バイトの男性。
早めに終わらせると言いながら遅くなりすみません!
※6/9:誤字を修正しました。
「私と、結婚してくださいませんか? 愛しい私の運命の人」
男性は跪き女性の可憐な左手を無駄のない動作で手に取ると、ゆっくりと彼女の手に顔を近づけ、女性の目をまっすぐに見つめながら薬指にそっと優しく愛おしそうに口付けを落とす。途端に女性は耳まで真っ赤になり、口は金魚のように開け閉めしを繰り返した。
「あ、ああああのっ、えっと、そのっ!」
そんなわたわたと気が動転している女性の姿はうさぎのように愛らしく、男性は自然にくすりと柔らかい笑みがこぼれる。そんな優麗な笑みを直視してしまった女性は言葉を詰まらせると、爆発したかのように急激に顔をこれでもかというほど赤らめた。自分が有り得ないほど赤くなったことに今更ながら恥ずかしくなった女性は、赤くなった顔を見られないように急いで顔を伏せる。しかし男性は跪いているため顔を伏せただけでは視界から消えてくれない。羞恥心が限界を超えた女性は目をぎゅっと瞑って現実から目を背けることしか選択肢がなかった。
以上。これは本人達だけの主観的な視点である。
ではこの状況を客観的に見てみよう。そうすると、男性は男装をしている女性に見えるし、女性は女装をしている男性に見える。つまり女性が男性に求婚しているように見えているのだ。
しかも周りにも目を向けてみると男性の友人は女性にアッパースイングを食らい床に倒れており、女性からおまけと思われている女性の親友は、男性の「俺は男だ!」という魂からの叫び声が聞こえていなかったのか「きゃあああ! 性別を超えた禁断の恋愛!? 同性愛でも私は応援するよ! むしろもっと積極的にやるべきよ! ハァハァ、いいよぉ、もっともっとぉ」と変体発言を大きな声で叫んでいる。
そんな異常な状況の中、唯一一人だけ正常な女性の親友は、このカオスな状況に顔を引きつらせながら周りを見渡した。するとちょうどこの店でバイトしている男性と目が合ってしまい、自分が騒がしくしたわけではないのに申し訳無さそうに頭を下げる。下げられたバイトの男性がそれに対して苦笑いを返すと、親友はもう一度自分の置かれている状況を把握し、もうここから逃げ出したいと頭を抱えた。
そんな彼女の姿を見たバイトの男性は彼女の姿が、彼女の隣で恋愛劇を繰り広げている男性と関わることによって苦労している普段の自分の姿と重なってしまい気の毒に思う感情が倍増する。バイトの男性は自然と手を合わせて目を閉じると心のそこから願った。どうか彼女に幸あらんことを、と。
*
バイトの男性がバイト先に来たとき、既に店内は普段以上に賑わいを見せていた。客のほとんどは男性客で、もう彼は来ているのか、と驚きつつも先に来ていた店長に声をかける。
「おはようございます、店長。すみません、我がままを聞いてもらって」
「やあ、おはよう。いやいや、いいよ、気にしないで。それに、彼が来ると売り上げが伸びるから私的には大助かりだから」
店長は茶目っ気たっぶりにウインクをしてみせ、「はい、忘れ物」と男性に指定のエプロンを渡す。ありがとうございます、とお礼を言って受け取り、エプロンを着ながらこの賑わいの元凶とも言える存在に目を向けた。
一緒に来ていた友人に何か言われたのか、元凶の彼はムスッと眉間にしわを寄せ、笑っている友人の顔に素晴らしく美しいフォームの右ストレートを決めている。続けて二人は口論をしているようだったが、元凶の彼は怒りを抑えられなくなったのか雄叫びを上げた。
「あーくそっ! 俺は男だ! 美女じゃねぇ!」
ああ、まだ彼は男性だと認めてくれる人に会っていないのか。彼のことを不憫に思いながらバイトの男性は使用済みのテーブルの片付けを始め、彼の特殊な人生に巻き込まれた自分の苦労の絶えなかった人生を振り返った。
*
