第四十六話 舞台の裏で・弐
無音の世界と化する深夜の病棟。
廃病院というわけではないのに、幽霊がでてきそうで少々足がすくんだ。
看護婦に見つからないよう、慎重に行動しなければならない。
なんて言ったって、今は脱走している真っ最中なのだから。
死ぬまで借金まみれの人生が約束され、絶望にさいなまれた俺は
仮死状態の父親を見捨てた。
・・・・親父。
恨みや妬みの対象であった男。
自分の手で、この手で殴った憎々しい男。
そして・・・・・・誰よりも救いたかった、“お父さん”。
小さい手で一生懸命背中をさすり励ました、あの日の無垢で無知な俺。
黒い喪服の親父は、いままでの親父の中で見たこともない人だった。
運命の歯車が一瞬にして狂うきっかけとなった母の死を、俺は許さない。
_____さようなら、親父。
薄明かりが照らす階段を静かに下りていく。
入り組んだ施設を右へ左へ進んで、どうにか抜け出すことに成功した俺は
何か不思議な力に引きずられるように咲が丘村を目指して歩き始めた。
陽は昇り、黒雲に呑まれてやがて沈んだ。
ずっしりと張り付く服を絞れば、ぞうきんのように水が出てくる。
「・・着いた・・・・」
息を切らして、目的地へと足を踏み入れた。
あの町と咲が丘村は案外近かったから、一日で辿りつけたのだが
豪雨と言ってもよいほどの鋭い雨に打たれた挙句、
何も食べていない俺は衰弱しきっていた。
殺風景な田舎道。足元の水たまりではアマガエルが主役を気取っている。
げろげろと声を張って存在主張に必死なようだ。
目の前が急に眩しくなり、目を細めて前を向くと
ざぁっと水をはじきながら黒くて長い自動車が前から向かってくる。
あまり見慣れない形だ。
少し気になったが、追いかける気力も体力も失ったので
ただただ家へと向かうしかない。
ふと、役所と隣接した施設が照らされているのが見えた。
周囲は村の人で群れていて、身を黒く包んだ大人たちが
次々に施設から出ていく。
皆傘をさしているので、よりいっそう混雑しているような感じだった。
傘の間間から垣間見える、神妙な面持ちの男性に涙を拭う女性。
その様子は、どうみても“葬式”のようだ。
「誰か亡くなったのか・・・?」
衰弱しているはずの体は、いつの間にか葬式場の前にあった。
わりと遠い場所からでも見える深い黒の墨で書かれた、整った文字に
戦慄が走る。
・・・・俺は、その響きを確かに知っていた。
「辻、玲子・・・・」
嘘だろ。紘斗の母さんが死んだのかよ。
信じられなくて、太く綴られた三つの漢字を何度も見たが変わらなかった。
死んでもよかった俺の親父は生きていて、
死んでほしくなかったあいつの母親は亡くなるなんて。
俺はこの世界に見限られたのだろうか。
存在してはいけない謎の生物だったのか。
生まれてこなければ、こんなにも苦しい想いをせずにすんだのにな。
俺もあいつも親を亡くして一人、孤独に落とされたのだ。
それでも、あいつには成瀬蘭や鈴という双子と一緒にいられる場所がある。
正直言って、うらやましいとさえ思った。
「・・・・何考えてんだ、俺・・・」
親友が辛いときに・・・・。
「ねぇ。あなた」
「・・・・え。・・・・・・成瀬?」
現実に呼び戻されて、顔を上げると
赤い傘をさした同級生の成瀬蘭がそこにいた。
村の中でもかなり有名な人気者が自分の前にいることが不思議でならなかった。
普段の彼女らしくない沈んだ表情。
可愛らしい澄んだ大きな目には光がない。
前に立っているということは
施設から出てきてこれから帰るところなのだろう。
彼女もきっと玲子さんの死を受け入れられていないんだなと、
変に確信がもてた。
「どうしてすぐにこなかったの?
もう葬式は終わったのに、いまさらきたって遅いじゃない!」
「・・・・。悪い」
説明しようにも思考が上手く回らなかった。
色々言われたが、ひたすらに謝るばかりであった。
次第に叫びに変化する蘭の声。俺はある言葉に耳を疑う。
「紘斗はね、記憶喪失になったんだよっ!!」
「!?・・・・どうして」
「玲子さんが死んじゃったからに決まってるじゃない。
・・・。昨晩事故で亡くなられたのよ。
心配だったから、今日の昼に鈴と二人で紘斗の家に行ったけど
当の本人はいなくて。結局は霞河神社にいたの。
抜け殻みたいにつったっていたわ。
そしてこう言ったのよ。『紘斗って、俺の名前?』・・・と」
記憶、喪失・・・・。
心で何回もその言葉を繰り返し唱えていたら、
急に蘭の顔がぼやけて見えはじめた。
「あれ・・・・・?」
「・・どうしたのよ」
「いや、なんでもない。ただ・・・」
「ただ?何?」
口端を持ち上げて吐き捨てる。
「ある意味これでよかったのかもな」
自分の口からでた言葉に、思わず俺も驚いた。
目の前の少女からてのひらが勢いよくとんでくる。
ばちん、という破裂音とともに俺の意識は途絶えた。
久しぶりの投稿でした。




