変らない日常と変わりゆく認識 6
拒否反応の正体が分かったところで、次に浮かんだ疑問を口にする。
「先輩、どうして聖水なんて持っているんですか?」
「どうしてって、決まっているでしょ。」
先輩は大人びた笑みを浮かべて、胸元に入れたアクセサリーを取り出す。
「そう言う所の、従順な信徒だから。」
銀色に輝く十字架を見せて先輩は言う。
十字架を目にした途端、僕の中で言い表せない程の恐怖が広がった。
妓詠が首を落とされた時や、不知火の腹部が貫かれた時よりもずっと怖い。心底恐ろしい。理性的なモノではなく、本能的な恐怖。
聖水と同様、十字架の存在を身体が拒絶している。これも吸血鬼の特性だろうか。後で妓詠に聞いてみよう。
「黒井君も入信する?」
「折角ですが、遠慮しておきます。僕は神様とかあまり信じていないので。」
化物に成り下がった身でありながら、僕は白々しく答える。祈りの言葉をずっと聞いていると身体が消えてしまうのではないだろうか。
「まぁ、宗教勧誘はご法度だから、この話はここまでかな。」
先輩はすんなりと引き下がった。僕の天敵であろう宗教は、案外節操のある団体なのかも知れない。
不知火同様、話せば分かり合えるのだろうか。だとすれば優しい世の中だ。
「勧誘は別としても、困った事があったら相談してね。可愛い黒井君の為に、私が一肌脱いじゃうんだから。」
先輩は右腕を曲げ、力こぶを作る仕草をする。とても力で問題を解決できそうにも見えないが、頼もしい先輩だ。
「勉強に関しては、何時も頼らせてもらっていますよ。それに僕は可愛くないです。」
「黒井君は可愛いよ。私が頭撫でてあげるね。」
先輩は僕の性別もきちんと理解しているが、親しくなってから今までずっと君呼びをしている。理由は単純、そっちの方が呼びやすいから。特に深い意味は無いらしい。
先輩は僕の頭を胸元に抱き寄せて、優しい手つきで頭を撫でてくる。柔らかく豊満な胸部が、僕の顔を優しく包み込む。
「よぉしよし。いい子だよ。」
おっとりとした声で囁かれて、顔が緩んでしまう。
「何か困った事があったら、先輩に言うんだよぉ。例えば……。」
先輩は耳元に口を近づけ、低い声で囁く。
「吸血鬼に関する事とか、ね。」
そのひと言で、室内の空気が凍りつく。身体が硬直し、冷たい汗が背筋をつたう。
自身の感情を悟られないよう、平静を装って言葉を紡ぐ。
「万にひとつでも、そんな奇妙な出来事に見舞われたなら、相談させて貰いますよ。」
「ふふふ、そうしてくれると嬉しいな。」
先輩はそう言い、顔を離す。
先程までと変わらない、穏やかな笑みを浮かべている。
「ところで黒井君、放課後とか時間取れるかな?」
「え。えぇ。帰宅部ですので時間は有り余るほどです。」
話の方向転換に戸惑いつつも、素直に答える。こんな所で嘘をついても仕方がない。
「だったら、何処かで会えないかな。できるだけ、人目につかない所が良いんだけど……。」
突然の提案に思わず目を見開く。
「人目につかない所ですか。」
「そう、それなりに広い場所が良いんだけど……。」
先輩は上目遣いに僕を見てくる。僕に会って、何を話したいのだろうか。
愛の告白だろうか。僕はできれば異性の恋人が欲しいのだが、優しくて可愛くてスタイルも良い先輩ならば、満更でもない。
「学校とかどうですか。二十時を過ぎれば静かですよ。」
浮ついた心を隠しつつ、学校を提案する。昨日、妓詠や不知火と会った時間ならば、人は居ないだろう。それに校庭などは、人目にもつかないので丁度良い。
「良いわね。私の方で準備する事があるから二十時半頃に校庭に集合で良いかな。」
「はい。構いませんよ。」
先輩の言う準備とは、何の事だろうか。まぁ、行ってみれば分かる事だろう。なるようになれだ。
こんな短絡的思考も、化物になった影響だと思いたい。
「そろそろ、昼休みも終わるわね。お茶、飲んじゃいましょう。」
壁に掛けられた時計を見ると、昼休みも残り十分ほどだ。先輩はコップに残った紅茶を一気に飲み干す。僕も先輩に倣って、紅茶を流し込む。
やはり痛い。胃から喉まで伝う痛みと、頭に走る痺れ。身体全体が聖水を排除しようとしているのを感じた。
「それでは、今日は御馳走様でした。」
「はぁい。お粗末様でした。片付けは私がやっておくから、戻って良いわよ。」
「いつもすみません。失礼します。」
「うん。あ、今日の夜、忘れたら駄目だからね。」
「勿論、遅れない様にします。」
先輩に頭を下げて、僕は図書室を後にする。
教室に戻って暫くしても、身体の奥に広がる痛みは消えなかった。普段通りに言葉を発することができたには、不幸中の幸いだった。
結局、身体の調子が完全に戻ったのは、放課後の事。人の居なくなった教室で。妓詠に首をかまれた後だった。