バイトの男性の苦労はまず同じ歳の従弟に恋をしてしまったことから始まる。彼にとってその恋は初めての恋だった。
七歳のときに婚約者だと紹介された従弟はとても可愛らしく、一目見た途端に胸がきゅーと締め付けられ、心に甘酸っぱいものが広がる。ああ、これが本で読んだ"恋"と言うものなんだ。恋した相手が婚約者なんて僕は何て運がいいんだろう。彼は嬉しくなり、取り繕う暇もなく満面の笑みが顔に浮かぶ。
しかし、その初恋は恋に落ちた三秒後、従弟が口を開いた瞬間に破綻することになった。
「……あの、彼が婚約者だと言われても困ります。私、男のなので。私と結婚しても子孫を残すことが出来ませんよ。そもそも、彼がどうかは知りませんが、私はそのような特殊な性癖は持ち合わせておりません。即刻破棄してもらえますか。つか破棄だ、破棄。俺はこんな婚約認めねぇ。さっさと取り消せ」
その従弟というのが店を盛況に導いている彼だったのだ。初恋は叶わないというが、彼の初恋はわずか三秒で儚く散っていった。
「えっ、男、なの?」
「あ? ああ、俺は男で間違いない。ちゃんと調べも付いている。なのに何でか知らないが説明しても周りから女に間違われるんだよ」
「……」
驚きすぎて口をあけたまま言葉に詰まり固まっていると、従弟は鼻で笑う。しかし、その笑みはどこか自虐を含んでいるように感じた。
「はっ、どうせお前も信じられないんだろ? 親でさえ何度証明して見せても信じないんだからな」
従弟が笑いながら言う。
僕と同じ歳なのに、彼は既に世界に存在するすべて不幸を知っているような表情をするんだな。バイトの男性は先ほどの恋に落ちたときとは違う意味で胸が締め付けられた。従弟の表情は見るほうも辛くなるような悲痛な笑みを浮かべていたのだ。そんな従弟の表情を見て彼は強く誓った。
――――せめて僕だけでも彼の助けになろう。
「僕、君のこと信じるよ。僕は君を支えたい。婚約者ではなくて僕の友達になってくれないかな」
「……は?」
今度は従弟が口を開けて固まる。その数秒後、彼が言ったことの意味を理解したのか従弟は噴出して壮大に笑い出だした。その笑顔からは自虐も悲痛も感じない。歳相応の笑顔を見せる従弟を見て彼も頬がゆるむ。
「これからよろしくな、俺の友達」
「うん! よろしくね、僕の友達!」
こうして彼らは友達になったのだが、従弟の性別の説明をして回ったり、ジュースを買いに行かされたり、従弟に寄ってくる男性達を説得したり、お菓子を買いに行かされたり、従弟の性別を勘違いしている男性に嫉妬の視線を向けられたり、従弟の代わりに怒られたり、実際に恨まれて襲われたりしながら、彼はその度にこのときの決意を後悔することになる。
*
「俺、友人を探そうと思うんだけど、いいやついるか?」
「友人?」
そう従弟がバイトの男性に打ち明けたのは友達になって八年後、二人とも十五歳になったときだった。
いくらバイトの男性が立ち回って誤解してくる男性達を遠のけても一人ではどうしても限界があり、言い寄ってくる男性は後を絶たない。そのため、従弟に友人が出来てくれるのは彼にとっても助かる。それに、従兄である自分以外に人を近づけようとしない従弟が自分から友人を作ろうとするなんていい傾向だ。
いいこと尽くしではないか、そう思いたった彼は早速従弟の友人になっても大丈夫そうな人物を調べ、調べが付くとすぐに従弟のもとに向かった。数名の友人候補の報告書を渡しながら、簡単に友人候補に選んだ男性の説明をする。
ぱらぱらと見ていた従弟はある程度見終わると、報告書を返しながら彼に顔を向け、誰がいいと思うかと聞く。
まさかほぼパシリ扱いされている自分に意見を聞いてくるなんて思ってもいなかった彼は少し驚きつつも、報告書を捲り自分がおススメする男性の報告書を従弟に手渡した。
「そうだなぁ、僕はこの男性がいいと思うよ。彼なら僕たちと身分もつり合うし、なんと言っても彼の性格なら君の性別も特に気にしないと思う」
