っている。
「何かあったんですか」
歩き出してから、紬は聞いた。
榊は一瞬だけ視線を落とす。
「仕事の電話です」
「大変でしたか」
「少しだけ」
「少しだけ、ですか」
「……たぶん、少しではないですね」
その認め方が、少し意外だった。
以前の榊なら、
もっと自然に「大丈夫です」で済ませていた気がする。
二人は駅から少し離れた場所にある、
落ち着いた和食の店に入った。
照明はやわらかく、
席の間隔も広い。
平日の夜らしく、店内は静かだった。
注文を済ませると、
榊は一度だけ小さく息をついた。
その息が、思ったより深かった。
紬はそれを見て、
少しだけ迷う。
聞いていいのだろうか。
それとも、触れないほうがいいのだろうか。
けれど、最近の自分たちは、
そういう迷いの先で少しずつ言葉を選ぶようになってきた。
何でも聞けばいいわけではない。
でも、何も聞かないままでいるのも違う。
「さっきの電話」
紬は静かに言った。
「まだ引きずっていますか」
榊は少し驚いたように目を上げた。
それから、すぐにごまかさなかった。
「……そうかもしれません」
「珍しいですね」
「何がですか」
「榊さんが、そういう顔をしているの」
「どういう顔ですか」
「うまく言えませんけど」
紬は少し考える。
「平気なふりをする余裕が、少し足りていない顔です」
言ってから、
少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど榊は、気を悪くした様子はなかった。
むしろ、少しだけ困ったように笑った。
「鋭いですね」
「そうですか」
「はい。今日はたぶん、少し隠しきれていません」
「……珍しいです」
「そうかもしれません」
料理が運ばれてきて、
いったん会話は途切れた。
湯気の立つ煮物の匂いが、
静かな店の空気にやわらかく混ざる。
しばらく食べ進めてから、
榊がぽつりと言った。
「昔の僕は」
「はい」
「たぶん、もっと隠していたと思います」
紬は箸を止める。
「今より、ですか」
「今より、です」
「……そうですね」
紬は正直に言う。
「たぶん、そうだったと思います」
榊は少しだけ笑った。
否定されなかったことに、
どこか納得しているような顔だった。
「今日、電話で少し強く言われたんです」
「仕事で?」
「はい。こちらの確認不足もあって」
「……」
「大きな問題ではないです。ただ、重なると少し堪えますね」
その言い方が、
紬には少し新鮮だった。
堪えますね。
榊が自分の消耗を、
そんなふうに言葉にするのを、
以前の紬はほとんど知らない。
「言うんですね」
気づけば、そう口にしていた。
榊が目を上げる。
「何をですか」
「そういうこと」
「……前は言わなかった、という意味ですか」
「はい」
「そうですね」
榊は少し考えるように視線を落とした。
「前は、あまり言わなかったと思います」
「どうしてですか」
その問いに、
榊はすぐには答えなかった。
店内には低い話し声と、
食器の触れ合う小さな音だけがある。
その静けさの中で、
榊は言葉を探しているようだった。
「言っても」
やがて彼は言う。
「どうにもならないと思っていたのかもしれません」
「……」
「それに、自分の状態を言葉にするのが、あまり得意じゃなかったです」
「今もですか」
「今も、得意ではないです」
「でも、前よりは言いますよね」
「はい」
「どうして変わったんですか」
榊は少しだけ苦笑した。
「変わった、というより」
「……」
「言わないままでいることのほうが、よくないとわかったからかもしれません」
紬はその言葉を、
すぐには飲み込めなかった。
言わないままでいることのほうが、よくない。
それはたぶん、
この前二人で話したことにもつながっている。
言わなかったこと。
聞かなかったこと。
やさしさのつもりで省いたこと。
でも今の榊の声には、
それだけではない響きがあった。
「言葉にするのが苦手、というより」
紬はゆっくり言う。
「言葉にしないほうを選んでいたんですか」
榊は少しだけ目を伏せた。
「……そうですね」
「どうして」
「相手に負担をかけたくなかった、というのもあります」
「はい」
「でも、それだけじゃなくて」
彼はそこで一度言葉を切る。
「言ったところで、うまく受け取ってもらえないかもしれないとか」
「……」
「自分でも整理できていないことを口にして、余計に面倒にしてしまうかもしれないとか」
「そういうことを考えると、黙っていたほうが早い気がしていました」
紬は静かに息をついた。
それは、少しだけ意外で、
でも思い返せば納得もできる話だった。
榊は昔から、
何でも一人で処理できる人に見えていた。
感情を乱さず、
必要なことをきちんとこなし、
人に余計な負担をかけない人。
でもそれは、
本当に強かったからというより、
そうしていたほうが安全だったからなのかもしれない。
「拒まれるのが嫌だったんですか」
紬は自分でも驚くほど静かな声で聞いた。
榊は少しだけ目を見開いた。
けれど、否定しなかった。
「……たぶん」
「そうですか」
「はい」
「意外です」
「そうでしょうね」
「榊さん、そういうのを怖がらない人だと思っていました」
「怖がりますよ」
榊は少し笑った。
「かなり」
「そう見えません」
「見せないようにしていたので」
その一言に、
紬の胸の奥が静かに揺れた。
見せないようにしていた。
それは、今までの榊を説明する言葉として、
あまりにも腑に落ちた。
わかりにくい人だったのではない。
何を考えているかわからない人だったのでもない。
見せないようにしていた人だったのだ。
「……知らなかったです」
紬は小さく言う。
榊は少しだけ困ったように笑う。
「はい。たぶん、知られないようにしていました」
「どうしてそんなことを」
「そのほうが、うまくやれると思っていたからです」