「そうか。じゃあこいつにする」
じゃあ行って来る、従弟はそう言うと家から出て行った。今から行くのか。従弟の行動力に驚きと感心を抱き、彼はとあるカフェのバイトの面接に向かった。ちなみに彼は無事にバイトに合格し、このカフェが今盛況となっているバイト先である。
*
十八歳になって数ヶ月経った頃、従弟がバイトの男性の部屋に怒鳴り込んできた。
「何で女装なんてしないといけないんだよ! 俺は男だぞ!? ドレスなんて着ない!」
「まあまあ、落ち着きなよ。ほら、君の好きなコーヒー。ちゃんとホットだから」
口を尖らせながらも従弟はコーヒーを口に含んだ。さすがに十一年も付き合っているため彼も従弟の扱い方が身に付いている。従弟がこうやって怒鳴り込んでくることもある程度予想が付いていた。しかし、その前に行動しなかったのはその対処法が思いつかなかったからだ。落ち着いた従弟に、僕も考えてみるからと説得し家に帰し、どうしたものかと頭を悩ませる。特に案も出ずに数日が過ぎたある日、従弟がまた突然部屋に頼みごとを引っ提げてやって来た。内容はバイト先を貸してくれというもの。
どうやら十五歳のときに友人になった男性から「男の格好をしてもお前が男だと認められなかったらそのときは潔く女装をしてオレとパーティに出ること」という条件のもと、服を借り受けたらしい。その男性と直接話したことはないが、従弟の話を聞く限りいかにも彼が出しそうな条件だ、と思いつつ店長に相談してみるよ、と返す。
「頼んだ。あ、もし、俺のことを男だと認める人物が現れなかったらお前が俺のパートナーを務めろ」
「え? 何で?」
「あいつとパーティに参加するなんて死んでも嫌だ。あいつと出るくらいならお前と出る。何かのためにと思ってあいつとお前を会わせないでよかったよ。閉店まで誰も認めるやつがいなかったら、俺が合図するから来いよ」
「え、あ、うん。分かった」
従弟は頑なに彼を友人に紹介することを拒んでいた。理由を聞いても教えてくれなかったが、こんなときのことを考えていたなんて、と彼は従弟の先を見通す力に感心する。だが続いて、あれ? と彼は疑問が浮かんだ。結局僕と出るにしても、従弟が女装することは変わらないのでは? と。しかし、彼の返事を聞いて満足そうにしている従弟にこのことを聞くのは酷だと判断した彼は硬く口をつぐんだ。
そして、そのバイト先を貸す日が今日なのである。
*
カランコロン、という扉の開閉を知らせる音でバイトの男性は思い出に飛ばしていた意識を現実に戻す。意識を飛ばしながらも自分がやるべきことはきちんとやっているあたり、彼も大分バイトに慣れた証拠だろう。
彼は来店してきた客に決まり文句となっているセリフを言うため客のほうを向く。女装をしている、男性? 客を見て躊躇しながらもセリフを言い、その客のことを少し考えていると、店長から声が掛かる。
「あ、食器が溜まっているね。ごめん、洗ってきてくれるかな」
「はい、分かりました」
思考を中断し、店長に頼まれた食器を洗う仕事をするために裏に引っ込む。仕事の速い彼が大体洗い終わり、あと少しだ、と士気を上げると「私は女ですっ!!」という叫び声が聞こえ、何かが殴られ倒れる音がした。彼は何だろうと疑問に思いつつも作業を止めず、任された仕事を遂行する。全て洗い終わり表に出てみると、冒頭の従弟の求婚現場に出くわしたのだった。
一見すると男装をした女性が女装をした男性に求婚しているように見える。しかし、男装をしているように見える人物の本当の性別を知っている彼からすると、男性が女装をしている男性に求婚しているように思えた。
だが、従弟はそのような特殊な性癖はないと言っていたのだから、相手は女装をしているように見えるが多分女性。相手の近くに従弟の友人が倒れているため相手は「私は女です!」と叫んだ人物だと思われた。
相手の方も従弟同様性別を間違われ続けてきたのだろう。誤解されるもの同士、きっと相手の正確な性別が分かるのかな。
そこまで推測した彼がもう一度従弟たちのほうに視線を向けると、相手の親友と目が合い会釈された。表情と状況から読み取って、きっと五月蝿くしてすみません、というものだろうと当たりをつけ苦笑いを返す。その後、紆余曲折を経て従弟たちと相手側は店を出ることになった。
あまりにも自分と似ている相手の親友のことを他人事に思えなかった彼は、会計のとき彼女に「お互い大変な人と関わっていますが頑張りましょう」と声をかけた。それを聞いた彼女は彼の顔を見て神妙に頷いて去っていった。
彼から何か感じたものがあったのか彼女はよく彼の働くカフェに来るようになり、そこから彼らの新しい恋物語が始まるのだがそれはまた別の話である。
*
「…………。――っ!? え、君、お、おおお男になってる!?」
パーティの直前、従弟を見て驚愕したバイトの男性は、従弟のために準備していたコーヒーカップを指からするりと滑り落としてしまった。遠くの方でも何かが落ちる音が聞こえていたが、興奮している彼の耳には入っていない。
彼の第一声を聞いて従弟は怪訝な顔を彼に向ける。
「は? 俺は元から男だ」
「いや、それは知っているよ? そうじゃなくて、今まで男だと知ってても女に思えていた君が、今は男に見えているんだよ!」
それを聞いた従弟は「本当か!?」と声を荒らげ彼に詰め寄り両肩を勢いよく掴んだ。彼は従弟の勢いに圧倒されながらも何回も頭を縦に振る。その行動を見てようやく納得した従弟は彼の肩を放した。肩を放され自由になった彼は割れたカップを片付け新しくコーヒーを入れなおす。
新しいコーヒーを従弟に渡し、従弟から彼らの「性別を逆に見られる」という異常が発生する理由を聞いていた彼は、従弟に祝福の言葉を送る。
「君が男に見えているってことは、彼女とようやく結ばれたんだね。おめでとう」
「ああ。ありがとう」
従弟に向けて彼は目を細めて柔らかく微笑むと、従弟は嬉しさを隠しきれていない素直な笑顔を見せた。従弟の心からの笑顔を見るのは僕が友達になろうと言って以来だな、と思いながら彼も自分の分のコーヒーを飲み、質問攻めに合うだろう自分の姿を想像しこれからに備えて一息ついて気を引き締める。
会場に着くと案の定従弟について質問するために集まってくる人たちに囲まれた。ふと視線を横に向けると、彼の横でも彼と同じように相手の親友が質問者たちに囲まれている。ちょうど目が合った二人は相手の状況を見て苦笑を見せるが、すぐに質問者に埋もれ見えなくなった。
質問攻めに合いながら丁寧に質問に答えていると、質問し終えた人たちが動き隙間が開いて従弟と相手の女性の姿が彼の目に入った。仲睦まじく寄り添う二人を見て心がじんと温まり自然と彼の顔がほころぶ。
せめて僕だけでも彼の助けになろう、そう七歳のときに誓った決意を今まで何度も後悔してきたがあの時の決意は間違っていなかった。そう思うと目頭が熱くなり、彼は涙を零さないように上を向いて耐える。
はぁーと気持ちを落ち着けるために長く息を吐いて、正しい性別で見える美男美女の姿を目に焼き付けるため、もう一度従弟たちの方に視線を投げた。
「おめでとう」
聞こえないと分かっていて彼がポツリと呟いた二度目の祝福は予想通り会場の騒ぎで打ち消される。しかし、その祝福が聞こえていたのかのようなタイミングで従弟と相手の女性は彼の方を振り返り、彼に向けて嬉しそうに微笑んだ。
あーあ、せっかく耐えていたのに。彼は頬に伝うものを感じつつ、二人に精一杯の笑みを返した。
これでひとまず本編は完結です。
色々と省略してしまった話を番外編として書きたいと思っていますが、番外編を投稿するまでは完結扱いとさせていただきます。
今までお付き合いありがとうございました。