「うまく」
「はい。仕事も、人間関係も」
「……」
「弱いところや迷っているところを見せると、相手に余計なものを渡してしまう気がしていました」
紬は視線を落とした。
その感覚は、
まったくわからないものではなかった。
むしろ、自分にも少し似ていると思う。
言えば相手を困らせるかもしれない。
整理できていないものを渡すのはよくない。
だったら、自分の中で処理したほうがいい。
そうやって、
言葉にしないことを選ぶ。
「似ていますね」
紬が言うと、
榊は少し驚いたように笑った。
「何がですか」
「私たち」
「……そうかもしれません」
「前は、あまりそう思っていませんでした」
「僕もです」
「私は、榊さんのこと」
紬は少し迷ってから続ける。
「もっと、平気な人だと思っていました」
「平気な人」
「何でも自分で整えられて、あまり揺れない人」
「買いかぶりです」
「今はそう思います」
「今は、ですか」
「はい。今は、違ったんだなってわかるので」
榊はしばらく黙っていた。
その沈黙は、否定ではなかった。
「朝倉さんにそう言われると」
やがて彼は言う。
「少し救われます」
「どうしてですか」
「前の僕を、強かった人として誤解されたままより」
「……」
「言えなかった人だったとわかってもらえるほうが、たぶん正確なので」
紬はその言葉を聞いて、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
言えなかった人。
それは弱さの告白のようでいて、
同時に、過去の不器用さをそのまま差し出す言葉でもあった。
「でも」
紬はゆっくり言う。
「言えなかったからって、ずるかったわけじゃないです」
「……」
「少なくとも、今はそう思います」
「今は」
「前は、わからなかったので」
「はい」
「何を考えているのか見えないことが、少し寂しかったです」
「……すみません」
「謝らないでください」
紬は首を振る。
「私も、言わなかったので」
「はい」
「ただ」
そこで少しだけ息をつく。
「今のほうが、ちゃんと見えている気がします」
榊は静かに紬を見た。
「何がですか」
「榊さんが」
「……」
「どういうふうに黙る人だったのか」
その言葉に、
榊は少しだけ目を伏せて笑った。
「難しい言い方ですね」
「そうですね」
「でも、たぶん合っています」
「よかったです」
食事を終えて店を出ると、
夜の空気は思ったより冷えていた。
駅までの道を、二人はゆっくり歩く。
人通りは多すぎず少なすぎず、
話すにはちょうどいい静けさだった。
「今日みたいに」
紬が言う。
「榊さんが、少し疲れているのが見えるのは」
「はい」
「なんだか不思議です」
「悪い意味で?」
「いえ」
紬は少し考える。
「前より、人間らしいです」
「それは褒められているんでしょうか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「かなり」
「では、そう受け取っておきます」
紬は少し笑った。
榊も小さく笑う。
そのあとで、
紬はふと思ったことを口にする。
「今は、言ってくれますよね」
「……」
「少しは」
「はい」
榊は静かにうなずく。
「今は、言いたいと思うので」
「どうしてですか」
「前より」
彼は少しだけ言葉を選ぶ。
「受け取ってもらえる気がするからかもしれません」
「……」
「それに、言わないままで失うほうが、たぶん怖いです」
紬は足を止めそうになるのを、
かろうじてこらえた。
言わないままで失うほうが、怖い。
その言葉は、
過去の二人にも、
今の二人にも、
まっすぐつながっていた。
「……そうですね」
紬は小さく言う。
「私も、少しわかります」
改札前に着くと、
いつものように別れの時間が来る。
「今日はありがとうございました」
榊が言う。
「こちらこそ」
「少し、話しすぎたかもしれません」
「そんなことないです」
「本当ですか」
「はい」
紬は少しだけ笑う。
「知らなかったことを知れて、よかったです」
「……」
「榊さんのこと」
榊は一瞬だけ言葉を失ったようだった。
それから、静かにうなずく。
「僕もです」
「何がですか」
「朝倉さんに、そう言ってもらえたことが」
電車に乗ってからも、
紬はしばらくその言葉を思い返していた。
言えなかった人。
それは、昔の榊を責める言葉ではなく、
ようやく正しく見つけた輪郭のように思えた。
わからなかったのではない。
見えていなかっただけでもない。
見せないようにしていたものがあって、
自分もまた、それを見ようとしきれていなかった。
恋人だった頃より、
今のほうが相手のことを丁寧に見ている。
その事実は少し切なくて、
でも、たしかに救いでもあった。
夜、榊から届いたメッセージは短かった。
「今日はありがとうございました。少し疲れていたぶん、余計なことまで話した気もします」
紬はその文面を見て、
小さく笑う。
余計なこと。
たぶん榊にとっては、
そういう言い方になるのだろう。
でも紬には、
それが余計なことだとは思えなかった。
「こちらこそありがとうございました。余計なことじゃなかったです」
と返してから、
少し迷って、もう一文だけ足した。
「前より、榊さんのことがわかった気がしました」
送信したあと、
少しだけ胸が熱くなる。
しばらくして返ってきたのは、
短い一文だった。
「それなら、話してよかったです」
紬はその言葉を見つめながら、
静かに目を閉じた。
話してよかった。
知れてよかった。
そういう小さな積み重ねの先に、
今の二人は立っている。
あの頃にはできなかったことを、
今になって少しずつできるようになっている。
それが遅すぎるのか、
ちょうどよかったのかは、まだわからない。
でも少なくとも、
今日知った榊は、
もう“わからない人”ではなかった。




